102:対峙
扉の向こうからの返事は無かった。あまり時間もないと、アイリーンはそっとドアノブに手をかけた。先ほどとは違い、鍵のかかっていないドアは容易に開いた。
「……フィリップ?」
暗闇に向かって問いかける。身を滑り込ませた後、すぐに扉は閉めたので、本当に真っ暗闇になった。手探り状態で中へ進む。
「母様……」
どこから、懐かしい小さい声が聞こえる。そのままその声の元へアイリーンは向かった。
彼女が伸ばした手は、すぐに小さく、温かい手に握られた。アイリーンも同じようにぎゅっと握り返す。ぼんやりとフィリップの顔が浮びあがってきた。
「フィリップ……」
大きく嘆息しながら彼の背中を撫でる。小さな弟の確かな体温が感じられ、思わずアイリーンは涙ぐむ。たった数日間ではあるが、随分長い間会っていないような気がした。
「こんなに痩せて。痛い所はない?」
「……大丈夫」
フィリップは小さく、けれどもしっかり頷いた。
「でも、どうしてここに母様が?」
「え……っと」
フィリップに見上げられ、アイリーンは言葉を濁した。果てして、この純粋な瞳に向かって、屋敷に不法侵入しましたと言える猛者がいるだろうか。
「皆は元気?」
長年の経験からか、フィリップは何かしら悟ったようで、すぐに質問を変えた。アイリーンは大きく頷く。
「ええ、元気よ。フィリップのことが心配で、皆でここまで来たの。今はちょっとバラバラなところにいるんだけれど」
こう言った当人は知らないが、実質、本当にそれぞれバラバラな所にいた。ステファンはヒュルエル通りを目指して屋敷の外を歩いてるし、ウィルドは西棟客室のタンスの中を捜索、エミリアは地下の使用人部屋にて情報収集……。オズウェルは現在屋敷中を逃走中である。当初の計画はどこへ行った。
「フィリップ……。一つ、聞きたいことがあるんだけれど」
「……うん」
そんなこととはつゆ知らず、アイリーンは真っ直ぐにフィリップだけを見つめる。
「フィリップはどうしたい?」
「え?」
「これからのこと」
何も考えずにここへ来たのは事実だが、まず始めにしなければならないのは、フィリップがどうしたいかだ。彼の言葉一つで、アイリーンの立場は左右される。
今までのように、自分たちと一緒に暮らすのか、それともこの家で暮らすのか、はたまた王宮へ行くのか。
国王はフィリップとその母親のことを覚えていなかった。にもかかわらず、なぜ今頃になってフィリップを王宮へ連れて行こうとするのか。それは、今のアイリーンには想像しようもないことだが、しかしその選択はフィリップがするべきだ。間違っても、父親やウォーレン、そしてアイリーンがすべきことではない。
「僕、王宮には行きたくない」
「……え?」
フィリップの顔は俯けられていて、その表情は読めない。
一瞬、アイリーンの頭は真っ白になった。悩むあまり、もしかして私は口に出していたのだろうか――。
「ごめん、僕、二人の話聞いてたんだ。……僕が、国王陛下の子供だって」
「……聞いて、いたの?」
「うん。ごめんなさい」
「いえ、私の方が不用意だったわ。そうね、あんな所で話していた方が悪いわ」
まだフィリップは幼い。自分の境遇を、壁一枚を分け隔てた一室で、盗み聞きの様に聞かせたくはなかった。しかしフィリップはなおも真摯にアイリーンは見上げた。
「……どうして? 僕は聞いてよかったと思ってる。知らなかったら、ずっと訳が分からなかったままだったから」
言いながらも、フィリップの顔はどんどん下を向く。
ずっとずっと、分からなかった。
どうしてお父様が、僕をあんな目で見るのか。反応してくれなくなったのか。
でも……これですっきりした。お父様が悪いんじゃない。僕が悪かったんだ。
フィリップの顔色は悪い。しかしアイリーンはそれに気づかず、頷いた。
「じゃあ、ここではっきりと宣言しましょう、王宮には行きたくないって。あの騎士の方には帰ってもらいましょう」
「でも、そんなことできるの?」
「どうでしょうね。でも、やるだけやってみましょう」
折角子爵家の皆で力を合わせてここまで来たのだ、フィリップの意思に反して彼は連れていかれました、じゃあ恰好がつかない。
ふと彼女は目線を下げる。
何だか、フィリップがやけに落ち着いている気がした。普通、今まで父親だと思っていた人が、実は父親でなかった、などと知ったら、多少なりとも混乱する筈ではないのか。
「フィリップ――」
問いかけようとした。今何を考えているのか。しかしそれよりも早く、フィリップは自分の唇に人差し指を当てた。
「――足音だ」
「足音?」
「二人……いる」
咄嗟にアイリーンは屈もうとしたが、すぐに思い返した。今から隠れたところでどうなる。今は見つからないことよりも、フィリップのことで話し合う機会の方が重要だ。
その微かな足音は、真っ直ぐにこの部屋に向かっているようだ。固唾を呑んで見守っていると、ノックもなしに、唐突に扉は開かれた。
始めに入って来たのはクラーク公爵と思われる男性、その後ろにウォーレンだ。彼らはアイリーンを見て眉を上げた。
「お邪魔しています」
とりあえずアイリーンは頭を下げた。その顔はどこか飄々としている。呆れ返ったのか言葉を無くしたのか、目の前の二人は沈黙している。お前は誰だとか、なぜここにいるんだとか、いろいろ聞きたいことはあったが、それよりも先に、どうしてそんなに偉そうなんだ、というのがクラーク公爵とウォーレンの純粋な心境だった。
しかしそれでもいつまでも呆けている訳にはいかない。わざとらしい咳ばらいをしたのち、ウォーレンはいち早く口を開いた。
「ということは、先ほどの怪しい話し声とやらは、オズウェルとお前か? ……全く、一度落ちるとどこまでも落ちていくやつだな」
やれやれと首を振りながらも嬉しそうに続けるウォーレン。
「思えばいつもそうだった。あいつはいつも貧乏くじを引く……というよりは、性根がそうなんだろうな――」
しかしアイリーンは意に介さない。真っ直ぐにクラーク公爵の下に行き、彼を見据える。
「私、リーヴィス=アイリーンと申します。フィリップの姉です」
にっこりと笑って言ってのける。彼がフィリップの父ではないと言うのなら、私が姉だと胸を張る権利はあるはず。
クラーク公爵は苦々しい顔になったが、口を開くことは無かった。あの執事から大体の事情は聞いていたのかもしれない。
「おい、聞いているのか。オズウェルはどこにいるのかと聞いているんだ。隠すとためにならないぞ」
ウォーレンの話は未だ続いていたらしい。彼は肩をすくめた。
「そうだな……。あいつの居場所を吐けば、お前に関する罪は減刑してやってもいい。なに、俺は王立騎士団第一隊隊長だからな。その辺りにも顔が利くんだ。話を通してやってもいい」
「はい? そんなこと今はどうでもいいの。問題はフィリップよ」
無下に一刀両断。
「あなた、フィリップを連れていくつもり? フィリップが庶子だから」
「……何だ、事情を知っているのか」
ウォーレンは意外そうだった。しかしアイリーンはその後ろ、クラーク公爵の顔が歪むのを確かに見た。
「ええ。――で、連れていくつもりなの? そもそも、どうして今頃になって――」
「お前には関係ないだろう。これは我々の問題だ」
「僕も聞きたいです。僕の問題ですから」
すぐにフィリップが援護する。これにはさすがのウォーレンも閉口した、そして。
「……カイン殿下の母君は、平民の出でいらっしゃることをご存知でしょうか」
唐突に彼は礼儀正しくなった。相手が相手だとこうも違うのね、とアイリーンは呆れたような思いだ。
「それをここよく思わない方もいらっしゃるんです。そこで白羽の矢が立ったのがフィリップ殿下です。あなたは――国内でも有力な、ハミルトン公爵の母君をお持ちです。国王が平民を母としていれば、国内の均衡が崩れる」
「…………」
アイリーンは不機嫌そうに眉を上げた。
そのくらいで?と言ってやりたい。しかしたったそのくらいでも、貴族を上位としているこの国では不安定になってしまうのだろう。そういう自分も一応は貴族の一員であるので、なかなか難しい問題だ。
「でも僕は行きたくない。僕が誰の息子であれ、王宮には行きたくない」
「これはあなただけの問題ではないんです、フィリップ殿下。我儘を仰らないでください。それに、国王になれば、何でも欲しいままにできますよ。貧乏な家庭で貧相な食事をすることも無い。ボロを纏うことだってないんです」
「ちょっと、それだとまるで私かフィリップにボロを纏わせてるみたいじゃない。人聞きの悪いこと言わないでよね」
思わずアイリーンは口を挟んだ。そんなことを言うべき状況ではないと言うのは重々承知していたが、口を出さずにはいられない。彼女にとって、自分が作った服を馬鹿にされるのは何よりも耐え難かった!
「話が逸れたわね」
少々気恥ずかしくなり、アイリーンはコホンと咳払いをする。
「あなたたちがフィリップを迎えに来たってことは、王立騎士団はフィリップにつく……ということ?」
アイリーンはウォーレンは真っ直ぐに見据える。
いい加減、この腹の探り合いのような押し問答に嫌気がさしてきた。早いところ、決着を付けようじゃないとその時を投げかける。
危険な問いだということは分かっていた。それに、そう易々とこの騎士が答えるとも思えない。
「……そんなこと、お前が知ってどうする。オズウェルに告げ口するか?」
「単に私が知りたいだけよ。フィリップとカインが対立するなんて、私は嫌だもの」
「だいたいお前な、こんなことをしている暇はないだろう」
「急に何よ」
ウォーレンはどうしても話の主導権を握りたいらしい。知りたいことを思う様に聞くことができず、アイリーンはイライラする。
「お前は追われているんだ、誘拐の罪でな。フィリップ殿下をお連れした後、お前も連行するからな」
「だから私のことはいいって言ったでしょう! 今はフィリップのことよ!」
堂々巡りだ。両者歩も引かない。いつまでこの問答が続んだと気が遠くなりかけた頃、低い声が割って入った。
「――もうその辺りでいいだろう」
二人は思わず押し黙る。それほどの迫力があった。
「もう話は済んだはずだ。私の屋敷から出て行ってくれないか」
振り返ると、クラーク公爵がうんざりしたような顔をしていた。
ようやく口を開いたと思えば、そんな言葉。
アイリーンは唇を噛みしめた。




