02:気高い彼女
夜の社交場として挙げられるのは、王室開催の舞踏会や、夜会、晩餐会などである。対して昼の社交場と呼ばれるのはお茶会だ。夫や父親が仕事に勤しんでいる間、貴族婦人たちはお茶会に出陣し、女性特有の噂好きを活かして数々の情報を得たり、女性ならではの繋がりを得るのである。
さて、その女性同士の社交場が、春の訪れを感じさせるこの暖かい日にも開催されていた。女性ばかりが集まるおかげで庭園は華やかだった。色とりどりのドレスに、太陽光を反射してキラキラ光る宝石たち。そして彼女らの傍にはその大きさにはしゃぎ回る無邪気な子供たちもいる。
何とも、平和で穏やかな時間だった。
しかしそう思っていたのは、周りを見渡せない婦人たちだけである。
今日は初めての子供連れでのお茶会だった。そのせいか、子供たちははしゃぎ回る――いわば、叫んだり泣いたり怒鳴ったりと大忙しである。それでも婦人達は我関せずと微笑んで噂話に花を咲かせている。
給仕に来たメイドたちはひどく困っていた。紅茶を注ごうとしても、足元を走り回る子供のせいで碌に動けないし、菓子を持っていこうとすればテーブルに辿り着く前に子供に強奪される。終いには婦人たちに、やれ早く紅茶を注げだのお菓子のお代わりはまだかだの矢継ぎ早に注文してくる。自分たちよりもはるかに身分の高い子供たちを注意するわけにもいかず、メイドたちは困り果てていた。
そんな時だった、彼女が動き出したのは。先ほどから冷たい目で子供たちを見やっていた女性――リーヴィス子爵令嬢アイリーンは、優雅にため息をついた。そして一言。
「うるっさいわねえ、最近の子供は。躾けくらいきちんとしてほしいものだわ」
その涼やかな声――しかし場を凍り付かせるような内容のその声は、辺りに響いた。そうして静まった場に、パタン、と扇子を閉じる音がやけに大きく響いた。
「あら、ごめんなさい。お邪魔したかしら」
全く謝意の欠片もないその表情は、まさに悪役顔。吊り上がった目に歪んた口元、くるくると巻かれた金髪は地毛だろうか。
そんな彼女にギラッと睨まれた婦人や令嬢達は、瞬時にシーンと静まりかえった。しかしこの状況がまだよくわかっていない子供たちは、大きな声で暴れまくっている。場の空気を呼んだ一人の婦人が子供たちを黙らせようと口を開きかけたが、一瞬遅かった。
「静かになさい」
その声は凛としていて、しかし驚くほど辺りに響いた。しかし彼女の表情は穏やかとは程遠く、憤怒のそれだった。その顔に、温室でぬくぬくと育ってきた子供たちは、ヒッと声にならない悲鳴を上げる。
「あなたたちはさっきから一体何を騒いでいるの?」
そう言いながらアイリーンはつかつかと二人の少年に歩み寄った。この場の中でもっともうるさく、そしてあわや取っ組み合いに発展しそうだった二人だ。
「だ、だってこいつが僕のお菓子を……」
アイリーンの剣幕に、少年は身をすくませる。
「無理矢理取ろうとしたんだ!」
ついに塞き止めてられていた涙が溢れだす。うわーんと盛大に叫び声を上げた。ああ……やっちゃった、という非難を帯びた雰囲気がアイリーンを包む。しかし彼女は全く意に介さない様子で未だ澄ました様子で立っていた。
可哀想に、とその少年の母親が思わず立ち上がった。慈愛に満ちた表情で彼を抱き留める。しかし腕の中の息子が一向に泣き止まないことに気付くと、先ほどの表情はどこへやら、今度は憤怒の表情でキッとアイリーンを睨み付けた。
「あなたね、何もこんな子供に怒鳴りつけなくたっていいんじゃない!?」
「別に怒鳴ったつもりは――」
「ああ、可哀想に。あとでたっぷりお菓子買ってあげるからね」
猫なで声で母親は息子に縋り付いた。グズグズと鼻水をすする音が聞こえる。
「でも……でも僕、あのお菓子が……!」
へなへなと震える指で、少年はもう一人の少年を指さす。彼の手には、大切そうに焼き菓子が握られていた。
「う……うるさいな! お前だってさっき俺のお気に入りのお菓子取っただろ! これは俺のだ!」
「でも……でも」
「たかがお菓子ごときで騒ぐんじゃないわよ」
アイリーンの一言に、子供相手にそんな無茶な、と誰もが心中で叫んだことだろう。
「でも、でもこれは俺のだ!」
「でも、でも!」
アイリーンの仲裁の声も聞こえない様子で、似たよう応酬が繰り広げられる。ついには彼女は大袈裟にため息をついた。
「ああ、うるさいうるさい」
言いながらアイリーンは二人に近づく。訝しげに彼らはアイリーンを見上げる。彼女は二人の子供をにっこりと見下ろしながら、そっと渦中の菓子を取り上げた。
「漁夫の利という言葉をご存じかしら?」
子供は茫然としてなおもアイリーンを見上げる。彼女の背丈は自分たちの二倍はあるだろう。届かない。
「残念だったわね」
そのお菓子は、あーんと広げられた彼女の口に納まった。もぐもぐと咀嚼する音だけが聞こえる。
「これで喧嘩の原因の種は無くなったわ。良かったわね」
呆気にとられたのは少年たちだけではなく。この場の婦人やメイドに至るまで、皆茫然とアイリーンを眺めていた。先ほど彼女を睨み付けていた母親も、もう返す言葉もなかった。
「その……悪かったよ」
「ううん、僕もごめん」
気づけば、二人の少年は握手をしていた。照れっとした表情も浮かんでいる。
「あらあら、良かったわね。私のおかげで仲直り」
「…………」
アイリーンは満足そうに頷いた。
――違う。
二人の子供は視線を逸らしながら、無言で頭を振る。
馬鹿らしくなったのだ、急に。子供のお菓子を取り上げた挙句、その目の前でこれ見よがしに菓子を頬ばる、二人よりもずっと年上のお姉さん。
それを見て、菓子ごときで喧嘩をしていた自分たちが急に恥ずかしくなった。人の振り見て我が振り直せ。まさにこれだ。彼らはそっと互いに頷く。一つ成長した少年たちであった。
「さてさて、もうこれでうるさい子供たちはいなくなったかしら?」
そんな少年たちの心中など分かるわけもなく、アイリーンは辺りを見回す。彼女と目が合った子供たちはすぐに目を逸らした。取り合っていた玩具から手を離して。
「あの……アイリーン様? さすがに言い過ぎだと思うのだけど……。子供たちは騒がしいのが当たり前というか、それが子供らしいというか――」
「子供らしい、ねえ?」
意見をした婦人は、アイリーンの母親ほどの歳である。にもかかわらず、その静かなな声に一気に萎縮される。
「子供らしいからって、ただ何の益もなく騒がしくされるのは馬鹿らしいったらないのよ」
ふうっとため息をつく、その時になってやっと、アイリーンは自分を取り巻く周囲の目に気が付いた。
何だかやり過ぎてしまったようで、彼女らの表情は固い。しかし気分を害するわけでもなく、アイリーンはにこやかに微笑んだ。
「空気を悪くしてしまったようでごめんなさいね。私はこれでお暇するわ」
一気に言ってのけると、彼女ははお茶会の席にくるっと背を向けた。所作の一つ一つがやけに優雅だ。
「行くわよ、ステファン」
「はい、姉上」
子供たちの中心から爽やかな返事が聞こえた。徐々に姿を現したその少年は、清潔なシャツに身を包み、利発そうな印象を受けた。姉と同じ柔らかな金髪に透き通るような青い瞳。そう、確かにそっくりだ。にもかかわらず、彼がアイリーンと血が繋がっているとはどうにも思えなかった。何しろ、受ける印象が全く違う。アイリーンはというと、底意地の悪そうな印象しか受けないが、弟の方は、柔和な雰囲気が見る人を落ち着かせる。
颯爽と身を翻し、二人が去って行く様子を、半ば茫然としたように見つめていた婦人たち。やがて彼女たちの姿が見えなくなったところで緊張の糸が切れたのか、面々は一斉に安堵の吐息を漏らした。
「あれが噂の子爵令嬢アイリーン……?」
「私、初めて見ましたわ。彼女、滅多にに姿を現さないから」
「というか、誰が彼女を呼んだの?」
「私ですわ。弟さんの出来がすごく良いって聞いたものだから、一目見てみたかったのよ」
ふんふんと頷きながらもどんどん彼女らの舌は回る。以前から興味深かった子爵令嬢が、目の前で盛大にやらかしたのだからそれも仕方ないのかもしれない。
「子供嫌いって本当だったのね」
「子供は元気なのが当たり前じゃない。それをあんな風に怒鳴り散らすなんて」
「彼女の弟さんも大変ね」
「弟さんと言えば彼、えらく従順だったわね! きっと家でも厳しく躾けられてるんじゃない?」
すっかり元の空気を取り戻したお茶会。というか、新たな噂の種出現に、むしろ更に活気立った。
「やっぱり両親がいないと、子供もあんな風に育つのね」
「親の子育てに口を出すなんて、失礼極まりないわ」
「ねえ? それに――」
とある婦人は勢いに乗って自分も口を開いたが、すぐに顔を俯けた。どうかしたの、と隣の夫人は顔を覗き込んだ。そして、彼女の肩が細かく震えていることに気付いた。同時に、彼女が何を言おうとしていたのか察し、自分も同じように笑いを堪えたような表情になった。そして耐え切れなくなった彼女は口を開き――。
「何なのよ、あの恰好!!」
大声で叫んだ。同時に、合点がいった周りの婦人達も笑い出す。微笑ましい笑いではなく、嘲りの笑い。自分たちがすっかり醜い顔になっていることにも気づかない。怯えた様に自分たちを見つめる子供たちの視線にも。
「貧乏子爵っていうのは本当のことだったのね!!」
「上から下まで、寸法が全然合ってないじゃないのよ」
「端切れでせっせとドレスの裾を伸ばしている姿が目に浮かぶわ!」
「あれ……確か一昔前のドレスよね? 私だったら恥ずかしくってあんなドレス着れないわ」
「もうこの際、誰か彼女におさがりのドレスを贈ったら? きっと喜んで次の日着てくるわよ!」
あっはっはと品性の欠片もない高笑いが辺りに木霊する。子供たちは、何が何だか分からず、ただ身を小さくさせて母達の様子を窺っていた。