104:乱闘
両者一歩も譲らず、ただ相手を鋭く睨み付けるだけだった。どちらが動くか、とアイリーンが逡巡していると、騎士たちの方が一斉に動き出した。彼らの動きは素早かった。途端に子供たちに飛びかかると、腕をひねり上げ――。
「ああっ!」
しかし弱弱しい声を上げたのは、騎士の方だった。ウィルドを抑えようと躍起になっていた騎士だ。手を抑えている。
「こいつ……俺の手を噛みやがった!」
「まだ俺は修行中の身だからね、正攻法じゃ勝てないんだ!」
「得意げに言うな!」
真っ赤になって騎士が叫んだ。ウィルドは更に嬉しそうに笑うと、今度はエミリアの方を向いた。隙があれば、彼女の方の騎士にも噛み付くつもりだった。しかし。
「触らないで……汚らわしい」
「うっ……」
エミリアは容赦なく言い切った。騎士は怯む。子供とはいえ、まるで汚物を見るかのようなこの少女の目つきは、何か心にくるものがあった。精神的に打撃を受けた騎士は、思わずよろよろと後ずさる。
そんな無様な騎士たちの姿を見て、激高するのはウォーレンだ。
「子供相手に手間取るな、さっさとやれ! 一人一人確実に捕まえろ。こうなったら一度、全員に牢での生活を味あわせてやる」
この言葉に、騎士たちは少しは頭を使う様になったのか、標的をフィリップ一人に絞ることにするようだ。じりじりと距離を詰めると、一気にフィリップに飛びかかった。四人がかりで腕を、足を掴まれたフィリップの顔は痛みに歪む。しかしそれに対抗しない子爵家ではない!
「いたっ……痛いから! 扇子はそんな風に使うものじゃないから!」
「ああっ、手を噛むな手を! しかもさっきと同じところ!」
「俺を……俺をそんな目で見るなあ! 俺は汚物ではない!」
大乱闘はなかなか拮抗しているかに見えた。しかしそれでもただの一般市民である子爵家は、一人の騎士に、一人しか対抗することができない。気が付いた時には、もうフィリップはこの乱闘を抜けていた。……一人の騎士に、拘束されたまま。
「フィリップ!」
思わすアイリーンは叫ぶ。後ろで騎士が彼女を羽交い絞めにしようと躍起になっていたが、構いはしない。
「こんなことをして、ただでは済まさないわよ! どこに行ってもフィリップを追っていくんだから!」
「そうだそうだ! それにこっちには人質もいるんだぜ……? 早くフィリップを離さないと、この人の手が大変なことに――」
「うっ……うわあああ! たっ、隊長、助けてください! 俺の右手が食いちぎられる!」
「誰もそこまでしないよ……」
叫びという叫びが、部屋中に響き渡った。しかしそれもまもなく収束を迎える。何と言ったって、もうフィリップ殿下はこちらの手にあるのだから。
ウォーレンはほくそ笑んだ。突然の乱入者に、唐突の乱闘騒ぎ。今回は予想外の出来事が多かったが、それももう終わりだ。面倒だから、子爵家は見逃してやろう。私達は、フィリップ殿下さえ手に入ればいいのだから。
くっ、と最後に再び笑みを浮かべると、ウォーレンは背を向けた。もう彼らに用はなかった。もう彼らのことなどどうでも良かった。しかしここでまた一つ、ウォーレンの予想外のことが起きる。
「――静まれ!」
突然響き渡る怒声。縺れ合っていた子爵家と騎士たち、そしてウォーレンの動きでさえ止まった。
「……その手を、離してもらおうか」
「――は?」
声の主は、クラーク公爵だった。彼の目は、真っ直ぐ――フィリップを拘束している騎士に向いていた。始めは困惑していた彼だが、やがて居たたまれなくなって、そっと手を離した。
彼は今まで、この光景を、いや、フィリップ殿下を連れていくことすら静観していたはず。それがなぜ、今になって――。
「どういうことです、クラーク公爵」
ウォーレンが進み出た。しかしなおもクラーク公爵は毅然としていた。
「それはこちらの台詞だ。その子はクラーク家の跡取り息子だ。何をもってして、連れて行こうとしているのか」
「……は?」
ウォーレンは固まった。思う様に言葉が出てこなかったが、無理矢理口を開く。
「……ご冗談を。彼をお連れすること、推奨なさったのは貴殿からではありませんか」
「そうだっただろうか」
「――っ」
ウォーレンは顔色を変えた。こうなることは、さすがの彼も微塵も予想していなかった。
「私は覚えていない。私もそろそろ歳だからな」
「ご……ご冗談を」
再び同じ文句だ。頭が働いていない証拠だった。
「それはこちらの台詞だ」
こちらも同じ文句。しかしウォーレンと違って、口元には余裕の笑みを浮かべている。
「何を証拠に、その子が国王の子であるとほざいているんだ? 場合によっては、国王に対する侮辱罪にも値する」
「…………」
まさに、ウォーレンにしてみれば、開いた口が塞がらないという状況だっただろう。しかも彼にとって悪いことに、この状況は全く好転する気配を見せなかった。
「それでもなお、フィリップ様を無理にお連れしようというのなら、こちらにも考えがあります」
ずいっと歩みを詰めるのは執事だった。いつの間に、彼はこの部屋に入って来たのだろうか。
「……そうよ、私達も相手になるわ」
状況は何が何だか分からないが、好機と見たのか、アイリーンたちもずずいっと近寄る。八方塞がりだった。
戦力は圧倒的にこちらの方が有利だろうが、しかしなんだこの威圧感は。
ウォーレンはギリッと唇を噛みしめると、必死に言葉を紡ぎ出した。
「……また出直そう」
もうそれしか言えなかった。怨念のこもった瞳でアイリーンたちを一瞥すると、ドシドシと部屋から出て行った。その後に続き、慌てた様に騎士たちも出て行く。解放されたフィリップは、へなへなとその場にしゃがみこんだ。慌ててアイリーンが駆け寄る。
「大丈夫?」
「うん……」
そう答えるフィリップはどこか上の空のようだ。しばしの沈黙の後。
「――ありがとうございます」
クラーク公爵に向かって頭を下げていた。
「ありがとう、ございます」
もう一度繰り返す。皆が皆、我に返った。
この場で一番心変わりしないかに見えた彼が、突然手のひらを返した。その心境は、いかに。
「もう行け」
クラーク公爵はこちらに背を向けた。
「クラーク家には今跡取りがいない。お前のことは利用するだけ利用してやる」
彼の表情は読めない。相変わらずの低い声だ。感情の機微さえ感じ取ることができない。
「お前はクラーク家の跡取りであって、決して私の息子などではない」
「――それでも。ありがとうございます」
もう一度フィリップは深々と頭を下げる。釣られて、アイリーンも礼をした。ウィルドもエミリアも、静かに頭を下げた。
「……お前はお前の家族とやらと一緒に暮らすがいい。時が来たら呼び戻す。この家には跡取りが必要だ」
「はい」
「分かったらもう行け」
「――はい」
フィリップは俯く。
もうどうあっても、彼は振り返らない気がした。アイリーンはそっとフィリップの背を押した。彼は小さく頷いた。
そして子爵家が静かに出て行った後の部屋。そこには、クラーク公爵と執事だけが取り残されていた。
「……今日は疲れた。もう休む」
クラーク公爵はそれだけ言うと、重苦しそうに首を振った。
「今日は大変な一日でしたね」
「ああ……屋敷中が騒がしかった」
「弟を取り返そうと、あの子爵家の子供たちが奮闘していたそうですから」
「家族……とやらか」
「はい、そのようです」
クラーク公爵ものろのろとした足取りで部屋を出た。執事はにこにことその後を追う。
「……いつまでついてくるつもりだ。私はもう休むと言っただろう」
「はい。ですが一つだけ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「彼女――エミリア様から窺ったのですが、フィリップ様、香辛料がお好きなようです」
「は……?」
私室のドアに手をかけた当主の手が止まる。執事は一層笑みを深くした。
「どなたかのことをよく見ていらっしゃったせいかもしれませんが、フィリップ様は昔から香辛料には目が無いですよね。しかし、私は身体に悪いからとお止めしていました。料理にやたらに香辛料をおかけするのを」
「…………」
「その反動でしょうか。あの子爵家では、辛い物が大好物になられたようで。いやはや、本当にどなかに似ていらっしゃったのか――」
「話はそれだけか」
短く言う。執事はにこやかに頷いた。
「はい、それだけです。長年の私の苦労が水の泡になってしまったと、ただそれだけです」
「……お前は昔から口うるさいな。香辛料は身体に悪くはないぞ」
「しかし人から聞いた話では、香辛料をたくさん摂りすぎると馬鹿になってしまうという――」
「私が馬鹿だと言いたいのか!」
「誰もそんなことは申し上げておりません」
そう言う執事の顔は、飄々としている。はあ、と重いため息をついたのち、クラーク公爵は勢いよく扉を開いた。
「本当に疲れた。もう休む」
「はい、お休みなさいませ」
執事は優雅に一礼すると、そっと扉を閉めた。




