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愛と鞭  作者: まくろ
第五話 隣のバラは赤い
30/120

30:孤児院

 そこは殺伐とした場所だった。


 裏路地の通りにひっそりと佇むその孤児院。国からの補助金は少なく、しかも子供たちの元へ還元される前に、その大部分は院長や職員の懐へ収まれていた。にもかかわらず、そこへやって来る子供は年々増えていく一方。援助という名で物資は届くが、食糧の面で言えば大勢の飢えた子供を賄うには程遠い。


 もはや、一食の食事すら危うい状況だった。


 子供たちの頬はこけ、目は窪み、生気の欠片もない。生きる気力を失い、ただ今日という一日をやり過ごすだけ。夢も希望もない毎日が送られていた。


 そんな時、そこに新しく入った少女がいた。流行り病で両親ともに亡くし、けれども親戚もいなかったのでこの孤児院に入れられることとなった少女。名をエミリアといった。


 今もすでに腹を空かせた子供たちで溢れかえっているのに、更に子供が入ってくるなど無謀にもほどがある。しかしここを除き、近くに孤児院はなかった。彼女の行く先に選択肢など無かったのである。


「あんた、新入りね?」

「……うん」


 生気の抜けた顔で誰もがぼんやりしている中、果敢にもエミリアに近づく一行があった。数人の取り巻きを率いているのはサリー。孤児たちを率いているリーダー格の少女だった。


「新入りはあたしに供物を献上しないといけないのよ」

「……くもつ?」

「そう。手始めに、今日のあんたの夕食でいいわ。それをあたしに捧げなさい」

「捧げたらどうなるの?」

「……そうね」


 サリーは、しばし顎に手を置き、考える。いいから捧げなさい!と怒鳴りつけることも考えたが、それよりも、彼女が完全に自分の支配下にあるという証にも似た何かが必要だと思った。そんな時、顔を上げた先にある物が目に入り、サリーはほくそ笑んだ。


「いいでしょう。捧げたらこれをあげるわ」

「クマ?」

「そう。ここね――ああ、ううん、やっぱり何でもない。可愛いでしょう? これあげるからあたしに夕食を献上なさい」

「うん!」


 エミリアは目を輝かせて頷いた。あまり裕福でなかった彼女は自分のおもちゃを貰ったことなどない。所々汚れてはいるが、それでも可愛らしい茶色のテディベアに、心躍らせた。


 しかしその高揚した気持ちは、すぐに萎んでしまうこととなった。この孤児院では、食事はたったの二回きりだった。朝食を食べた後はそのまま長い労働時間に入り、少しの休憩時間も与えられずに夕食まで働かさせられる。裁縫や水汲み、食器洗いに食事作り、その上慣れない畑仕事もである。子供たちを教え導き、共に労働をするはずの職員たちは、部屋に閉じこもって賭け事をするばかり。監視員も何もないこの場所が、無法地帯となるのはそう難しいことではなかった。


「ぬいぐるみ……もういらないから、夕食返して」

 三日後、ついにエミリアは根を上げた。夕食のたびにサリーにぬいぐるみとご飯とを強制的に交換させられ、もう限界だったのである。いくら何でも、朝食だけで長い労働を続けることは無謀にも近かった。何の益もないぬいぐるみだけが増えても、エミリアにとって嬉しいことは何もないのである。


「なに、あたしに逆らうの?」

 サリーは鋭く睨み付けた。エミリアはビクッと肩を揺らしたが、その瞳から逸らすことは無かった。そんな彼女を見て、サリーはにっこり笑った。


「いい度胸ね。いいわ、わかった」

 次の瞬間、サリーはトレイを床にぶちまけた。パンが、スープがサラダが、エミリアの足元に飛び散った。


「もういらないからそれあげる。欲しいんだったら食べたら?」

「…………」

「あたしに逆らったこと、すぐに後悔させてあげるわ。行くわよ」


 取り巻きを配下につけ、サリーは颯爽と去って行った。監督しているはずの職員は、ただ愉快そうに眺めているだけだった。


 その次の日から、エミリアは徹底的にサリー達一向に苛め抜かれることとなった。彼女たちは実に狡猾で、そして慎重だった。職員たちの前ではしおらしく振る舞っておきながらも、陰では手酷くエミリアを罠にかけるのである。自分の手は汚さず、必ず職員たちに怒らせる。それが子供心に、最も打撃を与える方法だということを知っているらしかった。


「誰だい、こんなに皿を割ったのは!?」

「エミリアちゃんでーす」


 意気揚々と手を上げるのはもちろんサリー。後ろでは同調するように取り巻きたちがうんうん頷いた。


「あたしたちは……止めてって言ったんですけど、でもエミリアちゃんはなかなか止めてくれなくて……」


 眉を下げ、顔を俯かせる。しかしエミリアには見えている。勝ち誇ったように、その口元が弧を描いているのを――。


「こうやったらストレス解消になるって――」

「わたし、やってません!」


 辺りに響き渡るほどの声だった。その当人のエミリアでさえ驚いた。自分にもこれほどの声が出せるのかと。さすがの彼女も、我慢の限界だったらしい。

 しかしかといって事態が良くなるわけでもない。職員たちは、多勢で、しかも古参であるサリー達の味方だった。


「呆れた子だね!」

 エミリアを頭ごなしに怒鳴りつける。彼女はビクッと肩を揺らした。


「わたし、やってません……」

 先ほどとは程遠い、かき消されそうな声だった。


「嘘言うんじゃないよ! あんたの両親はもう死んだんだ! 両親はあんたを甘やかしたかもしれないけど、ここではそうもいかないからね。こっちに来な!」

 職員はエミリアの首根っこを掴むと、ぐいぐい彼女を引っ張った。首が締め付けられ、エミリアは苦しそうに呻いた。


「しばらくそこで大人しくしてるこったね!」

 そうして辿り着いたのはジメジメとした納屋。軋む扉をがっちりと閉められ、外から閂を掛けられた。次第に足音が遠ざかってゆく。ついにエミリアは独りぼっちになってしまった。


 どこからか、虫がカサコソと地面を這う音が聞こえる。それすらも、今は心地良い気がした。何者にも干渉されない静かな時。しかしそれは、案外早いうちに破られることとなる。あまりうれしくない訪問者によって。


「可哀想に」

 気づけば、小窓からサリーの顔がのぞいていた。


「明日の朝食も抜きだって。少なくとも今日は絶対にそこから出られないね」

「だから何」

「知ってる? ここはね、よくあいつらに逆らった子たちが入れられるんだけど」

「…………」

「そのまま忘れ去られて、お腹空たせままここで死んじゃった子もいるんだよ」

「――っ」

「エミリアちゃんは、そうならないといいね」


 とっても嬉しそうにサリーは顔を綻ばせた。


 怖くない訳じゃない。しかし、サリーの前でだけは絶対に弱みを見せたくなかった。ギュッと唇を噛み、下を向く。そんな彼女の反応が面白くなかったのか、サリーは口をひん曲げた。


「あーあ、何それ、怖くないの? つまんないの。もし怖いって言うんだったらここから出してあげようと思ったのに」

 思わずエミリアは顔を上げた。サリーは歯を見せてニィッと笑った。


「知ってる? ここね、抜け道があるんだ、外へ通じる」

 スーッと彼女の手がある一点を指さす。丁度脆くなっている壁の一部を。


「あそこから外へ抜け出せるよ。今までに何人か抜け出した子もいるんだ。職員さんたちはあえてその子たちは追わないの。だって、養う子が減るんだから、それはあの人たちにとっても嬉しいことでしょう?」

「…………」


 エミリアは答えない。まだサリーの思惑を測りかねていた。


「逃げるかどうかはエミリアちゃん次第だよ。あたしはただこのことを伝えに来ただけ」

 最後にもう一度微笑むと、サリーはひょいと樽から飛びのいた。なかなか長時間背伸びを続けるのも疲れるものだ。あーあ、と肩をくるくる回しながらサリーは日向へ出た。丁度向こうから背の高い少女が現れ、彼女に声をかける。


「あれ、いたの」

「酷い言い草だね。ここで見張ってろって言ったのサリーじゃん」

「あはは、そうだっけ?」

「サリーも酷いよねえ。自分の手は決して汚さずに標的を苛め抜くんだから」

「その方が面白いじゃん?」


 さも不思議そうにサリーは言ってのける。


「どうせ職員の奴らに捕まるのに、必死に走っちゃってさあ。あーあ、可哀想」

 彼女の視線の先には、辺りを必死に見回しながらもここから逃げ出すエミリアの姿があった。


「じゃ、早速伝えに行きますか~」

 サリーは気持ちよさそうにうーんと伸びをする。


「エミリアちゃんが逃げちゃったって」


*****


「あら……」

 仕事を終え、帰路についていた時のことだった。その頃は丁度街路樹の葉が赤や黄色に色づく時期で、彼女はそれを楽しみながら帰っていた。手には弟たちへのお土産もある。きっと喜んでくれるだろうとその足取りは軽かった。そんな矢先。


 小さな少女が蹲っているのを見つけたのである。


 場所は、小さな一軒家のすぐ近く。壁に凭れる様にして座っていた。その肩は、小さく震えている。泣き声よりも大きい腹の音は、辺り一面に響きわたっていた。しかしその少女はそれを気にした様子はない。


 アイリーンは困り切って右手と少女とを見比べた。


 右手に大切に抱えられているクマのぬいぐるみ。

 家庭教師の家で彼女自身が作り上げたものだった。教え子があまりにも縫うのが遅いので、次第にアイリーンは暇になって、自分でも同じものを作ってしまったという訳である。短時間にしてはなかなかの仕上がりで、教え子にも大変感激された。瞳をキラキラさせて、私もそれが欲しいと言われたが、もちろん却下した。彼女は涙目になった。


 そのいわくつきのぬいぐるみを、アイリーンは少女に差し出した。


「あげるわ」

「――っ!」


 しかし一瞬のためらいもなく、すぐにそれは投げ捨てられた。ぬいぐるみは円らな瞳を宙に投げかけたまま、石畳の隅に転がった。


「……何よ、何てことするのよ。せっかく作ったのに失礼ね」

 アイリーンはへしゃげてしまったぬいぐるみを抱き上げると、ポンポンと汚れを落とした。


「あなた、興味ないの? ぬいぐるみ」

 言いながらアイリーンは少女に近づく。なおも彼女はアイリーンと目を合わせようとしなかった。怒られると思っているのかもしれない。


「ま、私も興味ないんだけれどね。ただのぬいぐるみには」

 少女の目の前にしゃがみこむ。


「だって、ただ可愛いだけの物は何の役にも立たないもの。それじゃあこの世知辛い人生、やっていけるわけもない」

 アイリーンは、ぬいぐるみのお腹をごそごそと探る。少女は少しだけ興味を持ったのか、長い前髪の隙間からちょこんと瞳を覗かせた。


 アイリーンはそれに気づいたが、何も言わない。黙ったままぬいぐるみのお腹に備え付けたファスナーを手に取り、スッと開けた。そのままお腹も開くと、中から色とりどりの包装紙に包まれた、甘い匂いを発する焼き菓子が現れた。そして少女に尋ねた。


「食べる? お菓子」

 このお菓子はもちろん、家庭教師先で強奪――いや、献上してもらったものだ。二人で食べるように、とメイドが持ってきてくれたのだが、甘いものをたくさん食べると太る、虫歯になる、出来物ができるなどと軽く脅すと、教え子は涙目で献上してくれた。アイリーンはそれを有り難く頂いただけだ。そして、さすがに帰る時にまで大切に菓子を握っているのが嫌だったので、ずる賢くそれをぬいぐるみの腹の中に収めたまで。


「――っ」

 少女は何も言わないまま、ガシッとそのお菓子を鷲掴みにした。もどかしげに包み紙を解き、アイリーンが驚く暇もないほどの素早い動きでそれを口に入れた。もぐもぐと咀嚼しながらも、手は次の獲物へと伸びている。


 次々と無残に食べ散らかされるお菓子を見て、アイリーンは思う。


 ああ、ステファンとウィルドへのお土産がなくなったな、と。

 自分の口に入るはずだったお菓子の在処を伝えたら、ウィルドなんかは地団太を踏んで悔しがりそうだが、しかしまあ知らぬが仏と言うし。


「ふっ……う……!」

 目の前の少女は放っておけそうにもないし。


「う……ううっ……!」

 少女は苦しげな声を漏らした。喉に詰まったのかと、アイリーンは少女の背中を軽く叩いた。肩を振るわせる彼女に、アイリーンはいつかの自分の姿を思い起こしていた。

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