41:我儘と高飛車
その声は唐突だった。キンキンと甲高いそれは、没頭していた三人の集中力を削ぐには十分であった。
「何であたしがここまで来なくちゃいけないのよ!」
「す……すみません、セルフィさん。しかしですね、一度ドレスをしっかり体に合わせなければ、出来上がっても寸法が足りなかったり――」
「それくらい分かってるわよ! 問題はどうしてあたしたちがこんな辺鄙な所まで来ないといけないのかってこと。何よ、仕立て屋の方がこっちに来ればいいじゃない!」
「すみません……。しかしドレスを持っていただくとなると馬車の準備も必要ですし、それに急ぐよう無理を言っているのはこちらの方なので……」
「あんたのそういう所が嫌いなのよ! 何よ、お客様はこっちじゃない。こっちに合わせるのが向こうの仕事でしょう!?」
二つの声は徐々にこちらに向かってきていた。声の調子から、どうやらモリスと女性だということが窺える。
ドロシアがアイリーンを真っ直ぐに見据え、ふんと顎と扉にやった。どうやらお前が出迎えろという合図らしい。思いっきり顔を顰めたが、一応雇い主である彼女に命令されれば行かないわけにもいかない。アイリーンはしぶしぶ扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
「あ……どうもすみません。遅れてしまいまして」
ぺこぺこモリスは頭を下げる。その後ろでは、目を吊り上げた茶色の髪の女が腰に手を当ててこちらを睨んでいる。十分な愛想笑いとは程遠いが、それでもアイリーンは小さな笑みを浮かべた。
「いえ、こちらこそわざわざありがとうございます。どうぞ中へお入りください」
「はい、失礼します」
「ふん」
それぞれの反応を返しながら二人は連れ立って中へ入った。デニスが慌てて椅子を用意し、それに腰を下ろす。店の者の中では最も気が利く彼女。すぐに紅茶を用意して持ってきた。その手際の良さに、女性は少し気を良くしたようである。香りを楽しむようにして茶を嗜んでいた。
「すみませんねえ、ドロシアさん。私どもの要望で急がせてしまって……」
「なあに、大したことじゃない。気にせんでもええ」
全くどちらが客でどちらが店主なのか分かったものじゃない。
セルフィもそう思ったのか、再びふんと鼻を鳴らした。
「ところであたしのドレスはどこかしら。もう出来上がったんでしょう?」
「時間も時間だ、早速手直しに入っていこうかね」
「こちらへどうぞ」
アイリーンが席を立ってセルフィを案内した。モリスはもちろんその場に残ったままだ。目だけ心配そうにこちらを見守っている。しかしそれはデニスも同じく。
傍若無人な祖母と些か高圧的に見えるアイリーン。そして我儘そうなセルフィ。個性的なこの三人が一か所に集まればどんな結果になってしまうのか……。心配には心配だったが、手直しをする部屋は四人が入れるほど大きくはないし、その上で自分にはまだ扇子の刺繍という仕事が残っている。一度は不安げな視線をやったものの、デニスはすぐに手元に戻した。
大丈夫、お婆ちゃんは気に食わない人の声は全て無視する性質だし、アイリーンさんだって一応店員としての心がけは気にかけている。二人を信じよう。
そう、心の中で誓った瞬間のことだった。
「何よこれー。まだ全然できてないじゃない!」
カーテンの向こうから高い声が響いた。押さえて、とデニスが思う間もなく落ち着いた声が反応する。
「仮縫いの段階なんです。今は寸法を確かめるだけなので、装飾を付けることも無いかと」
「……何よ、偉そうに……!」
声はまだまだ続く。
「ちょ……!? きついわよ、コルセットもう少しゆるめて!」
「我慢してください。このくらいの方がこのドレスには映えるんです」
「だからってねえ、あんた……力の加減ってものがあるでしょうが!」
「あら、淑女の腰は十八インチが理想だということ、ご存じありません?」
アイリーンは挑戦するような笑みを浮かべた。それにセルフィは顔を真っ赤にしたが、淑女、という言葉が最後の理性のように、彼女の口を縫いとめた。それを見逃すアイリーンではない。
「じゃあもう少し我慢してくださいね」
一言そう告げると、更に力を入れた。
もともとアイリーン自身もコルセットはあまり好きではない。腰を細くしたり胸を豊かにしたり、ドレスの裾を広げたりと、その用途は実に様々だが、何より息が苦しくなって食べ物も碌にお腹に入れることができない。無料でたくさんの料理が食べられる夜会で、わざわざお腹を締め付けなくたっても良いというもの。
女性の理想の腰は十八インチというのも昔の風習だ。今ではそのような大それた細さを信じるのはほとんどおらず、いたとしても、昔からの伝統に固執する数少ない貴族の女性ばかりだ。今は緩くて楽なコルセットもあるし、あまり貴族らしからぬ生活を送っているアイリーンは、そもそもコルセットなど付けていない。ドレスを着る機会もないし、気軽に動けないので、いつしか社交界に出る時くらいにしか着用しなくなっていた。
とまあそういう訳で今のご時世ではそんなにきつくコルセットを締めなくても良い。……のだが、現在目の前にいるセルフィ。彼女がこれから行うのは今よりも少し古い時世を舞台にした劇である。ならばその時に合わせた衣装や振る舞い、そして流行った身なりをするのが最適と言えよう。当時流行っていた腰の細さは言うまでもなく……。
しかしあんまり締めるのも可哀想なので、ほどほどの細さで止めることにする。しかしどうもこの淑女には、お腹周りになかなかお肉があったので、最後最後と言いながらアイリーンはふんっと締めあげた。彼女は声にならない悲鳴を上げた後、ぐったりと動かなくなった。
これ幸いと、アイリーンは彼女にドレスを着せ、ドロシアに代わった。手直しとなれば腕を上げたり背筋を伸ばしたりと、意外とこちら側の注文も多くなる。きっとセルフィも嬉々として小言を募らせるだろうと思っていたのだが、しかしコルセットで締め上げられた彼女には、いちいち反応する気力ももう残っていないようである。
しーんとした中で手早くドロシアが直していく。アイリーンも無言で上からその様を観察した。自分のドレスを適当に直したことならあるが、人に着せたまま合わせるというのはやったことがなかった。なかな興味深いとしばらく見入っていた。
「……よし」
しばらくして、ドロシアが小さく呟いた。長時間しかめっ面をしながら直していたものだから、眉間に皺が寄ったままだ。彼女の険悪な表情とコルセットにもすっかり慣れたセルフィは、やれやれと首を振った。
「終わったの? もう脱ぐわよ」
「何言ってんだ。まだだよ、あちらさんに最後の確認をするんだから」
ドロシアは素っ気なく言い、道具を手早く片付けた。ようやく口を開いたかと思えば、そんな乱暴な言葉が。
アイリーンもアイリーンならば、ドロシアもドロシアである。すっかりへそを曲げたセルフィは、いよいよ何も話さなくなった。二対一のこの場ではなす術もないと推察したらしい。こちらとしてはその方が都合が良いので何も言わなかった。無言の最中、ドレスに合わせるために適当に髪も結ってコサージュを付けた。そうしていよいよお披露目の時がやって来た。カーテンを手で押さえ、先に行くようセルフィを促す。三人が連れだって部屋に入ると、モリスとデニスの二人が一斉に立ち上がった。その頬が嬉しそうに色づく。
「おお、ドロシアさん、お見事です。想定していた以上ですよ」
拍手でもしそうな勢いでモリスが近寄ってきた。ドロシアもなかなか鼻が高いのか、口元を緩ませた。
「本当です。セルフィさんもお綺麗ですね~。体にもぴったり合っていて」
ふい、と綺麗な眉が上がった。気を利かせたデニスの褒め言葉も、今の彼女には気に障るらしい。キッとアイリーンを見やった。
「ぴったり? どこがよ。あんたが無理矢理ぴったりにしたんじゃない! 何よ、直すのが面倒だからってコルセットきっちり締めちゃってさあ!」
ムキーッと頭を掻きむしる。せっかくコサージュを付けているのに台無しだ。
「あたし、このドレス嫌」
唐突にセルフィは言う。誰もが唖然とした。
「何よ、このドレス。白いだけで何の面白みもないし、それにこれ、この飾り何? 無駄に花だけ付けてればいいってもんじゃないでしょ。コルセットだってそうよ! きついし息苦しいし、そうなったら演技どころじゃないわ」
先ほどは二対一だったが、今は形勢逆転。何しろ、こちらには顧客主であるモリスがいるのだから、とセルフィは尊大に構えた。デニスの存在は最初から眼中にない。
セルフィは止めと言わんばかりに大袈裟に首を振った。
「あー止め止め。あたしこのドレスで演技なんかしないからね。変えないと一生舞台になんて上がらないからね!」
セルフィはアイリーンの矜持をズタズタにしたいのだろうが、残念ながら当の本人には何の損害も与えらえていなかった。何しろそのドレスの図案を持ってきたのもコルセットの指示も、全てモリスだからだ。彼女は現在、見当違いな怒り方をしていると言っても過言で
はない。
アイリーンはそっとモリスを見やる。意図していないとはいえ、セルフィはモリスを愚弄している。気弱そうな彼はどう対応するのだろうかと好奇心にあふれていた。その表情が、固まる。
「変更は許しません」
冷たい氷の様な声が響き渡った。気圧されたようにセルフィも固まる。まさかモリスに反論されるとは思っていなかったのだろうか。いや、アイリーンの方も同じことを思っていたのだが。
「あなたの演劇に対する想いはその程度ですか。ドレスが気に入らない? これらはあなたが気に入るように作っていただいているわけではないんです。全ては劇のため。役者のためにドレスや小物がある訳ではありませんよ」
セルフィの口がわなわなと震える。
「な、なに……何よ急に!」
「少し頭を冷やす必要があるようですね。それまで舞台には上がらなくて結構です。何ならそれこそ一生でも」
「……っ!」
ぱくぱくと口を開いては、閉じる。周りを見渡してみても味方はいない。三対一のこの状況に、次第にセルフィは居たたまれなくなってきた。デニスの存在はやはり最初から眼中にない。
く、と唇を噛みしめて彼女は荒々しく扉へ向かった。その後ろ姿にすかさずかかる声。
「出て行くのならドレスは脱いで行ってくださいね」
モリスだ。さすがのアイリーンでも、火に油を注ぐような、そんな言葉はかけられない。
最高潮に達しそうなくらいセルフィの顔は真っ赤だ。デニスは巻き込まれないようにススッと手直しの部屋への道のりを開けた。そしてその真ん中を足早に通り過ぎていく。ハッとしたアイリーンも、彼女に続いて手直し部屋に入った。
「何よ、慰めなんていらないわ!」
「いえ、一人だとコルセットが脱ぎ辛いと思って」
「~~っ!」
頬を真っ赤にしながらセルフィは髪からコサージュをむしり取った。それを見て、作り直しか、とひそかに嘆息しながらアイリーンはコルセットのひもを解く。脱げたと思ったらすぐにセルフィはコルセットを隅に投げ、四肢を広げる。
いつもなら解放感に溢れるこの行為に、今日はこんなにもイライラが募るなんて!
手早く服を身に着けると、今度こそセルフィは店を飛び出していった。嵐が去った後のように、途轍もない疲労感だけが残る。脱ぎ散らかされたコルセットやらドレス、コサージュを拾い集めて一か所にまとめると、やれやれとアイリーンはドロシアたちの元へと戻った。しかし彼女の気苦労はこれだけに留まらない。
「アイリーンさん」
冷たい視線がアイリーンに向く。モリスが、射抜くようにしてこちらを見ていた。アイリーンはビクッと無意識に肩を揺らした。他人にこのような目で見られたことなど……いや、あるにはあったが、そのほとんどはアイリーンの敵ではなかった。にもかかわらず、あのアイリーンが、一介の支配人に気圧されている。
「はい」
やはり私も何かやらかしてしまったのだろうか、叱責を食らうのだろうかと、アイリーンの頭はめまぐるしく回転する。身に覚えなど、山ほどあった――。
「演劇に出てみませんか」
「……は?」
モリスの口から出た言葉に、思わず目を丸くした。もちろん彼女だけではない。こいつは何を言っているんだと言わんばかりの表情のドロシアとデニス。
「演劇に出ませんかと言ってるんです」
聞こえなかったと思ったのだろう、モリスは再度繰り返した。しかしその冷ややかな視線と端的な言葉は、残念ながら他の者には急かしている様に聞こえた。
「――はい」
結果、それに釣られたアイリーンは、無意識に答えてしまった。
子爵令嬢アイリーン。生まれてからこの方、これほど眼力のある男など見たことがなかった。