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愛と鞭  作者: まくろ
第六話 令嬢暇なし
36/120

36:声をかけるのは

 ヒュルエル通りの人気洋菓子店。


 そこは、休日であっても夜であっても、いつも大勢の人で賑わっていた。店自体はこぢんまりしているが、その分店員を大勢雇っているので回転がいい。だからこそ、アイリーンもあまり気負うことなく存分に店の前で悩むことができた。


 そもそも、ここでケーキを買わなくてはならなくなったのも、ウィルドとの約束のせいだった。アイリーンとしては、パトリックから財布を取り返した暁には、その中身を以てしてケーキを購入しようという算段だったのだが、先日失敗に終わってしまった。だからこそ、こうして数日後、きちんとデザート分のお金を用意して再びケーキを買いに来たという訳なのだが。


「うーん……」

 数十分前からずっと店の前で唸っている金髪の女性。店員たちは、声をかけたくともかけられなかった。眉間にしわを寄せ、うんうん唸っている様は何だか不気味で、声をかけたら最後、妙なクレームでもつけられてしまうのではないかとの不安からだった。


 しかしアイリーンがなかなか決められないのは仕方のないことだった。何しろ、この店は人気店の名に恥じない値段をしているのだから。ケーキ一つの価格にしても目玉が飛び出てしまう。それを子爵家人数分、五個も買わなくてはいけないのだ。どれが一番安くて、おいしくて、弟妹達の好みに合うのか吟味するためには時間が必要だった。


 店員たちの困ったような視線を浴びながらも、アイリーンは店の前で粘る、粘る、粘る。そうしてようやく購入できた後は、ほくほく顔で店を出た。何だかんだ言ってやはりケーキが手元にあるというのは嬉しいものだ。財布の中はすっかり寂しくなったが、その代わり、満足感でいっぱいだった。


「アイリーン」

 しかしそんな中、彼女を呼び止める者が一人。嫌な予感を感じながらアイリーンは振り返った。そこに腕を組んで立つ者を視界に入れた途端、ヒッと喉の奥で悲鳴を鳴らした。目の前に、般若が立っていた。


「お前さん……ここで何しておる」

「あ、あの――」

「いや、何も言わんでいい。分かっておる」


 ふ、と自嘲の笑みを浮かべると、ドロシアは一歩一歩とアイリーンに近づいた。その様が何とも不気味で、彼女が近づくごとに、アイリーンもまた一歩一歩と下がった。


「これほどまでにあたしをやきもきさせたのはお前さんが初めてじゃよ」

「……特に嬉しくもない情報ありがとう」

「ふふふ……お前さん、あたしが最後に言った台詞を覚えているかい?」

「さあ……何だったかしら」


 アイリーンは首をかしげる。その額には、汗が光っていた。


「とぼけおって……」

 ドロシアは、一旦顔を俯けた。もしかして諦めた?と一瞬アイリーンの顔は期待で輝いたが、この老婦人がそれくらいで諦めるわけがなかった。バッとすぐに顔を上げると、勢いよくアイリーンの肩を掴んだ。


「三日以内に来いと言っただろう!? 何じゃお前さん、計算もできんのか? 日付も数えることもできんのか!? ほれ、今何日だ、あれから何日経ったか言うてみい!」

「……い、五日……?」

「馬鹿やろう! 六日じゃ、六日経っとんのじゃ! いつまであたしを待たせれば気が済む!」

「あ、あの、ちょっと落ち着いて……」

「これが落ち着いていられるかい!」


 うがあぁとドロシアは頭を掻きむしる。そうしたいのはこっちの方だと思わずアイリーンは嘆息する。


 もう嫌だこの人……。

 気のせいではない。周囲の人たちからは数歩距離を置かれている。ついでに白い目も向けられている。誰だってそうだろう。急にこのような往来で癇癪を起こす人とは距離を置きたくなるに決まっている。自分だってそうしたい。


「あ、あの、こんな所で話すのもなんだし、一度お店に戻ってから――」

「いんや、ここで話を付ける! ここで逃したが最後、あんたはまた一か月後にしか姿を現さんだろ!」

「はあ……」

「そもそもお前さん、何でこんな所にいる?」

「え?」


 はたとして、アイリーンは思わず右手のケーキの箱を見る。ふ、と口元を少しだけ緩ませると、再び視線をドロシアに戻した。


「ちょっと……その店にデザートを買いに――」

「とぼけるんじゃない! どうせ……どうせシャルルの店に行こうとしていたんだろ!」


 ビシッとドロシアは指を突きつける。その先は、先ほどアイリーンはケーキを買った店の真正面。高く掲げられた看板には、シャルル・ド・ヒュルエルと書かれていて――。


「ちょ、誤解よ! 本当に私、その店にケーキを買いに来ただけで――」

「嘘言え! どうせ……どうせシャルルの方が賃金がいいからって寝返ろうとしたんじゃろ!」

「はい?」


 とんだ誤解だ。ドロシアは被害妄想が酷い。アイリーンは頭を抱えると、幾度か呼吸を繰り返し、心身を落ち着かせた。


「何か勘違いしているようだけれど、私、この後あなたの店に行くつもりだったから」

 嘘である。ドロシアのことなどすっかり頭から放り出されていた。


「三日以内にそちらに顔を出せなかったのは……その、私だっていろいろ忙しいのよ。そんな暇なかったの」

 嘘である。単に忘れていただけだ。


「だから……今からでも間に合うのなら、私を雇ってくれませんか」

 おそらく本心である。その場しのぎの台詞感は否めないが。


「ふ、まあよい。そこまで言うのなら雇ってやらんことも無い」

 口元の笑みが隠しきれていない。偉そうな物言いに腹が立った。


「別に……手に職付けるのも悪くないと思っただけよ?」

「ひよっこが偉そうに。びっちりしごいてやるわい」

「あーはいはい」


 すっかり調子を取り戻したらしいドロシアに、アイリーンは適当に返事をして踵を返す。何だかものすごく疲れた。


「おい、アイリーン! 暇になったらあたしの店に来るんだよ。仕事はいつでも溜まってるからね!」

「はいはーい」


 期待しないで待っていてほしい、と思いながらも、近ごろ何かと物入りなので、どうせすぐに行くことになるだろうとアイリーンは肩を落とした。


「アイリーン」

 しかし再び呼び止められる。ドロシアの声ではない。今度は誰だ!と言わんばかりの表情で彼女は振り返った。


「その……」

 気まずそうに顔を俯かせているのはパトリックだった。数日と立っていないその人物に、アイリーンはきょとんとした。

 しかし一方でこのパトリック。先ほどの彼女の返事が怒っているような声色だったので、何をどう言おうか悩みに悩んだ。しかし急にハッとすると、ポケットから何やら取り出して、アイリーンに差し出した。


「この前、返しそびれて」

「ご親切にどうも」

「その……ごめん。お金はもう使っちまって……。だから、あの」


 言いづらそうに口ごもる。アイリーンは大きく息を吐き出した。


「あのね、こっちはデザートにケーキを買うくらい余裕があるの。別にあのくらい大したことないわよ」

「何だよ……ボロボロになるまで財布使ってくるくせに」

「何か言った?」

「何にも!」


 ぷいとパトリックは顔をそむけた。そんな彼に、アイリーンは顔を近づける。


「でもね」

 そのままパトリックの首根っこを掴んだ。ぐえ、と彼は情けない声を上げた。


「これを返したからって私達との縁が切れたと思ったら大間違いよ?」

「は?」

「私、後十回くらいあなたの家に通うつもりだから。もちろん肩もみをしてもらうためにね」


 アイリーンが解放すると、パトリックは少々咳き込んだ。大袈裟ねえと彼女の瞳は語っている。


「私ね、いろいろと細々とした作業が多いせいか、最近肩こりが酷いのよ。なのに弟たちは肩揉んでくれないし……。でも丁度いい所にげぼ……コホン、心優しい少年がいたものだわ。これからよろしくね」

「おい今下僕って言いかけただろ。ちゃんと聞こえてたからな」

「あら~何の話かしら」

「……ったく、仕方ねえな」

「はい? 仕方ないのはこっちよ。あなたの肩もみで我慢してあげるって言ってるの。きちんと力加減しなさいよ?」

「あーはいはい」


 何かとこの女性は口うるさい。兄妹のいないパトリックはその小言がくすぐったく感じられて、頭を掻いた。


「俺、もう行くよ。お前もまたスリられないように気を付けろよ? 結構隙だらけなんだしさ」

「失礼ね! 弟が言うには、私は近寄りがたいらしいから大丈夫よ」

「そういうところだよ……」


 何だよ近寄りがたいって。ただ怖いだけじゃん。遠回しにじゃなくて誰か直接言ってやれよ。もっと警戒心持てって。


 しかしそれは己の役目ではないような気がして、曖昧に微笑むだけにした。

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