34:見つけた
ドロシアから放り出された形で店を出たアイリーン。いつまでもこの気持ちを引きずるわけにもいかず、頬の筋肉を総動員して家庭教師の仕事をやり過ごした。しかしそれも終わって帰路につけば、再びイライラが彼女を襲う。答えはすぐそこまで来ている。分かっている、どうして自分がこんなにもイライラするのかということくらい。でも認めたくはなかった。
「母様」
小さな声がアイリーンを呼び止めた。顔を上げると、人ごみの向こう側から、小さな弟が見え隠れしていた。
「……フィリップ」
はにかんで彼はこちらに歩み寄ってくる。釣られてアイリーンも笑みを浮かべた。
「今帰り?」
「うん。さっきレイと別れたばかり」
「そう、私も今から帰るところなの、一緒に帰りましょうか」
「うん!」
自然な流れでフィリップは自分の手を差し出す。躊躇うことなくアイリーンもその手に自分のそれを重ねた。
人ごみの足取りは皆早く、アイリーンは小さなフィリップがそれに巻き込まれないよう、自分の斜め後ろを歩かせながら人ごみを掻き分けた。
「母様」
「ん? なに?」
「母様、何か悩んでるの?」
「ええ? 何よ急に」
「ううん、何となくそう思っただけ」
本当に聡い子だ。周囲の兄姉が騒がしいせいか、観察眼に優れている。
「……本当はちょっと悩んでるかな」
自分よりも大分離れている弟に相談事とは何事だろう。しかし彼の空気は落ち着く。相談役などに向いているかもしれない。
「その、ね。新しい仕事……みたいなのを始めようかなって」
「家庭教師?」
「いいえ、今回は裁縫。通りで声かけられてね、洋裁やってみないかって」
「すごいね! 褒められたの?」
「ううん、その逆。すっごく貶されたわ。でも……何だかよく分からないけど、一緒にやろうって」
……いや、結局誘われたことになるのだろうか、あの追い出され方は。あんな追い出され方をされておいて、そうほいほい顔を出すのも何だか癪に障る。要は、アイリーン自身の矜持の問題だった。自らのの矜持を押さえてまで、あそこへ顔を出せるかどうか。
「僕、勿体ないと思う。母様の裁縫の腕……を、このまま僕たちの服を手直しするためだけにしておくのは」
「そう、かな」
「やってみたら……いいんじゃないかな。何事にも挑戦……ていうか、選択肢を広げる……みたいな」
年の割に、時々フィリップは大人びたことを言う。単純なアイリーンは頬を染め、満更でもないような様子になる。
「そ……そうかしら……」
「そうだよ! 折角だからやってみるといいよ。母様、裁縫好きでしょう?」
「う、うん。まあね」
小さく頷く。
「やってみようかしら」
フィリップにそう言われると、悪い気はしない。同時に先ほどの子憎たらしいドロシアの顔が浮かんだが、意識的にそれをかき消す。お金をもらうためだけに利用すると考えればいい。たとえ性格が合わなくとも、お金のためだ、多少の我慢は必要だ。
「よし、ありがとう。私、ちょっと行ってくる。フィリップ、少しその店へ寄って行ってもいいかしら?」
「うん、僕は大丈夫」
自然な動作でフィリップは右手を差し出す。アイリーンも握り返した。
次第に人の少なくなってきた市場を二人は連れ立って歩いた。ドレッサムに寄るならば、時間もきっと遅くなってしまうとその歩みは早い。露店で果物を売っている店を通りかかった時、丁度二人の耳に少年の声が入った。
「おばちゃーん、これもうちょっと安くなんないの?」
「何言ってんだい、これでも十分譲ってやってんだ。最近果物が値上がりしてんの知らないのかい?」
「えー……そりゃそうだけどさー」
のんびりと交わされる値段交渉の会話。
ふっと思い出してアイリーンは歩みを止めた。
「そういえば珍しく出された昨日のデザート、果物だったわね」
デザートなど、ウィルドが友達を引き連れて野イチゴ狩りに出かけた夕食にしか出ない。だからこその珍しいデザートに、夕餉はみんなで歓声を上げたものだ。
「ああ、僕その時、丁度エミリアの買い物について行ってたんだ。あの人を上手くおだててて、安く買ってたよ」
「……そう。いつかその手腕を見習いたいものね」
アイリーンは感心したように頷いた。どこまで本心かはわからないが、止めた方がいいのでは、とは、さすがのフィリップも言えなかった。人には向き不向きがあるとはいえ、この姉には到底相手をおだてるなどという高度な会話技術は持ち合わせていないように思えたのである。
「しっかたないな……。じゃあそれで我慢するよ」
「偉そうだねえ。パトリック、気に入らないのなら買わなくても結構だよ」
「いや、買うよ」
どこか横柄な口調で言うと、少年――パトリックは懐から財布を取り出した。結局女店主の言い値で我慢することにしたらしい。彼の考えていることが手に取るようにわかって、アイリーンは思わず笑みを零した。しかし、やがてそれはみるみる青ざめたものへと変わった。
「ちょ……ちょっとフィリップ、ここで待っていてくれるかしら?」
「え? どうして?」
「あ……でもここだと危険ね、ちょっと隅に寄っていて。すぐに戻ってくるから」
ふふふと歪んだ笑い声を上げながら、アイリーンは真っ直ぐにパトリックの元へと歩み寄った。
「それ……その財布、どうしたの?」
そして彼の頭上から声をかける。ぎくり、と彼の肩が揺れた。
「気のせいかしら、私が先日無くしたものとよく似ている気がするの」
恐る恐るパトリックは顔を上げる。そばかすの目立つ、よく日に焼けた少年だ。その額には冷や汗が光っていた。
「ねえ、聞いてもいい? それ本当にあなたの?」
やがて彼の顔は、面白いくらいに真っ青になった。ぶるぶる震える彼の腕をがっしりと掴んだ。アイリーンはにっこり笑う。
「ちょっと話を聞かせてもらいましょうか」
「ひっ!」
「ごめんなさいね、ちょっとこっちに来てくれる?」
清々しいほどの笑顔だ。しかし見る者に威圧感を与えるのはさすがとした言い様がない。後ろからこっそり見ていたフィリップも若干怯えている。
「ちょっと、あんた誰なんだい? パトリックが怖がってるじゃないか」
今にも泣きそうな子供が、般若のような女に連れて行かれそうになっている。
そんな犯罪じみた光景を見過ごせまいと、二人に声をかけたのは女店主だ。腰に手を当てて堂々と言い放った。それにアイリーンは眉をひそめる。
「あなたには関係ないでしょう? これは私達の問題なんです」
「そうもいかないね! あんた小さい子苛めるんだったら騎士団でも何でも呼ぶよ!」
「はい? 私が苛める? あの、何か勘違いをなさっているようですけど――」
「お姉ちゃん、行こう。ごめん、俺が悪かったよ」
フィリップの声ではない。パトリックのそれだ。目を丸くして下を見ると、彼はにっこり笑ってこちらを見上げていた。
「おばちゃんもありがとう。この人、俺のお姉ちゃんなんだ」
「え……パトリック、あんたお姉さんがいたのかい? ……そりゃ口を挟んで悪かったよ」
きまりが悪そうに女性は頬をかく。アイリーンは左手を少年に握られ、そのまま市場の隅に連れてこられた。心配そうにフィリップも後を追う。
「あなた……どういうつもり? お姉ちゃんって」
「分からないの? こっちだって騎士団なんか呼ばれたくないんだよ」
それって……とアイリーンが口にするよりも先に、パトリックは口元を歪めて言ってのけた。
「あんた、本当無防備にもほどがあるよね。盗みやすかったよ、この財布」
見せびらかすようにパトリックは財布をちらちら揺らす。カッとアイリーンの頬に熱が集まった。
「あなた……!」
「何だよ、何か文句でも? 何なら殴ってもいいよ。俺が一発泣き叫べばすぐに人が来る。どっちが悪者に見えるかな?」
アイリーンは青筋を立てたまま固まった。ここにはフィリップもいる。どちらにせよ、家族に迷惑をかけるわけにはいかない。
すーはーすーはーと深呼吸を繰り返し、自身を落ち着かせる。優に数分はかかった。
「あー、でもすっきりしたわ。財布の行方がはっきりして良かった」
気持ちの切り替えができたらしいアイリーンは、空を仰ぎ、前髪をかき上げた。
「ずっとおかしいと思ってたのよ。自分で言うのもなんだけどね、私は結構お金にがめついの」
誰に言うでもなく語り出す。
「私がどこかに落してそれを拾われたんならあまり文句も言えないけれど、盗まれたのなら話は別よね」
その顔は、どこか晴れ晴れとしている。
「子供だからって容赦はしないわよ」
先ほどと違って随分声の調子は大人しい。しかし彼女の笑顔がその分物を言う。ひくっとパトリックの頬が引き攣った。
「な、何をするつもりだよ……! 俺に手を出したらすぐに周りの人が騎士団を呼ぶぞ!?」
「あら、あなただって騎士団は呼ばれたくないんじゃなかったかしら」
アイリーンは挑戦的な笑みを浮かべる。
「でも残念ね。証人がいるの。それもあなたの苦手な騎士団にね」
う、とパトリックが詰まる。アイリーンは更に笑みを深くした。
「財布を無くしたその日に、直々に騎士団長様に伝えたの。きっと騎士団の前に突きだせば、悪者はどちらなのか、一目瞭然でしょうね」
怯えたパトリックの目を見た時、アイリーンは勝利を確信した。これで……これでお金も財布も戻ってくる、崩れ去った姉としての威信も取り戻せると!
「さ、一緒に騎士団へ行きましょうか。罪はきちんと償わないとね」
おーほっほっとアイリーンは高らかに笑う。すぐ側で見ていた弟は若干引いている。
「な、何だよ、離せよちくしょう!」
「あらー、お言葉が汚くていらっしゃいますの
ね? 教育が必要なんじゃないかしら」
パトリックは力いっぱいもがくが、金にがめついアイリーンの馬鹿力からは逃れられない。もうここで終わるのか……と遠い目で彼が自身の行く先を嘆いた時、救世主は現れた。アイリーンの腕を、反対側から掴む者がいた。
「おい、何をしている」
「はい?」
不躾なその仕草に、アイリーンは思いっきり眉をひそめて反対側を見やった。すると呆れた様な眼差しのオズウェルが目に入り、彼女は困惑した。近ごろ何かとよく会う彼。妙な因縁でもあるのだろうかと嘆きたくなるのも無理はない。
「どうしてここに……」
「近隣の者から通報があった。鬼婆が小さな子供を捕まえていると」
「おっ、鬼っ……!?」
アイリーンは絶句した。その隙を見逃すパトリックではない。
「ざまあみろ鬼婆!!」
「~~っ!?」
パトリックは一言叫び、アイリーンの脛に向かって回し蹴りを放った。
その痛みは油断していた彼女にもろに直撃した。うう、と蹲った隙に、パトリックは身軽に拘束から抜け出す。アイリーンはぐぬぬ、と悔しそうにその後ろ姿を見つめることしかできなかった。
「あ……あなたのせいよ! 鬼婆なんて失礼なことを言うから逃しちゃったじゃない!」
涙目でオズウェルを睨み付ける。見当違いだと分かっていても、それでもこの悔しさをどこにぶつない訳にはいかなかった。
それはオズウェルも理解しているのか、少々きまりが悪そうな様子を見せる。
「……それよりも何があったんだ。騎士団がどうのと言っていただろうが」
「この前言ってたでしょう。私が財布無くしたって。でも無くしたんじゃない。あの子よ、あの子が私の財布を盗んだの。もう信じられない! あと少しで捕まえられるところだったのに!」
アイリーンは頭を掻きむしる。これほど興奮したのは久しぶりだった。
「ふ」
ゆらぁっと揺れながら立ち上がる。
「ふふふ……どうやら痛い目に遭いたいようね……。いいわ、お望み通りにしてあげましょう」
壊れた様にアイリーンはひたすら笑い声を上げる。
「よく分からないが、ほどほどにしておけよ。通報されないくらいにな」
「無理だよ」
一呼吸もおかずにフィリップが返した。
「母様に目を付けられたら……あの子もお終いだね」
その目は何やら悟りを開いているようで。
更に聞き返す勇気も出ず、オズウェルは踵を返してその場を後にした。そう言えば、まだ自室には片付けないといけない書類があったなあと。
近ごろ何度も子爵家のごたごたに巻き込まれているオズウェル。己の危機回避能力が上がった気がした。




