18:子爵家恒例
幸先は良かったものの、カインは早速ウィルドの誘いに乗ったことに後悔し始めていた。山道は険しいわ、虫に噛まれるわ、一緒に登るはずの友達は既に姿が見えないわでもう散々だった。
「くっ……」
どれだけ登ったのかは分からないが、カインは息も絶え絶えだった。額からは汗が滝の様に出、足取りはとてつもなく重い。ついに彼は歩みを止めた。
「なになにー? もう疲れたの?」
しかしすぐに後ろから茶化す声が聞こえた。ムッとして彼は再び歩き出そうとした。
「べっ、別に疲れてなんか……!」
「嘘おっしゃい。限界なくせに」
腕を引かれ、あっと思った時にはもう自分の体は涼しげな木陰にいた。身が横たえられ、気づけば友達の姉がこちらを覗いていた。
「これだから子供って嫌なのよね。自分の体調管理もできないんだから。ほら、どうせ水も持ってないんでしょう?」
アイリーンが水筒を差し出す。喉がカラカラの状態での水は有り難く、カインは黙ってそれを受け取った。しかしすぐに憎まれ口が口をついて出る。
「どうせって言われても、山に登るだなんてここに来て初めて聞いたんだ。水を持ってくる暇もない」
「外に出るのなら水くらい持って出なさいってこと。山に登ろうと外に出ようと、この時期の準備はそう変わらないわ」
言われてみれば、確かにあのフットボール試合の時も、ウィルドは水筒を持ってきていた。柄に合わない大きな水筒を持って来ていたので、皆で彼に群がっておこぼれに与っていたのだ。
「それにしても、みんな随分登るの早いわね。大丈夫かしら」
目を細めて道の先を見やる。もはやその姿は見えないが、それだけに心配だ。と言っても、皆のまとめ役、ステファンがいるから大丈夫だろうとは思うが。
「私たちはゆっくり行きましょうか」
「……どうせお前も疲れただけだろ」
「あらあら生意気ね。私はまだ全然平気よ。舐めてもらっちゃ困るわ」
そう言いながらも、すでに息は上がっているのは内緒だ。恰好がつかない。
しかしそれを隠すまでもなく、カインが先にやらかした。ぐうぅ……と何とも可愛らしい腹の虫を鳴らしたのである。アイリーンは思わず吹き出した。
「まだお昼前よ?」
「うるさいな。今日は早めに朝食をとったんだ」
「じゃあ期待しておきなさいな。今日はエミリアが腕によりをかけてお弁当作ってくれたから」
「そんなの、もうとっくに腹ぺこのウィルドに食べつくされてるんじゃないか?」
「それはないわ。いくら何でも姉である私を差し置いて先に食べるなんて、そんなことあるわけないもの」
アイリーンは自信満々だった。共に暮らして数年。この間、子爵家の仲は至って良好。それどころか朝食や夕食も共にとる始末。子爵家は貧乏で食卓に上がる料理の質も侘しい。しかしだからこそ家族と共に食べることが、より一層満足感を満たす決め手となるのだ。そしてそのことを、家族全員心から感じていることだろう。
……だが頂上に辿り着いた時、その自信は崩れ去った。ウィルドと目が合う。彼の両手には、どちらもサンドイッチが握られていた。
「…………」
思わず気が遠くなる。
「おい」
「…………」
「そんなことあったぞ」
「…………」
「姉を差し置いてるぞ」
「……うるさいわね」
冷静なカインの声に、思わずアイリーンはムキになって叫ぶ。そしてその勢いのまま、ずんずんと子供たちの方へ歩み寄った。目が合ったままのウィルドはそっと両手のサンドイッチを傍らへ置いた。やましいことがなければそのまま食べ続ければいいのに、彼がそうするのは自身の行動をやましく思っている証拠に他ならない!
「あなたたち……」
ウィルドだけではない。よくよく見れば、ステファンもエミリアもフィリップでさえ口をもぐもぐとしているではないか。みんな姉から目を逸らしていた。やましいことがある証拠だ。
「山道を頑張って登ってる姉と友人を差し置いて、なに呑気に食べてるの?」
ふふふ、と暗い笑い声を上げる。
「誰が食べようって言い始めたのかしら?」
「ウィルドが駄々を捏ねて」
「ウィルドがお腹空いたって」
「ウィルドが」
想像はついていた。ついていたが、ここまでウィルドに人望がなかったとは……。兄妹たちに次々と暴露される彼が、少しばかり不憫になった。しかしそれとこれとは話が別。
「ウィルド……失望したわ」
毎度のことながら、彼のごはんに対するがめつさには目に余るものがある。
「我慢できなかったんだよ! ちょっとくらいいいじゃん。二人の分はちゃんと残してるんだし」
「そう言う問題じゃないでしょう」
「それに恒例のロシアンルーレットはまだちゃんと残ってるよ!」
バンッと効果音がつきそうなくらい元気よく手製の籠をつき出される。そこには仲良く二つのサンドイッチが鎮座していた。
「ロシアンルーレット?」
やっと追いついた様子のカインが不思議そうに口にした。それにアイリーンが頭を抱え、ウィルドが自慢げに胸を逸らす。
「五、六個の食べ物の中に、一つだけ外れが入ってるんだ」
「外れって……不味いのか?」
「そりゃあもちろん!」
隣からエミリアが顔を出し、これもまた得意そうにする。だから頭が痛い。
「いつもわたしが作ってるんだけどね、毎回味は変えて、でも不味くなるように工夫してるのよ」
そんな工夫いらない。
「ま、味見はしたことないから、実際はどんな味なのかは分からないんだけど……。どれくらい不味いのかは姉御が知ってるわ」
皆の視線がアイリーンに向く。
「いっつも外れを引くのは姉御だから」
アイリーンはため息をついた。
「不味いわよ。よくあるだけの食材でこんな味が作れるのかと感心するくらい。すっごく辛いうえに後味は苦いし、変なねっとり感もあるし……」
思わずジト目でウィルドを見やる。
「いっそのこと、それも全部食べてくれればよかったのに」
そう呟かずにはいられなかった。
しかしウィルドはそんな姉のことなど何のその、元気よく握りこぶしで応戦。
「まだ誰も外れ引いてないよ! きっとこの二つのうち、どちらかが外れだから。良かったね!」
「良くない!」
顔を顰めて叫ぶが、ウィルドはどこ吹く風。何だか疲れた……と脱力している所に、エミリアが歩いてきた。そして楚々としてサンドイッチが入った籠を差し出す。
「どうぞ」
「見た目には……どちらもそんなに変わらないわね」
「そりゃあもちろん。色のつくものはキャベツに挟みましたから。抜かりはありません!」
きょろきょろと二つのサンドイッチを見比べる。何か少しでも色移りしていないかと目を凝らして観察してみるが、さすがエミリア。毎回作ってるだけあって、そんな兆候など欠片も見当たらなかった。
「食べないのですか?」
「…………」
「折角心を込めて作ったのに」
「……食べるわよ」
大分間を開けてアイリーンは言った。
「食べるに決まってるじゃない」
「じゃあ早く食べてください」
「…………」
期待を込めた目で見つめる子供たちは容赦ない。
「こんなことなら私が作ればよかった……」
「料理はわたしの専門ですから」
「だからって……」
「大丈夫だよ、今回はカインもいるんだから」
「何なら先にカインに食べてもらっては?」
せめてもの癒し、フィリップが慰め、ステファンが提案した。その台詞に、アイリーンは目を輝かせた。
「そうね。私は引きが悪いんだもの、最後に残ったものを食べればいいんだわ! 残り物には福があるってね! カイン、お先にどうぞ」
「ぅえっ!?」
まさか自分に振られるとは思っていなかったカインは慌てた。子爵家は仲が良いなとか、先ほどまでの姉の威厳が台無しだな、などと失礼なことを考えていたツケが回ってきたのかもしれない。
「ほら、食べろよ。おいしいぞ?」
「……それは外れじゃなかった場合だろ」
「細かいこと気にすんなって~。ほら当たれば天国、外れれば地獄の究極の二択!!」
ずいっと差し出される。前はウィルド、隣はエミリアとフィリップ、後ろはアイリーンと、いよいよ逃げ場がないとその時になって気づいた。観念してカインは恐る恐るサンドイッチを一つ手に取る。
いくら不味いとはいえ、フィリップのような小さい子供もいるんだ。限度は弁えているだろう、そう思ってのことだった。しかし、甘かった。この一家が、そんな甘い考えを持っているわけがなかった。
一口齧り、咀嚼する。それだけで早速衝撃が来た。頭が真っ白になるほど口の中が唐突に痛くなった。何かが口内で暴れているような気がする。
「うっ……!」
「あはは、カインが当てたー!」
「姉御、五連勝にならなくてよかったですね」
「……五連敗の間違いじゃ?」
呑気なやり取りの側で、カインは早くもあの世に旅立ちそうな心地だった。噛み切ったはずなのに、齧りついたサンドイッチからはねっとりとした何かが零れそうになる。しかしそれに気づくことなく、カインは早くそれを飲み込もうと必死になる。できるだけ噛まずに飲み込みたいのに、狭い喉がそれを許してくれない。いつの間にか涙目になっていた。
「大丈夫?」
気づけば、すぐ側に小さな男の子がいた。確か名をフィリップといったか……。彼は呑気に笑う兄姉などには目もくれず、カインの背中をこれまた優しく撫でてくれた。何と優しい弟なのか……非情な兄と違って、と嬉しさのせいなのか、はたまた辛さのせいなのか見分けのつかない涙が頬を伝った。
「水ならたくさんあるから、遠慮なく飲んで」
「ああ……」
ステファンから水筒を受け取り、無理矢理飲み込んだ。しかしまだ口内には辛さが逗留しヒリヒリしている。しかも同時にどこからか苦味まで押し寄せてきていた。いつもおいしいものばかり食べてきたカインでは、想像もつかない辛さ、不味さであった。だからこそ一言言わなくてはならないと思った。
「フィリップに当たったらどうするんだ!」
カインは誰にともなく訴えた。
「はあ?」
「こんな小さい子供までいるんだぞ。限度を考えないといけないだろう!」
ぽかん、と口を開けて皆がカインを見た。すぐに合点がいったのはエミリア。
「大丈夫、フィリップは辛いもの大好きだから」
彼女がフィリップの頭にポン、と手を乗せると、彼はにへらっと嬉しそうに笑った。そんな光景を、カインは唖然とした表情で見つめる。天使の様に可愛らしいこの男の子が、辛いもの好き……?
「僕たちの間ではすっかり常識だったから勘違いしたんだね」
「そもそも外れに辛いもの入れようって言い始めたの、フィリップだしなあ」
「そして量をもっと増やした方がいいんじゃないのって言い始めたのもフィリップ」
「全ての元凶ね」
「…………」
意外とカインは打たれ弱かったようで、口をポカンと開けたまま硬直してしまった。アイリーンは何だか可哀想に思えてきて、コホンとわざとらしく咳払いをする。
「みんな、もうお腹も膨れたんでしょ。ちょっと遊んで来たら?」
「でも師匠は?」
「私たちはまだ全然食べたりないの。食べてからにするわ」
「よし、カイン! 食べ終わったらすぐ来いよ!!」
「あ、ああ」
戸惑ったようなカインの返事を聞くと、子供たちはわーっと歓声を上げながら走り去って行った。木登りをしたり追いかけっこをしたり、はたまた草原に寝っ転がってみたり……。何とも楽しそうにはしゃいでいる。
カインの方は、とこっそり覗き見ると、まだ先ほどの外れの後味が気になるようで、彼はくるくると百面相をしていた。
「ご愁傷様だったわね」
「……表情と台詞があってないぞ」
カインの言葉に、アイリーンはパッと表情を取り繕ったがもう遅い。彼女の堪え切れない笑みはばっちり脳裏に焼き付いてしまった。
「だって嬉しかったんだもの! 私より引きが悪い人がいたなんて!!」
「――僕は全然嬉しくないけどな」
拗ねたようにそっぽを向くカインに、アイリーンはそっと右手を差し出す。
「ほら、これ食べなさい」
「何だ……これ」
「見ればわかるでしょ、飴玉よ。かなり甘いけどね」
戸惑うカインを他所に、アイリーンはその手に無理矢理握らせた。
「子爵家恒例のロシアンルーレットで外れを当てるの、いつも私なのよ。だからお弁当持って出かける時は、その対策として口直しを用意してるわけ」
「……それはみんなも知ってるのか」
「ふふふ」
思わず黒い笑みが漏れる。
「知ってるわけないじゃない。あなたが黙っていれば誰も気づかない……。分かった?」
有無を言わせない雰囲気に、カインはただただ頷くしかできなかった。
「これからロシアンルーレットをやる時はカインを呼ぼうかしら」
「断る」
「そうそう。その時にはぜひ他のお友達も呼んできてね」
外れの確率が低くなるから。
明言したわけではないのに、彼女の表情はそう言っていた。