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愛と鞭  作者: まくろ
第三話 母の心子知らず
14/120

14:嵐の前の静けさ

 ウィルドを回収してアイリーンたちがやっと家に辿り着いた頃には、辺りはもうすっかり闇に染まっていた。


「お腹空いた」

「でも何だか良い匂いがするな。ステファンが何か作ってくれてんのかも」


 騒がしい音を立てながら、エミリアとウィルドはさっさと扉を開けて中へ入って行った。家の前で二人きりになったアイリーンとオズウェルは多少居心地が悪くなり、互いにそっぽを向く。しかしその視線の先に、眠りこけているフィリップが目に入り、慌ててオズウェルの背中に回り込んだ。


「すっかり忘れてたわ。ありがとうございました。フィリップをここまで背負って頂いて」

 今度はアイリーンがフィリップをしっかりと背負った。穏やかで温かな寝息が首に微かに当たり、少しくすぐったかった。


「じゃ俺はこれで」

 オズウェルはそれだけ言って去ろうとした。しかしこの家の主人として、このままはいさようなら、という訳には行かないだろう。そんな無礼なことは貴族の矜持が許さない。


「中でお茶でも飲んでいかれます?」

「……言葉と表情が合っていないんだが」

「あら、気のせいじゃありません?」


 貴族の矜持が許さない……とは言っても、気持ちが追い付かないのは仕方がない。一応アイリーンとオズウェルは先日の夜に一悶着あったばかり。そう簡単に友好的な関係を築けるわけがない。


「しかし誘われて断るのは忍びないな。お言葉に甘えよう」

 思いもよらぬ言葉に、アイリーンはピクッと眉を上げる。自分で誘っておいて何だが、しかしオズウェルがこの誘いに乗ってくるわけがないと思っていたのだが。


「社交辞令という言葉をご存じ?」

「もちろん。しかし俺に頼み事をしておいて何の礼もないというのもな」

「あら、私は一言もお願いなんてしていませんわ。あなたが勝手に申し出ただけです」

「それにしても折角ここまで来たのに、目の前で追い返すのは貴族として……人としてどうだろう」

「分かりました。そんなに言うのなら入って行かれては?」


 アイリーンはムッとした。その怒りのままに、全く本心じゃない口上を述べながら扉を開ける。しかしその先に黒い塊が立ちはだかっていたので、小さく悲鳴を上げながら後ろに飛び乗った。暗闇に慣れてからようやく気付く。それが険しい表情で仁王立ちしている我が弟であることに。


「……ステファン?」

「姉上、ようやくのご帰還ですか」


 その声は地を這う様に低い。アイリーンは顔を引き攣らせた。


「な、何か怒ってる?」

「当たり前です! こんなに遅くに帰って来て! 探しに行こうかと思っていたところですよ!」

「わ、悪かったわよ。ちょっと予想外の出来事が起こっちゃって」

「予想外の出来事? それに後ろにいるのは……オズウェルさんですか?」

「ええ、そうなの。ちょっと騎士団にお世話になってしまって」

「……姉上、何やらかしたんですか」

「なっ、何もしてないわよ! 失礼な!!」


 アイリーンはいきり立って叫ぶ。誰かさんじゃあるまいし、人を問題児のように言わないでほしい。


「よく分かりませんが、姉たちがお世話になったようでありがとうございます。もうお帰りになるんですか?」

「いや、お茶でもどうかと言われたので、丁度お言葉に甘えようかと思っていたところだ」


 オズウェルが返事を待つようにアイリーンを横目で見たので、渋々彼女は頷いた。ステファンはその様子に顔をわずかに顰める。


「でも姉上、この方にだって仕事があるんですよ、こんな時間まで引き留めては申し訳ないです。もう遅いですし、僕が送って行きましょう」

「いや、今日はもう仕事もないし」


 オズウェルは首を振る。しかしステファンも笑顔で首を振る。


「送っていきますよ」

「いや……」

「送っていきます」

「ちょ――」

「送っていきます」

「…………」


 二人は黙り込む。どちらが優勢かは一目でわかった。


「よろしく頼む」

 根負けしたのは案の定オズウェルの方だった。


*****


 どうしてこうなった、とオズウェルは頭を抱えながら暗い夜道をステファンと共に歩いていた。彼としては、ただ単にあの小生意気な令嬢の悔しがる顔見たさに先ほどのお誘いを受けただけなのだが、それがもしや彼女の弟――ステファンの気に障ったのだろうか。


 そういえば先日の夜も、彼は誤解をしたまま家に帰ってしまった。今日のあの令嬢の態度を見るからに、彼女が弟に事情を聞かれて、あの状況をそのままに伝える様には思えない。むしろ、あることないこと脚色して伝えそうだ。だから弟は怒っている。そう考えるのが妥当だと思った。


 空気は相変わらず重い。しかしこのままでいるのも気まずい。意を決して口を開こうとしたら、一瞬早くステファンに先を越された。


「マリウスさんと噂になっているようですね」

「……っ」


 オズウェルは黙って頭を抱えた。


 何が嬉しくて、自分の男色疑惑を一日に何度も聞かなくてはならないのか……。一人は同僚から、一人は女性から、そしてもう一人はまだ成人にも満たぬ少年から……。街を守る騎士団長として、立派に職務を果たしているだけだというのに、それのどこがそんな疑惑を生み出しているというのだろうか。もう泣きたい気分だ。


「いや……その噂だが――」

「大丈夫です。僕もその噂がただのデマだということくらい分かっていますよ」

「そ、そうか」


 嬉しくなってオズウェルはうんうんと頷いた。


「ただ、姉上と噂になるようなことは今後控えてほしいんです」

 ステファンは立ち止まり、振り返った。その瞳は真剣だ。社交界の夜のことを誤解しているのかとオズウェルは慌てた。


「いや、先日の件は誤解なんだ。俺と彼女の間には何もない」

「分かっています。姉上は非常に怒っていましたけど、姉上にだって多少非はあることは想像がつきます」

「ならいいんだが――」

「まああくまでも多少、ですけどね」


 オズウェルは固まった。ステファンの表情はこちらからは窺えない。


「先日の件は当人たちに任せるとして、今は今後のことについて話しましょう」

「あ……ああ」


 一瞬冷や汗が流れたが、すぐに彼は話を元に戻してくれたので、オズウェルはホッとする。このまま社交界の件の佳境に入れば、自分に勝ち目はない、そんな気がした。


「あなたもご存じでしょう? 僕たち子爵家の噂は。今ですら子爵家は様々な噂が飛び交っているんです。その上姉上当人の艶聞まで流れてしまったら、いよいよ姉上の嫁ぎ先が無くなります」

「嫁ぎ先……?」


 あの高飛車な令嬢が嫁ぐ……?


 付き合いは非常に短いが、それでもあの令嬢の人となりは何となく分かってきた。だからこそ、彼女がその辺りの貴族に嫁ぐとは思えず、オズウェルは複雑な表情な顔をした。


「何か言いたいことでもあるんですか」

 しかしステファンはそれを逃さない。


「い、いや、別に……」

「受けて立ちますよ」

「いや、だからないから! 話を戻すぞ。とにかくもう二度と俺と君の姉が噂になるようなことがなければいいんだな?」

「まあ、端的に言えばそうですね」


 あの令嬢も毛色が違うと思ったが、彼女の弟もどこか異彩を放っているように思う。そのせいか、何だかとても疲れてきた。


「あなたが常識のある方だと信じてますから」

 じっとステファンはオズウェルを見つめた。それを固く受け止め、オズウェルは頷く。


「安心してくれ。俺と彼女は接点もない。これ以上噂の種になるようなことはないだろう」

 それは心からの本心だった。オズウェルはあまり社交界には顔を出さないし、向こうもそうらしいと噂に聞く。家同士繋がりがあるわけでもないし、かと言って因縁があるわけでもない。今まで顔すら見たことがなかったのだから、きっともう顔を合わすこともないだろう。そう思ってのことだった。


 しかしこれから先、幾度となく向こうの方から問題児たちがやってくるとは、今のオズウェル、加えてステファンの方も、思いもよらなかったのである。


*****


 オズウェル、ステファンと別れた後、アイリーンはフィリップをそっとベッドに横たえた。靴を脱がし、様相も軽く整える。お腹が空いた時のために、傍らの机に軽食を置いておいた。


「ああ、私も何だか疲れたわ」

 そんな独り言を言いながら、アイリーンは居間へ向かった。たくさん走り回ってたくさん叫んだ今日は、運動不足になりがちな彼女に多大な疲労をもたらした。自分も軟らかなベッドで休みたい気分だが、お腹も空いた。重い足をゆっくり動かしながら夕食への道を進む。


「あ、もう夕食作ってあるの?」

 扉を開けると、いい匂いが鼻孔をくすぐり、アイリーンはきょろきょろと部屋を見回した。


「兄様が作ってくれたみたいですわ」

「師匠も早く席についてよ、早く食べたい!」

「でもね……まだステファンが帰って来てないし」


 渋りながらも、アイリーンはそっとテーブルに近づく。もうここまでくれば躊躇う余裕もない。


「ま、すぐに帰ってくるか」

 お腹の空きにはさすがのアイリーンも勝てない。弟妹達の歓声の声を聞きながら席に着いた。


「ステファンの手料理を食べるのは久しぶりね」

 アイリーンとステファン二人だけで暮らしている時期のことを懐かしげに思い出す。掃除や炊事が苦手な自分とは違い、弟は何でも出来が良く、料理の腕も良かった。


「……私の方がおいしいもの」

 エミリアがぽつりと呟く。


「私の方がたくさん褒められたもの」

「はいはい。エミリアのシチューは絶品だものね」

「ほ、本当ですか!」


 エミリアの顔がパッと華やぐ。


「じゃ、じゃあ早速明日作りますね!」

「え……いや、別にそんなに早く作らなくてもいいのよ……? この間食べたばかりだし」

「姉御のためならいつだって作りますわ! 楽しみに待っていてください!」

「は、はあ……」


 また一週間シチューか……。


 アイリーンは遠い目をした。

 もう何度も繰り返し食べたせいで、アイリーン以外の子爵家の者たちは皆シチュー嫌いになりつつあるというのに、まだエミリアはシチューを作ろうとするのか。……正直なところ、元凶のアイリーンでさえシチューを見ると胸やけがするようになっていきているのだが、それを知らないのは、嬉しそうに笑っているエミリアだけだった。


「……師匠、じゃあ俺がみんなの飯を器によそうよ」

 先ほどのエミリアのシチュー宣言を聞いたせいか、心なしかウィルドの元気が無いように思える。


「あら本当? じゃあお願いするわ」

「どうせステファンももうすぐ帰ってくるよね? もう先によそっておくよ」

「そうね。ありがとう」


 順々にウィルドは器に料理を盛っていく。アイリーンに渡し、エミリアに渡し、ステファンも分もテーブルに置いたら、いよいよ自分の番だ。


「じゃ、後は俺の分だな……」

 そう言ってウィルドはどんどん器に盛っていく。残っている料理全て。


「ウィルド……あなた、いくら何でもそれはないんじゃない?」

 ここまできてようやくアイリーンはウィルドの思惑が理解できた。ようするに、先ほど姉からおかわり禁止を言い渡されたので、最初に盛る分をおかわり含めた量にしようという訳なのだろう。いつもは自分から手伝いを言い出さないので、先ほどアイリーンに買って出た時は、てっきり今日のことを反省したからだと思っていたのだが、とんだ勘違いだったようだ。


「でも始めにたくさん入れちゃ駄目とは言わなかっただろ? 最初っから大量に入れておけば……」

「ああっ、もう! そんなに零さないで! 自分で綺麗にしなさいよ!」


 育ちざかりのウィルドは言い訳する間にもどんどん器をこんもりと積み上げていく。ここまでする弟に、もはやアイリーンは注意する気力も起こらない。今回は見逃そうか、そう思い始めた頃に、ウィルドはぽつりと爆弾発言をする。


「もう師匠は口うるさいんだから」

「あ、それ言ったわね……?」


 ピクッと眉が揺れる。ウィルドはしまった、という顔になったがもう遅い。


「やっぱり色々と反省していないようね。今日のことも、この前の宴のことも……!」

「ちょ、まだそのこと根に持ってたの!?」

「そりゃそうよ! 大事にとっておいたお菓子も化粧道具も乱雑に扱われるし! だいたい何で男のあなたがドレス着たり化粧したりしてたのよ!」

「いやあ……その場の勢いでつい」

「可愛く言っても駄目! もう怒ったから!」

「何だよ、さっきからこっちが大人しくしてれば! 師匠だってどうせステファンと一緒においしいものでも食べてたんだろ!? じゃあいいじゃん、おあいこってことで!」

「どこがおあいこよ! しかも私達だって大したもの食べてないわ、失礼な!」


 やんややんやと姉弟の口喧嘩は続く。遠い目をした妹を差し置いて。


「兄様……早く帰って来て何とかして」

 エミリアが疲れた様に呟いた。まだまだ夜は長そうだった。

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