26:お出迎え
アイリーンとステファン、二人は連れ立って歩いていた。しかしいい加減隣の視線が痛いと、ついにアイリーンは息を吐いて懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「これを見て」
ステファンは興味深げにそれを眺めた後ゆっくりと頷いた。
「なるほど。姉上はここに行きたいと言うんですね?」
その羊皮紙には、最近大通りにできたらしいカフェの宣伝文句が書かれていた。色とりどりの絵柄でケーキやらティーカップやらが描かれ、見る者の食欲を誘う。
「偶にはいいかな、と思ってね。ほら、最近いろいろあったじゃない? 時には休息も必要よ。――主に私にね」
「まあ確かにそうですが……。でもお金は」
「私が何のために過剰に節約しているとお思いで? 全ては将来と偶の休息のためよ!」
アイリーンは拳を握って言い切る。何とも清々しい。
「それにステファン、最近怒ってばかりでしょう?」
「誰のせいだと思って……」
「イライラしてる時には甘いものが一番よ」
ふふん、とアイリーンは得意げに笑う。
「じゃあ次は子供たちをお迎えに行きましょうか」
珍しく嬉しそうにアイリーンは先陣を切って歩く。
まあ偶にはいいかな、とステファンも同じような笑みを零した。
二人が次に向かうのはこの辺りでも有数の慈善学校だ。学費はかからないので、学校で必要になる物資や食費を負担するだけで良い点が魅力的だ。
と言っても、経営の要となる学費が無料で学校が成り立つわけもないのだが、そこは人心の良いところ。貴族の気まぐれで寄付が集まったり、近所に住む中流階級の手助けもあって何とか潰れずに今に至るという訳だ。
アイリーンとしても、貴族の端くれでありながら無償で三人も通わせてもらうのは気が引けるので、時々教師として顔を出したりしていた。家庭教師の実績もあるので、学校側は歓迎してくれる。が、その一方で大半の生徒たちは彼女の授業を恐怖授業と呼ぶ。それを知らないのは当の本人、アイリーンだけであった。
そんな良いこと尽くめの慈善学校だが、子供を持つ家庭のほとんどがここに通わせるかと言ったら否だ。貴族や裕福な中流階級ならば家庭教師を雇ったり、名門の寄宿学校に通わせている。その日の暮らしもきつい家庭ならば、勉強という「娯楽」をさせるくらいなら、子供を働き手の一人と数え、家事手伝いをさせたり奉公に出させたりする家庭も多い。子供を慈善学校に通わせる家庭は、裕福な暮らしという訳ではないが、学に重点を置き、自由に学ばせたいという家庭がほとんどであった。
学校に到着すると、もう授業が終わったのか、ちらほらと生徒たちが帰る姿が目撃された。二人は生徒たちの合間を縫いながら校門の傍に陣取った。
生徒の年齢層は様々だ。小さいうちから通っている子もいるし、大人になってから文字を学びたいという人もやって来る。しかしその誰もが、校門の傍に腕を組んで立つアイリーンの姿を見、背筋を凍らせた。誰もが思う。今からでも遅くはない、裏門から帰ろうか、と。
リーヴィス=アイリーンが生徒たちに恐れられる理由は、おそらくその威圧感だろう。背筋をピンと伸ばして扇子を構え、にこりと微笑むことも無く授業が行われていく。彼女の所作が、上流階級のそれであることも起因している。言動の端々から表れる気品が、逆に気位の高さを思わせてしまう。加えて彼女の授業を受けるのは、中流階級以下の子供たちばかり。まだ社会に揉まれていない彼らが、彼女の存在を恐怖として位置付けるのも仕方がないのかもしれない。
しかも、だ。アイリーンの授業自体も実際厳しい。予習復習は当たり前、彼女の気まぐれで突然数か月前の問題が出されたりする。もし間違えたら嫌味の嵐だ。あら、これは前回やった問題よね? もしかして復習していなかったのかしら? それとも身についていないのかしら。もしよろしければ、今日残って私と一緒に復習しましょうか?と。
アイリーンとしては善意で言っているのだが、生徒にとってはそれは恐怖以外の何物でもない。
いいえ結構です! すみません、明日きちんと復習してまいります! と情けない声を上げる以外手段が無いのである。
そうして生徒たちから恐怖を覚えられているアイリーンだが、何分彼女は忙しい身。滅多に顔を出すことは無い。だからこそいつの間にか彼女の授業は半ば幻と化していた。
噂ではとっても怖い先生の授業があるらしい……。でも、なかなかその先生は姿を現さないらしいよ……と言った風に。
アイリーンの授業を受けた者も、受けたことのない者も、アイリーンから溢れ出ている威圧感に恐怖することは同じであるようで、皆彼女から一定の距離を保ちながら校門を通過していった。その様を見、何となく彼らの心情を察したステファンは苦笑いを浮かべるしかない。
しばらく待ってみて、ようやく初めに姿を現したのはウィルドだった。数人の友達に囲まれながら、手にはボールを持っている。どうやらフットボールでもしようという話になっているようだ。
「ウィルド」
アイリーンが声をかけると、彼は驚いたように目を丸くした。
「師匠……? ステファンまでどうしたんだよ」
「ちょっとね。今日は暇?」
「えー、買い物でも頼もうって? 俺今からみんなで遊ぶ約束があるんだけど……」
「まあ用事があるって言うのなら仕方がないけど」
「本当? じゃあ俺今から遊びに行ってくるよ!」
途端に喜色を溢れさせてウィルドは後ろを振り返った。友人たちもうんうんと頷いた。
「ウィルド……本当にそれでいいの?」
「何だよ。今日何かあるの?」
ウィルドが唇を尖らせる。そんな弟に、ステファンは内緒話でもする様に彼の耳に口を寄せた。うん?とウィルドも黙ってそれに聞き入る。
「どう、考え変わった?」
「…………」
「ウィルド……?」
不思議そうに彼の友人が顔を覗き込む。ウィルドは無表情から、段々とニヤニヤとしたそれに変わりつつあった。
「お……俺、やっぱり今日遊ぶの止めるよ~」
カフェ行きの話を聞くと、途端にコロッと態度が変わるウィルド。彼の薄情な態度に友人たちは呆れ返った。何となく彼の表情から察したのだ、ああ、食べ物に釣られたな、と。
自らウィルドは友人らに別れを告げ、同じくアイリーンたちと共に校門に寄り掛かって弟妹達を待った。その顔は、相変わらず喜色満面である。
次に出てきたのはフィリップ。隣の小柄な男の子と穏やかに談笑しながら歩いてきた。見た目通りその友人は大人しく礼儀正しい子で、アイリーンとステファンがフィリップの兄姉だということに気付くと、深く頭を下げた。
「初めまして。僕レイと申します」
「……は、初めまして。姉のアイリーンよ」
「兄のステファンです」
「俺はウィルド!」
さすがのアイリーンもたじたじになりながら挨拶をする。さすがのステファンはさしたる動揺も見せずに流れるように姉に続き、そしてウィルドは……何というか、年上の威厳も何もあったものじゃなかったが、何とか終える。
「皆さん御揃いで、どこかへ出かけられるのでしょうか?」
「え? ええ、そうね、今から新しくできたカフェに行こうと思ったのだけど……。良かったらレイ君もどう?」
ウィルドの友人の時は笑顔でさよならを告げたのに、レイに対しては一転してお誘いの言葉。ステファンとウィルドは思わず姉を二度見した。
あのドけちな姉が家族以外を外食に誘うなんて……天変地異が、天変地異が起こるよ!
しかしレイは苦笑を浮かべると、小さく首を振った。
「いえ、折角のお誘いですが、僕は遠慮しておきます。ご家族水入らずで楽しんできてください」
「ご、ご丁寧にどうも」
「またね、フィリップ」
「うん。また明日」
レイははにかんで手を振ると、そのまま前を向いて去って行った。子爵家一行は茫然とそれを見つめる。
「……あの子……すごいのね」
そう呟くのはアイリーン。この時ばかり、すごいとしか言いようがなかった。信じられないものを見た、と言わんばかりの表情である。
「フィリップ、すごい子を友達にしたのね」
「そうかな?」
「あの子……将来大物になるわよ」
「レイが聞いたら喜ぶよ」
大人っぽく微笑むと、フィリップもまた、三人と同じように校門の傍に立った。
最後に出てきたのはエミリアだった。こちらに気付いていないようで、俯きながらゆっくりと歩いてくる。ウィルドはいよいよ待ちきれなくなったのか、彼女に駆け寄ってその背中をバシンと叩いた。
「おいエミリア、遅いぞ!」
ビクッと大袈裟に肩を揺らし、エミリアは顔を上げる。始めにウィルドを視界に入れ、こちらに顔を向けた。
「あ……ウィルド、姉御」
「エミリア喜べ! 今日は最近できたあのカフェに行くんだって!」
「……カフェ?」
「ああ! エミリアも言ってただろ、店の前に並べられたあのパフェが食べたいって! 何でも食べていいんだって、やったー!!」
エミリアの反応はお構いなしに、ウィルドは独りでに盛り上がる。それに釣られるように次第にエミリアの顔に笑みが浮かぶ。
「ほらほら、何グズグズしてるんだよ、行くぞ!」
「あ……待ってよ!」
ウィルドとエミリアははしゃいだ声をあげながら走り出した。ゆっくりと歩き出していた三人を抜かし、遠くの方まで駆けていく。
「姉御! 早く行きましょう!」
「そうだよ! あの店人気だからもう満員かもしれないし!」
「はいはい。全く騒がしいわね」
仕方ないわね、という風を装ってアイリーンも後を追う。しかし口元の笑みは隠しきれていないようであった。




