15:思い出の場所
エミリアとフィリップが不審者に遭遇してからというもの、アイリーンは今度こそ三人一緒に帰るよう強く言い、彼らも納得したのか、それからはきちんと三人で帰ってくるようになっていた。と言っても、さすがに彼らにも事情というものがある。どうしても用事やその他のことがあれば、アイリーンやステファンの都合がつく限りは子供たちを迎えに行くことにしていた。
その日は何やら、ウィルドがどうしても外せない用事――他所の子供とのフットボール試合があるらしく、妹たちのお迎えよろしく、と言われた。そのエミリアも、試合を見に行きたいとさっさと行ってしまった。残されたのは、アイリーンとフィリップだけ。自分たちも一緒に見に行けばよかったかと思ったが、もう後の祭り。素早い子供たちの姿はもう見えなくなっていた。
二人のことが心配だったが、しかし、後に情報屋アマリスから聞いた話によると、どうも被害者は茶髪の癖っ毛が多かったらしい。それに対し、ウィルドは癖のない短髪だし、エミリアはそれ以前に女の子だ。それほど過剰に心配することもないだろうと思いなおした。それに、四六時中姉と一緒では子供たちも気が滅入るかもしれない。
「でも今から家に帰っても何にもすることないわね。フィリップ、何かしたいことある?」
アイリーンは眠そうに目を擦るフィリップに向かって尋ねた。彼はしばらく考え込んだ様子だったが、何か思いついたのか、パッと頬を染めてアイリーンを見上げた。
「行きたいところがあるんんだ」
その一言で、二人の行く先は決まった。
*****
珍しくはしゃいだ様子で、フィリップはアイリーンの手を引いて進んだ。その先は、まだアイリーンも知らされていない。どれだけ距離があるの、とかどんな場所なの、とか聞きたいことはたくさんあったが、嬉しそうなフィリップを前に、その質問は呑み込んだ。どうせ辿り着けば分かるのに、今質問するのは野暮なことのような気がしたのである。
辿り着いた場所は、辺り一面に広がる草原だった。爽やかな風が頬を撫でていくのがとても心地よかった。繋いでいた手を離し、フィリップは独りでに小高い丘へと向かう。アイリーンも黙ってその後ろをついて行った。
「僕……よくお母様とここに来ていたんだ」
「お母様?」
「うん。小さくてあんまり覚えてなかったけど、この場所だけは薄らと覚えてる」
「そう」
「でも、そのうちお母様が病気で死んじゃって……この場所に来ることは無くなった」
ぽすんとフィリップはその場に座った。アイリーンも傍らに腰かけた。
「僕……だから家族はお父様だけになった。でもそれでも良かったんだ。お父様はいつも僕にお土産を買って来てくれるし、暇がある時は本を読んでくれる。……でもお母様が死んじゃってから、段々お父様の様子がおかしくなって――」
フィリップが苦しそうに息を吸って吐く。その感覚が次第に短くなってきた。
「あ……あの日、僕に……お父様が……!」
「……大丈夫よ」
アイリーンは静かに、優しくフィリップを抱き締める。
彼の苦しそうな声に、彼女自身胸を締め付けられた。幼い頃から断続的に暴力を振るわれることは、どれだけ苦しいことだろうか。それが実の両親ならなおさら。
*****
冷たい風が吹き付ける冬の日に、アイリーンとフィリップは出会った。帰り路を足早に歩いていると、フラフラと路地裏からフィリップが彷徨い出てくるところを見つけたのである。凍えるような冬だというのに、彼は薄い寝間着だけの姿だった。しかもその顔には、薄らと暴力の跡が見える。アイリーンの眉間に皺が寄った。
「あなた、こんなところで何しているの?」
すぐに彼女は彼に近づき、自らの身にまとっていた外套を彼にそっと羽織らせた。芯から冷え切っていた身体が心地よい温もりに包まれたはずなのに、彼の瞳にはそれに対する反応はなかった。
「親はどうしたの?」
アイリーンは跪き、少年の瞳を覗き込む。しかしそれに彼はビクッと体を揺らし、後ずさる。
「ご……ごめんなさっ……!」
「ど、どうしたの?」
「あ……お父様、ごめんなさいっ!」
振り返るが、そこには誰もいない。しかし、目の前の少年は父親に怯えている。芯から冷え切った身体に肌着一枚、そして何より顔の痣。もしかしたら体中にも痣があるのかもしれない。
アイリーンは薄らと事情を理解した。しかしだからといって、彼をどうすればいいのかすぐには判断がつかなかった。このまま放っておくこともできないし、かと言って彼を家に連れて帰れば自分が誘拐犯になってしまうかもしれない。
しかし、とアイリーンは黙って少年を見つめる。
薄着一枚で寒そうに震える少年、お父様ごめんなさいと繰り返す少年を、アイリーンは放っておくことができなかった。彼の冷たく小さな手を握りながら、彼女はまず役所に行くことにした。周りの大人たちに、知らない人についていってはいけないと教えられていないのか、彼は抵抗することもなくアイリーンに連れられていた。疑うことを知らない無垢な瞳が静かにアイリーンを見上げ、何だか心苦しいような思いがした。
役所につくと、アイリーンは早速届け出を出した。もしも保護者を名乗る者が出てくれば――それがもし、この少年に危害を加えていた者であれば――徹底的に抗戦する気満々だった。しかしそれから幾日と経っても連絡はなかった。少年も何も語ろうとせず、ただじーっと家に閉じこもっていることが多かった。
ウィルドやエミリアは大人しい少年との距離感を掴みかね、遠巻きに見ていることしかしなかった。アイリーンとステファンは大人しい少年を献身に世話をし、やっと名前を聞き出したのは、出会ってから数か月後のことだった。人一倍消極的なフィリップと仲良くなるには人一倍時間がかかったが、いつの間にかそれだけ愛情も芽生えていた。
何年経っても相変わらず保護者は名乗り出ず、今ではフィリップは子爵家にとってなくてはならない存在だ。本当の兄弟の様にみな仲が良いし、この穏やかな生活がいつまでも続きますように、いや続いてほしいと、そう思っていた。
*****
「すっかり夜になっちゃったわね」
「うん」
野原で泣きつかれたフィリップはアイリーンの腕の中で眠り、彼の穏やかな寝顔を見ていたら自分も何だか眠たくなり、そのまま眠りこけてしまったのである。ふっと肌寒い風を感じて起きた頃にはもう既に日は落ち、辺りは薄暗くなっていた。急いでフィリップを起こし、家路についたのだが、家に帰ってステファンに怒られることを想像すると、その足取りは重かった。フィリップ達が不審者に襲われてからというもの、アイリーンはステファンを含む子供たちに、日が落ちる前に帰ってくるようにと口を酸っぱくして言っていた。にもかかわらず、当の本人がその約束を守れなかったとなると……。その足取りが重くなるのも仕方がないのかもしれなかった。
屋敷への道のりはとても暗かった。途中まで街灯が道を照らしてくれるのだが、何しろ屋敷は山裾にあるのだから、そこまで街灯は続いてくれない。屋敷に近ければ、玄関に灯している灯りが道を照らしてくれるのだが、それまでの道のりは足元に注意して進まなければならなかった。
時折、傍らの茂みが音を立てたり、鳥の羽ばたきが聞こえたりと、夜の森はいつ何が起こるか分からない。視覚が制限されていることが、更に恐怖を助長する。何も見えない暗闇は、立派に成長したアイリーンですら、時に恐怖を感じるのだから、まだ幼いフィリップは尚更のことだろう。
だからこそ、彼の手を優しく繋ぎ、時折声をかけながら道を進んだ。嫌な予感を抱えながら。
アイリーンは先ほどから違和感を感じていた。確かに、山裾のこの辺りは、虫やら鳥やら小動物も多い。しかしそれにしても、音が多すぎるのだ。それに、やたら音が近い。
ガサッとすぐ側で音がした。どんどん近くなってる。アイリーンは無意識に足を速めた。後ろを振り向きたくとも、振り向けない。そんな矛盾が彼女を襲う。
再びガサッと音がする。真横からだった。フィリップ側の。見ないわけにいかなかった。
そこに、何かが立っていた。暗く、ひょろっと背の高い何か。動物ではないことは確かだった。隣のフィリップがぶるっと身を震わせたのが分かった。
「……こ、こんばんは」
言わずにはいられなかった。目の前の人が異常だと思いたくない意識の表れかもしれなかった。挨拶を返してくれたらきっとこの人は普通の人だ。そんな風に思いたかったのかもしれない。
しかし、目の前の人物はただ黙って突っ立っていた。
「母様……あの人だ」
フィリップの声は震えていた。
「え?」
「僕に抱き着いてきた人……あの人だ」
「何ですって?」
目の前の彼女はニタニタと笑い始めた。彼女の目はフィリップを真っ直ぐに射抜いていた。