106:新たな火種
疲れがたまって来たのか、帰り路はみな、次第に言葉数少なくなっていた。あれほど騒がしかったアイリーン、ステファン、ウィルドさえも、いつの間にか口を閉ざしている。エミリアやフィリップの方も、半分夢の中にいるようで、足取りがおぼつかなかった。
そんな中、一行はようやく分かれ道に突き当たった。一方は子爵家への道のりで、もう一方は騎士団の詰所へ伸びる大通りだ。
アイリーンたちは迷いなく、後者の道へ行こうと足を向けかけたが、オズウェルがそれを制止した。
「今日はもう疲れただろう。家に帰ってゆっくり休め」
「……いいの? いろいろと聴取とか取らないといけないんじゃないの?」
念のため聞き返したが、アイリーンのその声には隠しきれない歓喜が見え隠れしていた。
「また後日詰所に来てくれれば大丈夫だ。俺も疲れたしな」
その言葉に、子爵家の面々は何となく顔を見合わせた。一番に口を開くのはもちろんアイリーン。
「――今回は……何から何まで本当にありがとう。このご恩は一生忘れないわ」
「いやに殊勝だな……。止めてくれ、柄じゃないだろう。それに、俺はほとんど何もしていないしな。せいぜい、空気の読めない登場をしたぐらいだ……」
オズウェルはふっと遠い目になった。何だか哀愁も漂っている。
「ううん、そんなことないよ! 団長さんがいてくれて心強かったし、それに師匠を牢から出してくれたのも団長さんなんだろ? 本当にありがとう!」
「いや……気にするな」
純粋な瞳に見上げられると、オズウェルの方も悪い気はしない。確かに自分は今回あまり役に立たなかったような気がするが……しかし、そんなことを言うのは野暮というものだろう。終わり良ければ総て良し。それでいいじゃないか。
「……じゃあこの辺りで」
「ええ」
アイリーンも頷く。
「今回は本当にありがとう。また後日伺うわ」
「ありがとう!」
アイリーンと子供たちに見送られ、オズウェルの姿は曲がり角に消えていった。彼の後ろ姿が見えなくなってようやく、子爵家は歩き始める。自分たちの家に向かって。
「そういえば、屋敷の方は大丈夫なのかなー」
ぽつりとウィルドが呟いた。いち早く反応するのはステファンだ。
「え、どういう意味?」
「俺、今日一度家に帰ったんだよ。そうしたら、屋敷は王立騎士団に検分されてるみたいだったから」
「検分……穏やかじゃないね。そりゃあ、検めたくなる気持ちは分からないでもないけど……」
「撤退……していることを願いましょう」
アイリーンの静かな声をきっかけに、子爵家の面々はそれ以降口を閉ざした。疲労もあったのかもしれないが、将来への漠然とした不安もあった。フィリップの件は解決したとも言えるが、根本的な問題はまだ残っている。王立騎士団がこれで諦めたとは言えないし、もしフィリップのことが明るみに出れば、今までの平穏な生活は送れないだろう。それにエミリアやウィルドについての問題も残っている。――今日は家に帰れたとして、ゆっくりできるとは到底思えなかった。
ようやく屋敷に辿り着くと、予想していたような事態は無かった。そこには、一人の騎士の姿もなかった。見たところ、荒らされているような気配もない。アイリーンはホッと息を突いた。
「誰もいないみたいね。伝令でも来たのかしら」
「何はともあれ、これでゆっくりできますね!」
口々に嬉しそうな声を挙げながら、一行は屋敷へ近づく。しかしドアノブに手をかけたところで、アイリーンは固まった。
……鍵が、開いている。
嫌な予感がした。数年前のことを彷彿とさせる。家具が、思い出の品が、根こそぎ無くなっていたあの時のことを。
「鍵が、開いてるみたい」
それだけでステファンは悟ったようで、彼も目の前の扉を睨んだ。
「親戚の方でも来たんでしょうか」
「…………」
「噂は僕たちの所にまで来ていたんです。こういうことに過敏な彼らのことだ、きっと姉上の状況を良いことに、この家を乗っ取ろうとでも考え付いたかもしれません」
「…………」
アイリーンは未だ決心がつかなかった。この扉を開くことに。
しかしその時、ダダダッと中から何者かが走り寄ってくる音がした。そのことに反応する間もなく、扉は大きく開かれた。アイリーンは思わずドアノブを手放したが、その者の勢いはそがれない。アイリーンに勢いよくぶつかった。
「――っ」
弾丸のように飛び出してきたのは、一人の女性だった。
アイリーンは視線を鋭くする。
鍵の開いている屋敷から出てきた女性。怪しくないわけがない。
「あなた――」
「ま……まあまあまあ! アイリーンちゃん? これまたずいぶん大きくなったわねえ……!」
アイリーンが口を開く間もなく、その女性は矢継ぎ早に話した。
「ステファン君も大きくなって……。おばさん、嬉しいわあ。……あら、その子たちはどなた? あ……もしかして誘拐の――じゃなかった、一緒に暮らしている子供たち?」
にこにことその女性は返答を待つ。アイリーンは額に手を当て、首を振った。
「それよりも、あなたはここで何をしていたんでしょうか? ここは私達の家です。場合によっては騎士団を呼ばざるを――」
「まあまあ、違うの、違うのよ!」
女性は突然声を荒げた。
「私は二人を心配してここに来たのよ! 皆……あなた達の親戚の人たちもね、誘拐だなんて噂を聞きつけて、ここに集まったの。あなた達の噂が心配で、ここに来れば何か力になれるんじゃないかって。でも蓋を開けてみればここはあの人が占領してて……。そりゃあ私たちだって抗議したわよ。アイリーンちゃんたちの力になりたいのは、何もあなただけじゃないって。でもあの人、聞いてくれなくて……。抗議するのに疲れて、他の人たちは帰っちゃったんだけど、私はまだ残っていたのよ。もしあなたたちが帰ってきたら温かく迎えてあげようと思ってね」
「は……はあ」
「ほら、二人とも疲れたでしょう? 家にお入んなさいな。もうすぐここに私の家のメイドも来るの。彼女がおいしい料理を作ってくれるわ。使用人もいないから、今まで貧相な食事ばかりで大変だったでしょう? でももう大丈夫。これからは私達が毎日おいしい料理を作ってあげるからね」
腕まくりする女性に、エミリアもふくれっ面になる。
何よ、貧相な食事って! 姉御、何とか言っちゃってください!
エミリアはキッと姉を見上げた。しかし彼女は、にっこりと笑みを浮かべていた。エミリアが反応するよりも早く、姉は口を開く。
「――一体どなたでしょうか?」
「……え?」
それはもう、清々しいほどの笑顔だった。
「あなたは私達のことをよくご存知のようですけれど、私はあなたのことがさっぱり分かりませんの。お名前を教えて頂けません?」
「お……おほほ、そうね、もう数年は経っているものねえ、私の顔を忘れても仕方ないわよねえ」
対して女性の顔を固まる。まさか、こうもはっきりと言われるとは思っても見なかった。子供は社交辞令もなくて困るわ、と引き攣った笑みを浮かべる。
「私は……ね、あなたたちの親戚……の、ダイアナよ」
「では私の父の名はご存知でしょうか?」
一呼吸置く間もなくアイリーンは続ける。
「母の名は? そもそもあなた、先ほどから親戚親戚と言っていますけれど、私たちとどんなご関係があると? 一言で説明していただいてもよろしいでしょうか?」
「わ、たしは……」
ダイアナの頬は引き攣ったまま固まる。
「あ、あなたたちの……」
しかしその声は尻すぼみに消えていった。いつの間にか、観念したように彼女の視線は下を向いていた。ため息をつき、お帰りくださいとアイリーンが言いかけた時、その声は響いた。
「父親の従妹の夫の兄の妻の姉、ですよね?」
この女性の声ではない。男の声だ。聞き覚えがある。
「どうしてまだここにいるんでしょう。お帰り頂くようお願いしたはずですが」
「…………」
ダイアナは、答えない。ただ悔しそうに唇を噛み、俯いている。彼女を一心に見据えたまま、ラッセルは一歩一歩彼女に近づいた。やがて、彼女の目の前にまで来た時、彼の視線はアイリーンたちに向いた。その瞳は、おどおどしたように揺れていた。先ほど、この女性を追い詰めていたような迫力は微塵も見せず。
「……すまない。君たちのことを聞いたら、居ても立っても居られなくて、ここへ来てしまった」
「……あの、ここに王立騎士団の方たちはいましたか? ウィルドの話では、彼らに検分されていたということでしたが」
アイリーンが反応しないので、ステファンが代わってラッセルに応えた。彼は頷いた。
「確かに騎士団の人たちは検分していたよ。でも僕が君たちの後見人だからって話すと、ここを解放してくれた」
アイリーンをチラッと盗み見た後、再びラッセルは顔を俯かせる。
「君たちにとってみれば、何を余計なことを、と思うのかもしれないが、僕は――」
「いえ、そんな。ありがとうございます。家を検分されるのは、誰だっていい気分ではありませんから。感謝しています」
ステファンは姉の顔色を窺いながら言った。彼女の心情は分からないが、ラッセルの行動は非常に有り難いものだった。ただでさえ疲れているのに、家に帰ってまで騎士たちの相手はしたくない。
「じゃあ、僕はもう行くよ」
「え……もう行かれるんですか?」
「そうだよ! ちょっとくらい、ゆっくりして行けばいいのに」
思わずと言った様子でウィルドも声を上げたが、すぐにハッとした様子でアイリーンを盗み見る。その言葉は、不味いことを言った、とでも言いたげな表情だった。分かりやすい少年の行動に、ラッセルは眉を下げる。
「いいんだ。やらなくてはならないこともあるし。僕はこれで」
「……はい、お気をつけて」
「ありがとうございました」
ラッセルは小さく手を振って去って行った。最後に一度だけ振り返り、寂しそうにアイリーンを見やったが、彼女が応えることは無かった。




