32:思わぬ味方
「え、エミリアちゃんは悪くないんです……!」
震える小さな声。しかし、その声は思いのほか教室に響き渡った。第三者の声だ。一斉に皆がそちらを向く。声の主はヒッと悲鳴を漏らした。
「え……っと、あなたたちどういうこと?」
「わっ、私……私達は……」
少女が数人固まっていた。皆、中央のおさげの子に寄り添う様にこちらを窺っている。声の主は、そのおさげの子だった。
「な、何なのあの子たちは! 先生! 部外者は摘まみだしてちょうだい!」
母親が甲高い声で叫ぶ。ひいっと更に少女たちは慄くが、アイリーンはそれに臆することなく立ち上がった。彼女らに手招きし、椅子に座るよう促した。互いに顔を見合わせた結果、おさげの子がおずおずと椅子に座った。シェリルとその母親の鋭い視線が彼女に突き刺さる。それを遮るようにアイリーンが少女の肩に手を置いた。
「聞かせてもらえる?」
「は、はい……」
数回深呼吸を繰り返した。幾人もの視線が突き刺さるが、臆せずに彼女は前を向いた。
「ま、前々からシェリルちゃんが……エミリアちゃんに意地悪していました。無視とか、物を隠したりとか、意地悪言ったりとか……。その、それで私達も、怖くなってシェリルちゃんの言いなりみたいになって、いろいろ、その、意地悪しちゃって――」
「はあ? 急に何言いだしてんの? 私が苛め? 笑わせないでくれる?」
バンッとシェリルは机を叩く。しかしギンッとアイリーンから無言の圧力をかけられ、大人しくなった。
「それで……今日、二人の間に何があったか分かる?」
「は、はい。……その、今日もお裁縫の時間にシェリルちゃんがエミリアちゃんの所に行って、いろいろ意地悪言っていました。縫い目が荒いだとか、下手くそだとか」
「……何よ、助言してあげただけじゃない」
ボソッとシェリルが呟くが、母親以外誰も誰も意に介さない。
「そうよねそうよね。シェリルちゃんは助言してあげただけよねえ?」
「……それでその後、段々エミリアちゃんの持ってる物について悪口言う様になってきて……。エミリアちゃんがお手本にしてたぬいぐるみが汚いとか、髪飾りが格好悪いとか、服も古臭いって……」
「あっ、あんたたち!? 自分が何言ってるのか分かってるんでしょうね!? こんなことしておいてタダじゃ済まさないから!」
再びシェリルがバンッと勢いよく机を叩く。
「ありがとう。話を聞かせてくれて」
「は、はい……」
ふうっと長い息を吐き出し、その背中を二人の少女がゆっくりと擦った。
「さて、彼女たちの証言によって事の真相が明らかになったわけですが」
ギロッとアイリーンの瞳がシェリルの母親へ向く。彼女はその勢いに怯んだ。
「な、何よ」
「そちら、確か先ほど退学、という言葉を発してましたね」
「はっ……だ、だから何よ」
「本当は私達だって退学して欲しいくらいだけど、こちらもそんなに大事にはしたくないんです。誠意の見せ方によっては考えてもいいのだけど」
「は、はあ? 何を偉そうに――」
「子供がしでかしたことは保護者が責任を持つべきでしょう? それが親の責任でもあると思うのだけど」
にやり、と口元に笑みを浮かべる。思い当たる節があるのか、母親は口を開けたまま動かない。
「謝罪、してもらえます?」
「あ……」
言葉が声にならないのか、ぱくぱくと口を開けたり閉めたりしている。ようやくそれが声になったのは、バンッと机を勢いよく叩き、その音に勇気をもらった時だった。
「あんたねえ! この私に……この私にそんな態度取って良いと思って――」
「あら、謝罪の気配がない様ね。責任を放棄するつもりかしら?」
「だ、黙って聞いておけばあなた――」
「でもこちらも今日は疲れたわ。もう帰りましょう。謝罪はまた今度で結構です。今日はそちらも頭に血が上って深くは考えられないようですし」
「あ……あなた……!」
「さて、そろそろ保護者は退散するとしますか」
ふうっと一息つき、アイリーンは立ち上がった。ついでにシェリルの母親の元に行き、その腕を取って立ち上がらせる。
「な……なに、何よ、何するつもり!?」
「もう行きましょう」
「は……はあ? 何言ってるのよ、元はと言えばあなたの妹がうちの娘を叩いたから私達が呼ばれたのであって――!」
「そうですね、でもこれは子供同士の喧嘩です。原因もはっきりしたことですし、私達の出る幕はないんじゃありません?」
「だ、だからって――」
汗をたらたら流す間にも、母親はアイリーンに引きずられる。女性の筋力とは思えなかった。ズルズルと教室の外まで連れていかれる。
「シェリルちゃん、シェリルちゃん!」
「少し静かにしてもらえませんか」
母親の甲高い叫び声と、呆れた様なアイリーンの声。その二つがだんだん遠ざかっていき、ついには聞こえなくなった。
どうせなら私も二人の勢いに乗じて去ればよかった……と教師らしからぬことを考えるのはベルタ。しかしそれもそのはず、この場には睨み付けるシェリルに、それに真っ向から対抗するエミリア。加えて先ほど証言してくれた怯えた三人組の少女がいるのだから。
このまま膠着状態が続くのかと思った矢先、エミリアが口火を切った。
「わたし……わたしもね、確かにあなたの持ってる小物とか装飾品を羨ましいと思うことはあった。光に反射して一つ一つがキラキラしてて……すごく、綺麗だと思った」
キラキラと輝くペンダントも髪飾りも。全てエミリアのあこがれだった。
「でもね、姉御のだってそれに負けてない。わたしには、姉御が作ってくれた物全てが輝いて見える。この服もね、姉御が自分の服を裂いて作ってくれた物なの。鞄だって髪飾りだって、わたしの持っている物すべて、姉御の手作りなの」
気づけば、彼女の身の回りは手作りで溢れていた。彼女の両親が生きていた頃もそうだった。母が直してくれた服を着、時折気まぐれに作ってくれた髪飾りを髪につけた。それが、いつの間にか姉御に代わっていた。
「わたしのものは、姉御が作ってくれた世界でたった一つだけのもの。だから私の持ち物を馬鹿にしないで」
凛とした声だ。エミリアはそっと立ち上がって扉を開けた。最後にちょっと振り返る。
「叩いてごめんね」
それだけ言うと、エミリアはそっと教室を出て行った。後に残るは、ただ黙って唇を噛むシェリルと新米教師、そして数人の少女たち――。
「シェリルちゃん」
おさげの少女が呼びかけた。
「わた……私達ね、いつもエミリアちゃんの悪口を言う時、苦しかったの。エミリアちゃんの持ってる物――服や小物も何もかも、悪く言えばいうほど、それは全部私達に返ってくるから」
「…………」
「私達だってエミリアちゃんと同じだから。シェリルちゃんみたいに、お金をたくさん持ってるわけじゃないから」
「は……?」
シェリルの低い声に気圧されたように、おさげの子は怯んだ。しかしその傍らからもう一人の少女が進み出る。
「私のこの服ね、ここ、本当はちょっと破れてるんだけど、お母さんがアップリケ付けてくれたんだ。新しい服買うお金が無いからって、これで我慢してねって付けてくれたの。でも別に恥ずかしくないよ。だってお母さんが付けてくれたんだもん」
よくよく見れば、その少女の服はくすんでいた。裾も短い。
「エミリアちゃんは褒めてくれた。可愛いねって。優しいお母さんだねって」
はにかむように笑った。
「すごく、嬉しかったの」
*****
もう辺りはすっかり夕闇に染まっている。何だかんだ言って、話し合いは長時間にわたってしまった。急いで家に帰って夕餉の準備をしなければと自然エミリアの足取りも早くなる。しかし校門の影に寄り添う人物の姿を目にし、彼女は目を丸くした。
「……姉御」
「遅いわね」
「待っててくれたんですか?」
「さっきの人があんまり騒ぐものだからね、なかなか帰らせてもらえなかったのよ」
素っ気なく言うとアイリーンはさっさと身を翻した。口元をほころばせながらエミリアも後に続く。
「あのっ、姉御……」
「何よ」
「これ……その、作ってみたんですけど……」
ずっと後ろ手に持っていたものを、おずおずと差し出した。ちょうど手に乗るくらいの、小さな茶色のクマだ。本当はもう少し大きいものが出来上がるはずだったのだが、作っているうちにどんどん小さくなってしまった。エミリアの、初作品。裁縫の時間、ずっとこれに掛かり切りだった。
「その、姉御みたいに上手くは作れなかったんですけど、あの、受け取ってもらえたら嬉しいなって……」
きょとんとした顔でアイリーンはテディベアを受け取った。無言が怖くて、エミリアは顔を俯けた。
「やっぱり、ちょっと無謀でした。初めての裁縫でぬいぐるみを縫うのは……。ファスナーも付けようとしたんですけど、一回失敗しちゃって諦めたんです。あ、本当はもう少し大きい予定だったんですけど、いつの間にかそんな大きさに……」
わちゃわちゃと言い訳を並べ立てるが、未だに姉は静かだ。怪訝に思ってそっと彼女の顔を見上げる。
「これ、私にくれるの?」
「あ……は、はい! その、もし姉御のお気に召したら、ですけど――」
「ありがとう」
アイリーンはゆっくりテディベアを撫でた。その瞳は穏やかな光に満ちていた。
「大切にするわ」
一瞬固まった後、パーッとエミリアの顔に喜色が広がった。
「……よ、喜んでいただけたのなら幸いですわ! その、姉御のために一生懸命作って――」
「でもエミリアには裁縫の特訓が必要みたいね、これを見る限り」
「へ?」
エミリアは再び固まった。
「あ、姉御?」
「まず縫い目が一定じゃないし、全体的に荒い。これじゃあすぐに破れるわ。目の付け方も心許ないし、口の刺繍も……残念ね」「ううっ……」
全部わかっている。全部わかっているが、それを全て駄目だしされるとは……。
「やっぱりお気に召しませんでしたか……? わたしの、わたしなんかが作ったものじゃ……」
「そんなことないわよ。気に入ったわ」
「またそんなお世辞を……。別にいいですよ、下手なのは事実ですから」
あの姉御が素直に褒めるはずがないのに。
エミリアはぷいっとそっぽを向く。上げて落とされるのには慣れていた。
一方で、何だか妹の機嫌を損ねてしまったようだということにようやく気付いたアイリーン。言葉を取り繕おうと慌てた。
「でも大丈夫。すぐに上手くなるわ。料理もそうだったもの。最初は下手だったけど、陰で練習してたじゃない。きっとうまくなる」
「…………」
「私と一緒に練習しましょうか。学校一の裁縫上手にして見せるわよ」
妹の返事はない。すっかり困り果ててアイリーンが空を仰いだ時、エミリアが身じろぎした。
「じゃあ姉御も一緒に料理練習しましょうよ」
「え」
「わたしだけ練習なんてずるいです。この際姉御も料理上手になりましょう。わたしが教えますので」
「い……いえ、私は別に――」
「姉御、観念してください」
「…………」
黙って項垂れることで、アイリーンは負けを認めた。妹の裁縫特訓をしようと思っていたのに、すっかりその妹に出し抜かれてしまった。ただでさえ忙しいのに。
「じゃあ今日は折角ですから、シチューを作りましょう」
「え、本当?」
しかし単純なアイリーンはその言葉にすぐに顔を上げた。そういえば、この頃シチューは夕餉に並んだことは無い。
「はい。料理を練習するなら、やっぱり本人が一番好きな料理の方がやる気も上がりますからね」
いったいどちらが姉なのか分からない。
すっかり妹の尻に轢かれている姉だった。
「じゃあミルクを買わないとね。帰りに市場でも寄りましょうか」
「あ、でも姉御はついて来なくても大丈夫です」
「なぜ?」
「値引きにはコツがいるんです。でも姉御の態度は値引きには向きません。むしろ相手を怒らせて、今後売ってもらえなくなるかも」
「…………」
随分きっぱりと物を言うのね。
そう思ったが、自分が出禁になる将来が簡単に想像でき、それを口にすることはできなかった。
「それよりも、そっちはどうだったの? ちゃんと解決したんでしょうね、シェリルさんとのこと」
話題を変えようとアイリーンは腕を組む。ふっとエミリアは笑みを浮かべた。
「これで粗方決着はつきました」
「え?」
「おそらく、あと数か月ほどで学校内の全ての勢力を掌握できると思いますわ」
「せ、勢力……?」
思わず聞き返す。ただの学校に、勢力も何もあっただろうか。
「まさか彼女たちがこちらに寝返るとは思っても居ませんでしたが、おかげで予想よりも早く決着が尽きそうです」
「け、決着……?」
「それにさすがは姉御。あのシェリルの母親にも負けない堂々たる攻めっぷり。御見それいたしましたわ!」
「は、はあ……」
「今回のことでわたしと姉御に恐れをなしたシェリルは、おそらくもうちょっかいを掛けることもないでしょうしね」
エミリアは黒い笑みを浮かべる。アイリーンは即座に明後日の方向を見、先ほどの微笑は見なかった振りをした。
自分の中のエミリア像が崩れ去ってしまう。
そんな気がしたのである。




