13:クリフの恐怖
子供たちの笑い声が響く夕闇。そろそろ夕餉の時間だが、そんなことを思わず忘れてしまうほど、子供というものは遊びに熱中してしまうものだ。ウィルドもまた然り。
「おーいクリフ、次は何する?」
彼は元気よく短髪の少年に話しかけた。つい先ほどまでまだ他に幾人か遊び仲間がいたのだが、皆夕ご飯だと帰ってしまった。一番仲の良いこの短髪の少年クリフは、やんちゃなウィルドに付き合うかのように残ってくれたのである。しかし振り返った彼の顔は渋いものだった。
「でもお前、妹たち迎えに行かなくてもいいのかよ」
「ああ、別にいいんだよ。あいつら口裏合わせてくれるしさ、師匠にはバレないから」
「お前の姉ちゃん怒るとすっげー怖いからな。俺まで巻き込むなよ」
クリフはぶるぶる身を震わせる。
「だから大丈夫だって。バレないバレない」
「んなこといったってよー……」
クリフはため息をつく。彼はウィルドの姉、アイリーンがものすごく苦手だった。
以前ウィルドの家に遊びに行ったとき、お腹が空いたので戸棚にあったお菓子をつまみ食いしたことがあったのだが、その現場をアイリーンに見られてしまったのである。
「あらあら……何してるのかしら?」
その時の彼女の表情は、まるで般若の様だった。たかがお菓子一つで、と叫びたかったが、必死で飲み込む。
「ご……ごめんなさ――」
「あなたは人の家で盗みを働きなさいと教育されたの?」
彼女の言葉一つ一つが胸に突き刺さる。いきり立ったクリフはバッと勢いよく顔を上げた。
「腹減ったんだよ、別にいいじゃん! 友達が遊びに来たら普通はお菓子出すもんだろ? 常識だよ!」
「あらあら? この家にそんな常識はないわ。郷に入っては郷に従え。そんな言葉をご存じ?」
「…………」
クリフは後ずさる。心中は、なんだこの女、という疑問で一杯だった。彼にも姉がいたが、こんな厳しい表情をすることなく、いつも優しかった。にもかかわらず、友人のこの姉は、酷く恐ろしい。
「ほら、お腹が空いたのなら自分で取ってきなさいな」
そう言って目の前の女が差し出したのは、ボロボロの軍手。
「ど、どういう……」
「食料。自分で取ってきなさいってこと」
「は……はあ? 食料!? なら金くれよ。市場にお菓子を買いに行けばいいんだろ?」
「無い袖は振れないの」
きょとんとした表情でアイリーンは言う。クリフも同じくポカンとする。
「山に行きなさいって言ってるの。この時期なら野イチゴがたくさん自生してるはずだわ。場所はウィルドが知ってるから行ってきなさい」
「は……?」
「あ、そうだ。私たちもデザートに食べたいから、余分に取って来てくれる?」
あんぐりと口を開けたまま、クリフは返す言葉もなかった。やっと正気を取り戻したころには、すでにアイリーンは椅子に座って縫物を始めていた。
「お……弟の友達に食料調達させる姉がどこにいるんだよ! 非常識だ!」
軍手を放り投げてアイリーンに向かって叫ぶ。しかし返されたのはたった一言。
「郷に入っては郷に従え」
意味はよく分からないが、破壊的な影響力を持つことだけは何となく察した。
「ほらほら、行ってらっしゃい」
アイリーンの微笑みは優しげなものだったが、クリフに取っては悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「うっ……う……」
その笑みを前に、まだ幼き少年が対抗できるわけもなく、ただただ悔しげに山へと足を向けることしかできなかった。途中でウィルドに訳を話した。遊び盛りの彼なら、きっと嫌がって姉に直訴してくれるはずだ、そう思って熱を入れて訴えた。しかし聞き終わったウィルドは嬉しそうに、『今日のデザートは野イチゴだ!』と叫んで山へ走って行った。なんだこの野生児、と思った。
野イチゴへの道のりは厳しかった。山道は険しいわ、虫に噛まれるわ、折角辿り着いて口に放り込んだ野イチゴは涙目になるほど酸っぱいわで、もう散々だった。おまけに一緒に来たウィルドはそれほど疲れた様子もなく、手あたり次第に酸っぱい野イチゴを口と籠の中に放り込んでいる。なんだこの野生児、と思った。
それからというものクリフは、ウィルドの家に遊びに行くときは、極力大人しくするようにし、できるだけアイリーンの目に留まらないようにした。万が一話しかけられても、行儀よく答えるように気を付けたのである。またどんな提案という名の命令を下されるか分かったもんじゃない、そう思ってのことだった。
元気なウィルドは友達が多く、だからこそ引きずられるようにして彼の家に連れていかれる者は多い。そうしてアイリーンに反抗した者は、彼女に洗礼という名の調教を受け、大人しくなっていくのである。未だ不満げに野イチゴを摘みに行く者には、クリフがそっと近づいて助言してやる。これ以上不憫な目に遭わないためにも、彼女には逆らわない方がいい、と。
そんなこんなで、ウィルドの家で無事に過ごすための生きた教科書、と呼ばれるようになったクリフ。彼は、気の合うウィルドとはよく一緒に遊びながらも、逐一その姉の行動は気に掛けるようになった。今もまたそうである。ウィルドの行動によっては、思わぬ飛び火がやってくるかもしれない。そう考え、ウィルドの行動は常に観察対象だった。
「ま……ならいいんだけど」
姉にはバレないから大丈夫、と宣言するウィルドを見て、ホッとクリフは胸を撫で下ろす。自分の家も両親の帰宅が遅く、できることならウィルドとその時間まで遊んでいたいというのは本心だったのである。
「じゃ、次何する?」
「うーん……鬼ごっこでもするか!!」
「またそれー? お前本当に走るの好きだな」
「別にいいだろ? ほら、お前が鬼な!」
そう言いながらウィルドはすぐに走り回る。俺からか、と呟きながらもクリフはそれを追った。ウィルドは確かに足は速いが、単純だった。回り込んだり少し陽動すればすぐに捕まえることができる。
「捕まえた!」
「何だよ、ずるいぞ」
「ウィルドが単純なだけだよ」
そう言ってクリフはウィルドに背を向けて走り出した。
「今度はお前鬼な!」
「何をー? すぐに捕まえてやるよ!」
「へへっ、捕まえれるもんなら捕まえてみな!!」
「――捕まえた」
「へ?」
その低い声は、案外近くからやってきた。聞き覚えのある、その声。
恐る恐るクリフは振り返った。悪魔の微笑みを浮かべるアイリーンと目が合った。
「捕まえたんだから、私も入れてくれる? 鬼ごっこ」
「え……えーっと……」
「あ、でも私スカートだわ。これだと思いっきり走るのは無理そうね……。残念だわ」
上から冷たい声が降り注ぐ。その間に急いで頭を回転させる。自分が生き残るための咄嗟の本能だった。
「お、お姉さんの目的はウィルド、ですよね」
「そうね。あの子、私との約束破ったみたいだから」
「じゃ、じゃあ俺、あいつ生贄に捧げます!!」
「あら本当?」
アイリーンは驚いたように目を丸くする。クリフはぶんぶんと首を上下に振る。
「じゃあお願いしようかしら」
彼女がそう言った途端、クリフが弾丸の様に飛び出して、すぐさまウィルドを捕らえた。遠くの方で余裕をこいていた彼を捕まえるのは容易いことだった。
「お、おまっ、裏切ったな!?」
「ごめん。こうするしかなかった」
言いながらクリフはアイリーンにウィルドを献上した。ゆっくりと彼女の口元が弧を描く。
「まあ、何だか悪いわね。少年たちの友情を壊してしまったみたいで」
「そんなことありません! 俺たちはこれしきの事で仲悪くなったりしませんよ、な?」
「俺は怒ってるけどな」
ウィルドはそっぽを向いて言うが、クリフはそんなのは意に介さない。自分の命が助かっただけでも儲けものだった。これ以上厄介事に巻き込まれないためにも、さっと彼らに背を向ける。
「お、おい、置いてくなよ!」
「野生児のお前なら何とかなる! じゃあな、明日また生きて会おうな!」
「こ……この裏切者―!!」
後ろからウィルドの叫ぶ声が聞こえるが、構いやしない。今日というこの日も命があることを、クリフは神に感謝した。
*****
「で、どういうことかしら、ウィルド」
アイリーンの冷たい声が降り注ぐ。
「この間私と約束したわよね? ここしばらくはエミリアとフィリップ、三人で帰ってくるって」
項垂れた様子でウィルドが頷いた。
「あなたがいない間、エミリアとフィリップが不審者に遭遇してね」
えっと彼の顔が上げられる。
「とっても怖い思いをしたのよ」
「…………」
「あなたがいたからと言って、何ができるとも分からないけど、兄として守ることはできたんじゃないの?」
「……ご、ごめんなさい」
落ち込んだようにウィルドは顔を俯けている。これくらいでいいか、とアイリーンは息を吸い込んだ。
「罰としてこれから一週間おかわり禁止とします」
「師匠! そりゃないよ!!」
バッとウィルドは勢いよく顔を上げる。
「俺育ち盛りなんだよ! 今のうちにたくさん食べておかないと身長も伸びないよ!」
「あらあら、それは可哀想。でも安心して、その分私たちの栄養になるから」
「酷いよー!!」
地団太を踏むウィルドに、高笑いをするアイリーン。彼らを遠目で見ながら、オズウェルはそっと傍らのエミリアに尋ねる。
「あの男の子も兄妹なのか?」
「そうですけど」
「一体君たちは何なんだ。姉のことを母と呼んだり師匠と呼んだり……」
「その方が呼びやすいからですわ」
何とも簡潔に言われる。一層このへんてこな一家のことが分からなくなった。