03:貧乏子爵
茶会の帰り道、アイリーンとステファンは足早に自分たちの家へと向かっていた。もう日はとっくに頂上を越し、思ったよりも長くあの邸宅で過ごしていたことに気付かされる。
この後も二件ほど家庭教師の仕事を抱えているアイリーンとしては、帰り路を行くその足が速くなるのも仕方がない。
「そういえばステファン、今日の成果は?」
息を整えながら、アイリーンはふっと尋ねた。
「――そうですね。リルベルト子爵子息、マコーリー伯爵令嬢、そしてセバーグ公爵子息と仲良くなりました」
「そう。リルベルトと言えば、あそこは成金上がりだったわね。マコーリーは隣国との輸出入に手を出している有名な資産家、セバーグは……確か祖母が王室の娘だったわ」
ふむふむと頷く。利発な弟は、思ったよりも人脈作りに励んでいたようだ。
「何事も人脈は大切だわ。よくやったわね、その調子よ」
「はい、姉上」
満面の笑み、とは程遠いが、それでも優しい微笑みをアイリーンは浮かべた。先ほどのお茶会での剣幕は嘘のようだ。それを見、ステファンも同じくそっくりな優しい笑みを返した。
二人の家は、もうすぐそこだった。
*****
「お帰りなさい!」
二人が家へ帰還すると、バタバタと奥から子供たちが走ってきた。毎日繰り返されるこの光景は、自分が一家の主になったような気分にさせられる。と言っても、自分は立派な大黒橋なのだからそれも間違いではない。
「ちゃんと仕事したんでしょうね」
「もっちろん!」
アイリーンが家の中に入りながら問うと、彼らは口を揃えて叫ぶ。一番最初に元気よく手を上げたのはエミリアだ。
「今日は姉御の大好きなシチューですわ! 心を込めて作りましたの」
「……それは嬉しいんだけど、季節を考えてほしいものね」
エミリアは料理上手だ。この家に来た当初は失敗続きだったが、日ごろの努力の賜物なのか、日に日に上達していった。今ではアイリーンすら唸らせるほどの実力。
しかし残念ながら彼女は、アイリーンに心酔し過ぎて、時々周りが見えなくなることがある。アイリーンが口を滑らせて、何々の料理が好きだと言ってしまった暁には、次の日から一週間毎日その料理となってしまう。アイリーン本人が根を上げるまで。
そして今日は冬でもないのにシチューだという。本当、季節を考えてほしかった。
「それにしてもミルクなんて高級なもの、よく手に入ったね」
「……確かにそうね」
傍らのステファンの言葉に思わず頷いた。
日ごろからアイリーンは節約を掲げている。日常における重要な役割を果たす食事でも、それは免れない。
「家計の方は大丈夫なの?」
「それはもちろん大丈夫です。このわたしにかかれば、市場の男性一同なんていちころですから」
ふふっとエミリアが黒い笑みを浮かべる。アイリーンは寒気を感じ、それ以上追及するのを止めることにした。
料理担当のエミリア。守ってあげたくなる可憐な妹なのだが、時折腹黒い発言がその口から飛び出す。
「ほら、師匠! どうだ、この花! 可愛いだろ!? 俺がこの手で植えたんだぜ!」
「……何度言ったら分かるのかしら。畑には食べられるものしか植えちゃいけないと言ったわよね」
エミリアを押しのける勢いで現れたのはウィルド。活発な男の子で、畑仕事を任せている弟。
「大丈夫、この花食べれるらしいぜ!」
そう言ってウィルドは得意そうに手に持っていた花をもしゃもしゃと食べ始めた。可憐な花が、咀嚼音と共に見るも無残な姿になっていく。
「…………」
アイリーンは複雑な気分だった。確かに、自分は花より団子派だ。彼女を見て育ってきた子供たちも、自然にそうなってしまうだろうことは想像に難くない。しかし。しかし、だ。
アイリーンは呆れを通り越して、いっそ哀れな者を見る目でウィルドを見つめた。
しかし可憐な花を何の躊躇もなく食べつくすのは如何なものだろうか、いくら食用だとはいえ。食べるつもりで彼は植えたのだろうか、あの花を。結局食べるのなら、わざわざ躊躇してしまいそうな花を植えなくてもいいんじゃないだろうか、いくら食用だとはいえ。というかそもそもあの花、きちんと洗ったのだろうか。よくよく目を凝らしてみれば、ウィルドの手には泥がついている。……きっと洗ってないんだな。そうなんだな。せめて口に入れるものは洗ってから口にして欲しい、いくら食用だとはいえ!!
アイリーンは、はあ……と長いため息をついた。
彼をこのような繊細さの欠片もない少年に成長させてしまったのは、この家の長たる自分のせいかもしれない。そう思うと、これからの教育について考え直すのもまた一つの手だと思った。
「母様、お洗濯も終わりました」
「……あら、そうなの? ありがとう」
アイリーンは、二人の子供の合間からちょこんと顔を覗かせるフィリップに向かって優しく言った。ウィルドの言動に気が遠くなりかけていた彼女にとっては、半ば彼が救世主のように思えた。
小柄なフィリップは、掃除、洗濯担当の最年少の男の子だ。いつも優等生なステファンを除くと、三人の子供たちの中で最も大人しく、そして問題ごとも少なかった。あまり手がかからないので、確かに有り難い、非常に有り難かったのだが。
「フィリップ、その母様って呼び方は止めましょうか。ご近所の方にあらぬ疑いをかけられてしまうわ」
彼のアイリーンの呼び方が非常に問題だった。何だろう、母様と言うのは。自分はどこからどう見ても彼らの姉くらいの年齢のはずだ。
まず、ステファンの姉上呼びは合格だ。エミリアの姉御も……できればお姉さま呼びの方が嬉しいが、まあ合格。ウィルドの師匠呼びも……辛うじて見過ごそう、私は一体君の何の師匠なんだと激しく問いたいが。――しかしそんな中、母様はあまりにも突飛だった! 突飛すぎて、誤解を生むこと請け合いだ。
「……母様」
しかしそんなアイリーンの心中も知らず、フィリップに譲る気はないようだ。次第にその目尻に涙も溜まっていく。彼女の周囲を取り巻く子供たちの視線が、次第に非難を帯びてくるその前に、アイリーンはコホン、とわざとらしく咳払いをする。
「……分かったわ。さっきのことは忘れて。母様呼びのままで大丈夫よ」
「……母様!」
フィリップは勢いよくアイリーンに抱き着く。うっ……と思わず低い声が漏れたが、何とか耐えてその場に留まった。彼の小さい背中を優しく撫でながら、彼女は子供たちをゆっくりと見回した。
「とにかく、昼食を食べたら私もう行くわ。今日はお茶会があったせいで仕事が溜まってるの」
「姉上、僕も何か手伝います」
「ありがとう。じゃあフィリップと買い物に行ってくれる? いくつか買って欲しいものがあったのよ」
ごそごそと懐から羊皮紙を取り出した。家庭教師先からくすねて――いや、頂いてきたものだ。その羊皮紙に、常日頃必要だと思ったものをアイリーンは細々と書き連ねていた。
「これに必要なものが書いてあるから、それを買ってきてくれる? あとその他に何か必要だと思ったらそれも」
「分かりました。行こう、フィリップ」
「うん!」
二人は笑顔で手を繋いで歩き出した。彼らはいつ見ても仲が良い。本物の兄弟のようだ。
「俺たちは? 遊んでてもいいの?」
ぴょこんとウィルドが顔を出した。遊びに行きたくてうずうずしている表情。
「……まあ、仕事が全部終わったのなら遊んでてもいいわ。でも家の中は汚さないでよね」
「いえーい!! やった!」
考えていることがすぐ顔に出るウィルドは本当に素直だ。時々、周囲の空気を呼んでほしいと思うこともあるが。
「おいエミリア、行くぞ! さっきでっかい木を見つけたんだ! きっと見たこともない虫がたくさんいるぜ!」
「え~……。わたし、汚れるのは嫌だわ」
「んなこと言うなよ! あの木に上ったらきっと風が気持ちいいぜ!」
「……それなら、行ってやらなくもない」
「そうこなくっちゃ!」
いつでも素直なウィルドとは反対に、エミリアは全く素直じゃないと思う。アイリーンに対してはズバズバと何でも言うくせに、未だ兄妹というものに慣れないようだ。
「姉御! シチューが冷めてしまいますから、なるべく早くに食べてくださいね!」
「はいはい」
ひらひらと両手を振りながらアイリーンは子供たちを見送った。しかし自分ものんびりしている暇はない。教えを施す教師が遅刻など、あってはならないからだ。
アイリーンは静かな家で一人席に着くと、手早くシチューを味わった。まだ温かいし、いつものことながら味は絶品だ。心まで温かくなるこの味は、よく母が作ってくれていたシチューの味を思い起こさせる。
アイリーンの両親は幼い頃に二人とも病気で亡くなった。残されたのは、まだ小さいアイリーンと更に幼い弟のステファン、そして少ないお金とこの屋敷だけだった。始めはどうすればよいのか全く分からなかった。姉として、弟を守っていかなくてはと思う一方、どうやって食べ物を入手すればよいのか、どうすればお金が手に入るのか、どうやって子供二人で生きていけばよいのか。
弟に当たり散らしてしまった時もあった。しかし、何度も壁にぶつかり、乗り越えていくことで、今現在こうして何とか生活はできるようになっていた。貧乏子爵と揶揄されることはあっても、それでもきちんと生活は成り立っている。アイリーンは、周りの人々が何を言おうとも、今の暮らしに誇りを持っていた。
外ではしゃぐ子供たちの声を聞きながら、ほうっと息をつく。以前では考えられないくらいの騒がしい日常。でも、嫌いではない。問題児も多いが、アイリーンはこの暮らしが割と気に入っていた。