118:新当主
「兄様、帰ってきませんね」
沈黙の中、エミリアの声が一瞬漂い、そして消えた。その際に、アイリーンの胸にそれが深く刺さったのは言うまでもない。彼女はこっそり項垂れた。
「探しに行った方がいいんじゃない……?」
遠慮がちにフィリップはそう口にする。ぴくっとアイリーンの肩も反応したが、彼女が立ち上がることは無かった。
「もうお腹減ったよ。ステファンの奴、一体どこまで行ってんだか。お昼いらないならいらないって言ってくれよな!」
ウィルドはふくれっ面になってエミリアに同意を求めた。彼女はウィルドほど意地汚くはないので、もちろんそれに頷くことは無かった。代わりに、冷たい視線で見返す。
「な……何だよ。エミリアだってそう思うだろ? せっかく作ったのに、料理も冷めちゃったし」
「ウィルド、そういう所本当に無神経よね」
「なっ……何だよ、失礼な!」
ウィルドがいきり立つ。エミリアも睨み返す。今度はこっちの兄妹で喧嘩が勃発するか……という所で、ガチャリと玄関の扉が開いた。一気に緊張が走る。ゆっくりと居間の扉が開かれた。
「あっ……兄様、お帰りなさい」
「お帰りー」
フィリップは嬉しそうに駆け寄るが、ウィルドもエミリアも、まるで腫物を扱うかのように目が泳いでいる。そんな彼らを見て、ステファンは小さく笑みを漏らした。
「……ただいま」
そしてそのまま、視線は姉へと向かう。パチッと視線が交差した。先に逸らしたのは、アイリーンの方だった。
「姉上」
「な……なによ」
アイリーンの声が上ずった。大人気ない態度なのは分かっているが、しかしさっきの今で、そう簡単に優しくなれるわけ――。
「継ぎます、家」
「え……ええ!」
アイリーンが驚くよりも早く、弟妹達が大きな声を上げた。すぐに彼に駆け寄った。
「ど、どういう心境の変化?」
「やっぱり当主になってでっかいことしたいって思ったんだろ?」
「兄様が決めたのなら……それでいいと思う」
三者三様の反応に、ステファンも苦笑を浮かべた。
「まあ……僕もいろいろ考えたんだ、あれから」
姉を当主にすることが、彼女を自由にする唯一の方法だと思っていた。でも、むしろそれは彼女を縛り付けることになるかもしれない。それならば、自分が当主になって、逆に彼女を支えるという方法もあるのではないか。ステファンは、その考えに辿り着いていた。
しかしアイリーンはそんな弟の複雑な心境などいざ知らず、疑い深い目で弟を見やるばかりだ。
「……どういう心境の変化よ」
あれだけ怒って屋敷を飛び出した弟が、今度はやけにすっきりした顔になって帰ってきた。警戒しないわけがなかった。
「まあまあ、いいじゃないですか。取り敢えず――」
ステファンがさっと右手を差し出した。
「仲直り、しますか」
「だんだんウィルドに似て来たわね……」
アイリーンが呆れたように呟く。しかしステファンは笑顔のまま、動こうとしない。観念して、弟の手を握った。
弟と握手なんて、これから先もうないかもしれない。少々気恥ずかしい思いだった。
「ひゅーひゅー! これでようやく仲直り! 俺たちもようやくご飯にありつけるな!」
「…………」
エミリアの絶対零度の視線がウィルドに突き刺さる。しかし彼はそれに気づきもしなかった。
「今日のご飯は何かなーっと……。あ、シチュー……か。昨日の残りの……」
どんどんウィルドの気分が盛り下がっていく。ついでにエミリアの機嫌も悪くなっていく。
「皆さん、姉御と兄様が仲直りできたところで、お昼ご飯と行きましょう。ラッセルさんはこちらへ」
「え? あ、ありがとう」
そう言われるがままラッセルが座ったのは、ウィルドの席だった。ウィルドの顔から血の気が引いていく。
「無神経なウィルドに椅子はいらないわよねー。はい、ウィルドは床にお座んなさい」
「なっ……ひっでー! それはないだろ! そんなのひどい!」
「騎士になりたいのなら、ウィルドはもう少し騎士道精神というものを身につけなくっちゃ……。そういえば、ウィルド、兄様から騎士道に関する本貰ったでしょ? あれ、少しは読んだの?」
う、と途端にウィルドが詰まった。ステファンのジト目が彼を襲う。渋々ウィルドは口を開いた。
「十ページ目で、眠くなった……」
エミリアは鼻で笑った。
「だからいつまで経っても無神経なのよ」
「それとこれとは関係ないだろ!」
ギャーギャー新たな喧嘩が発展しそうなところで、フィリップが困った顔で仲裁に入った。
「まあ、ウィルドにしては頑張った方……なのかも」
「そうだね。それに、そんなに眠いなら、僕が要約して伝えようか?」
「……いや、遠慮しておきます。もしかしたら本を読むより長くなるかも……」
「強ち否定できないのか怖い所よね」
善意で言ったのだが、何だか弟は本気で遠慮しているようなので、ステファンは少々悲しくなった。
「では、早速食べましょう」
エミリアの声を皮切りに、各々料理に手を伸ばした。ウィルドはもちろん床で正座だ。
「おじさーん、今度もう一つ椅子作ってよ。毎回俺が床に座るんじゃ、身が持たないや」
「もちろんだよ。悪いね、僕のせいで」
そうは言いながらも、ラッセルは歓喜に満ち溢れていた。では……では、これから僕も時々ここにご飯を食べに来てもいいってこと!?
ラッセルは嬉しそうに姪を見たが、彼女は弟と仲直りできたことが嬉しいらしく、こちらに気付きもしなかった。ステファンを見て見ても、彼は一人不気味に笑みを浮かべているだけで、こちらも気づく様子はない。
後で……聞いてみるか、とラッセルは肩を落とした。
……さて、そしてステファン。
彼は改めて心の中で決心していた。
確かに、姉を当主に据えることは諦めた。そのことは、彼女を縛り付ける要因となるのではないかと危惧したからこそである。
だが、結婚の方は諦めてはいなかった。オズウェルは、結婚だって自由を縛り付けることになる……とか何とか言っていたような気がするが、ステファンはそうは思わない。姉にはできるだけ所帯を持ってもらって、生活の基盤となるものを作ってほしい。人生何が起こるか分からないのだから。
「僕が当主になった暁には、今後、姉上は僕に従ってもらいますからね」
気が付くと、ステファンはそう口にしていた。
「……それはもちろん承知の上だけど……何を企んでいるの?」
アイリーンは食べ物を飲み込み、警戒しながら頷いた。
「さあ? その時になったら分かりますよ」
「何だか……不気味」
「失礼ですね」
ふふふ、とステファンは黒い笑みを浮かべて笑う。
新当主になった暁には、姉の結婚相手探しが目下の目標である。
ああ、誕生日が待ち遠しい。
ステファンはほくそ笑んだ。




