11:彼の女
その日、アイリーンは早くに家路につくことができた。何でも、教え子の女の子が隣国へ観光に行くらしく、その準備をするらしい。それを聞き、アイリーンはこれ見よがしにため息をついた。教え子はもちろん驚いてその理由を尋ねる。アイリーンは再びため息をつきながら答えた。
「ああ、私にはまだ幼い弟妹達もいるのに、私は彼らに何の楽しみを与えられずにいるのよ。たった近くの村にさえ遊びに行く時間もないし、かといっておいしいものを食べさせるお金など無いわ。ああ、全く不憫なこと、何て可哀想な弟妹達……」
さめざめと言ってのけたアイリーンの言葉は、教え子の心に酷く響いたらしく、大丈夫です!と満面の笑みで頷かれた。
「私がアイリーン先生にお土産を買ってきます! 弟や妹さんたちにもたくさん買ってきますから、楽しみにしてて下さいね!」
「あら、本当? それは楽しみだわ。きっと弟妹達も大喜びよ」
内心ほくそ笑みながら、アイリーンはにっこりと微笑んだ。
貧乏子爵令嬢アイリーン。貴重なお土産のためならば、矜持も何もかも捨てる女であった。
とまあそんなこんなで普段よりも早く帰ることとなったアイリーンは、暇を持て余していた。家に帰ったとしても誰もいるわけもなく、かと言ってそのまま辺りをぶらついていても仕方がない。
家に帰って偶には料理をしてみるか、ともアイリーンは考えた。しかし以前エミリアの代わりに料理をした際にキッチンを汚してしまい、わたしの聖地が……と彼女に泣かれてしまったので断念する。ウィルドの代わりに畑を耕すことも考えたが、以前それをして、俺の縄張りを荒らすな!とひどく怒られたのでそれも却下。残るは家の掃除か縫物くらいだが、掃除はいつも完璧なフィリップのことなので、今日もおそらく埃一つ落ちていないだろうし、縫物に至っては、今現在急いでやるようなものはなかったように思う。となると、やはり暇だ。
「アマリスさんの所にでも行こうかな……」
こうなるともはや末期だ。アマリスの所に行けば、その弾丸の様なお喋りに永遠と付き合わされるだけにもかかわらず、アイリーンが行こうと考え始めるのは、絶望的なまでに暇な時だけである。
そうしてのろのろとアマリスの所へ歩き始めたアイリーンだったが、何やら街が騒がしいことに気付いた。野次馬根性でその騒ぎの中心と思われる方向へ向かった。その方向は、子供たちの学校への道のりだったので、次第に不安に襲われる。
「何かあったんですか?」
アイリーンはついに近くにいた女に尋ねた。露店を経営しているらしく、情報通ではないかと思ってのことだった。
「ああ、また不審者が出たんだってよ。今度は二人も被害に遭ったらしくって」
「二人?」
嫌な予感がした。
「女の子と小さい男の子らしいよ」
「――それはどこで?」
「さあてねえ……確か向こうの方だったかと」
「ありがとう」
一言告げると、さっさと彼女は踵を返した。露店の女が示した方向は学校だった。小走りに学校へ向かうと、やはりそこには人ごみがあった。
「あの、被害者の子供たちは? どれくらいの背格好!?」
「んー? どうだったかなあ……」
舌打ちしたくなる衝動を堪えて、アイリーンはすぐさま人ごみの中に突入した。前方に注意がいっている人の波はなかなか越えられず、アイリーンはもどかしい思いでいっぱいだった。
無駄骨であればいい、そう思いながらも辿り着いたその先には、見慣れた二つの後ろ姿があった。離れた場所に投げ出された二つの鞄と、泣いている少年、それを慰める少女。その傍らには、警備騎士団と思われる男二人もいた。
「エミリア、フィリップ!!」
「姉御!!」
「母様!」
後ろの野次馬がどよめくのが分かった。それはそうだろう。一人の少女は姉と呼び、もう一人の少年は母と呼んだのだから。しかし今はそんなことどうでもいい。しかと二人を抱き締めた。
「ああ、大丈夫だった!?」
「母様っ、怖かったよ!」
「姉御!!」
一緒に帰っているはずのウィルドはどうしたのとか何をされたのとか聞きたいことは山ほどある。しかし今は何も考えられなかった。ただ、二人をぎゅっと力強く抱き締める。
「痛いところはない?」
「大丈夫!」
「だ、大丈夫」
エミリアは元気そうだし、フィリップは泣いてはいるが、見た目には怪我もなさそうだ。思わずホッとして再び抱き締める。
しかしそんな中、ふと、視線を感じた。アイリーンはそっと目を開ける。じろじろと自分のことを見ている男と目が合った。騎士団の者らしく、その制服を着こんでいる男。彼と目が合った。瞳が驚愕に見開かれるとともに、どちらからともなく叫んでいた。
「あなたっ……!」
「お前は――」
やり場のない怒りが、互いに沸々と込み上げていく。
子爵令嬢アイリーンと、警備騎士団長オズウェルの、二度目の以下略。
*****
警備騎士団詰所。そこには、騎士団長と副団長、そして被害者のフィリップとエミリア、その保護者の令嬢アイリーンが向かい合って座っていた。
副団長マリウスは、何だか部屋の空気が重かったので、茶を入れてくると言ってそそくさと退場した。触らぬ神に祟りなし。それほど団長と令嬢の空気と表情は固かった。
言いたい文句は山ほどある。次に見えた時は何と言い返してやろうかという想定もしていた。それを目の前の女に言いたい。すごく言ってやりたい。しかし今は自分は警備騎士団の団長。場は弁えなければならなかった。
「本日昼頃、被害に遭ったそうだが、その時の状況を詳しく説明できるか?」
オズウェルの目は真っ直ぐエミリアを射抜いていた。未だ姉の胸でしゃっくりを上げているフィリップではまだ受け答えできないだろうと思ってのことだった。エミリアは頷く。
「はい。あの時、私たちは家に帰ろうとしていたんです。でもどこからかあの人が現れて……最初、特に気にすることなくすれ違おうとしたんです。でもその時急にあの人がフィリップに抱き着いて来て……」
「そうか、それは怖かったな」
「はい。――まあ、可愛らしい女の子の私ではなく、どうしてフィリップに、とは思ったんですけどね」
フッと自嘲気味にエミリアが笑う。一瞬オズウェルは呆気にとられ、彼女を見やったが、すぐに立ち直り咳払いをした。
「その不審者の身長は分かるか?」
「身長?」
エミリアは少し考えながら、アイリーンの方を向いた。
「確か、姉御よりも少し低いくらい……だったかと」
「……立ってくれるか」
オズウェルの目がアイリーンに向く。彼女は黙ったまますくっと立ち上がった。
「分かった、ありがとう。では恰好は? 色とか形とか」
「何だか……全体的に黒っぽかったような……」
「そうか」
羊皮紙にペンを走らせながらオズウェルはなおも尋ねる。
「その男、どれくらいの年齢か分かるか?」
「あ、一つ言い忘れてました」
「何だ?」
「その人、男性じゃなくて女性ですよ」
「……は?」
オズウェルがきょとんとした表情になる。
「その人、フィリップに抱き着いて何か言ってたんです。よく聞き取れませんでしたけど、女性の声でした」
「女か……」
今回の不審者は子供に抱き着く行為を頻繁に働いていたので勝手に男だと思っていたが、それは完全なる思い込みだったようだ。
「フィリップ、その人に何言われたか覚えてる?」
アイリーンは次第に落ち着いてきたフィリップに、そっと話しかけた。目はまだ赤かったが、こくりと頷く。
「……なんか、わたしの子供だ……って。そっくりだって……言われた」
「子供?」
「今までの被害者はどんな子たちなんですか?」
「そういえば……皆、男の子達だったな、中性的な容姿の」
考え込みながら、オズウェルは散らかっている書類をごそごそと探し出す。
「年齢も容姿も……言われてみれば皆似ている」
「ではその女性は自分の子供を探している……と?」
「まだ断定はできないが、そうかもしれないな。または、自分に子供がいると思いこんでいる、とか」
二人は考え込みながら沈黙した。
ひとまず話に区切りがついたところで、まるでその瞬間を見計らったように部屋にノックの音が響いた。オズウェルは顔を上げる。
「今更何の用だ。もう聴取は終わったぞ」
「あ、あれ? そうなの? あはは、こりゃ失敗したなあ」
呑気な声を上げて扉から入って来たのはマリウスだった。手に持っている盆には湯気の立っている茶とお菓子が乗せられていた。
「まあいい。しばらくこの子たちと遊んでいてくれ」
「え? どういうこと?」
「彼女と話があるんだ」
その鋭い視線は、アイリーンを真っ向から射抜いていた。突然のことに彼女は少し面食らったが、すぐに持ち直す。
「あら奇遇。私もですわ」
背筋を伸ばし、彼女もまたオズウェルを見返した。
こりゃまた一戦始まりそうだとマリウスは空笑いを返した。