101:事情
アイリーンは小さく扉を開け、首だけを外へ出してみる。しばらく周囲をを窺っていたが、相変わらず人の気配はないようだ。
本当に全員の注意をひきつけることができたのね……。
些かオズウェルのことが心配にもなってきたが、自分にだって、やらねばならないことがある。
顔を引き締めると、アイリーンは思い切って廊下へ出た。当主の部屋へ行くのだろうウォーレンたちの姿はすっかり消えていたが、ここは今いるここは最上階。きっとこのどこかに当主とフィリップがいるはずだ。アイリーンはとにかく長い廊下を東に歩いた。
「…………」
しかしいずれ廊下は壁にぶち当たる。困り切って左を見て見れば、豪華な一つの扉。
……直感だった。
そもそも、この屋敷の当主は、人嫌いではなかったか。ならば、人嫌いの彼が部屋を作るとしたら、それは屋敷の最奥なのではないか。
その扉にピタッと耳を当ててみると、何やら話し声が聞こえた。何を話しているかまでは聞き取れないが、当主らしき人の声と、ウォーレンの声が聞こえた。アイリーンは思わず口元を緩ませる。
しかしすぐにその笑みはひっこめられた。最終目的はフィリップの部屋だ。当主の部屋が見つかったからって、肝心の彼の部屋が見つけられなければ意味が無い。
しかし扉の向こうから足音が聞こえ、アイリーンの思考は中断された。誰かがやって来る。彼女は急いで向かいの部屋に入った。どの部屋も決まって鍵が開いているので、隠れるには十分すぎるほど余裕があった。加えて、使用人も少ないので、誰かに見つかるということも無い。
部屋から出てきた主は、そのまま去って行く――かに聞こえたが、躊躇ったようにその場に立ち止まると、すぐに向きを変え、近くの部屋に入った。しばらく耳を澄ませていたが、その主が出てくる気配はない。アイリーンはそっと部屋を出てみた。
……おそらく、その主が入った部屋はここだろう。
二度目の直感だった。しかし今日は妙に冴えている気がする。アイリーンは再び、当主の部屋からいくつか離れた部屋の扉に耳を当てた。……しばらく、彼女の眉間には皺が寄っていた。と思ったら、すぐにその顔に喜色が広がる。――フィリップの声! 小さくてよく聞こえないが、確かにフィリップの声が聞こえる!
しかし喜ぶのもつかの間、再び扉へ歩み寄る足音がした。アイリーンは慌てて先ほどの部屋に飛び込む。勝手に屋敷に忍び込んでいる以上、一瞬も気が抜けなかった。
足音は、今度こそ階下へ降りて行った。歩幅が大きく、そして足音も大きいので、フィリップではないだろう。
その音が完全に消え去るのを待って、アイリーンは素早くフィリップの部屋に近寄った。すぐにでも彼に声をかけたいところだが、誰かに聞かれても困る。恐る恐るドアノブに手をかけ、そのまま勢いよくドアを開け――たが、鍵がかかっていてビクともしなかった。
「何よ、鍵なんかかけてるの……?」
アイリーンは小声でぶつぶつ言う。
「外から鍵をかけるだなんて、これじゃ監禁と一緒だわ!」
怒り、焦りと共に、アイリーンは力いっぱい引っ張ってみるが、その程度の力で開くわけもない。
この……この部屋の向こうに、フィリップがいるのに……!
アイリーンの思考は、半ば停止していた。何も考えずに、ただ無心でドアを引っ張り続ける。。あまりにも熱中し過ぎて、自身に近寄る足音に全く気が付かなかった。気が付いた時には、驚いたように廊下で立ち尽くす執事と、ドアに手をかけているアイリーンとの目がパッチリ合ってしまっていた。
「あ……」
そろり、とアイリーンの視線がずれていく。それとともに、そっとドアから手が離れた。
「ち、違うんです、これは……その」
そのまま視線は宙を泳いだ。
「み……道に、迷ってしまったみたいで……」
言い訳を閃いた、と思ったら、口から出た言葉はそんなもので。
こんな適当な弁解で、この有能な執事が騙されるわけがなかった。それに当の本人アイリーンは、どこかの弟とは違って、第一印象も良くない。どこかの野生児曰く、『意地悪な要素を師匠が全部持って行っちゃって――』な容姿をしているので、なおさらのことだった。
「…………」
執事は無言で一歩一歩とアイリーンに近づく。
アイリーンは思考が停止し、その場に立ち尽くした。が、執事はそのままアイリーンを通り越し、フィリップの部屋の前で立ち止まり、鍵を開けた。
「どうぞ」
「……え?」
一瞬呆けた様な顔をするアイリーン。しかしすぐにハッとすると、慌てて執事に目を合わせた。
「あ、の……一体どうして?」
ここまで盲目的にフィリップを目指してきたアイリーンだが、さすがの彼女も、この状況でそう易々と中に入れるわけがない。というより、完全に怪しい。何か罠を仕掛けられていても困る。慎重になるのも当然だった。
「あなたはフィリップ様の姉君でいらっしゃるんでしょう? ならば私がお止めする理由はありません」
「あなたはフィリップの味方なの?」
台詞に反して、アイリーンの声に不審が交じる。どうして彼は私のことを知っているのか。誘拐犯として顔を覚えたのかもしれないが、しかしそれならば、自らフィリップの元へ行かせるはずがない。
彼の反応によっては、一時様子を見るか、突撃を仕掛けるかどちらかね、とアイリーンは心を決める。しかし執事は、そんな緊張したアイリーンのことなどいざ知らず、深刻そうな表情で頭を抱え始めた。
「そう……なのでしょうか。私などで、フィリップ様のお力になれているのでしょうか」
「…………」
私が聞いているんだけれど。
思わず口をついて出てしまいそうだったが、ここは堪える。
「どちらなんでしょう。私をフィリップの部屋に通すということは、フィリップの味方ということでよろしいんですか?」
「……はい、そうです。私はフィリップ様の味方です」
「だったら――」
「旦那様の味方でもあります」
思わずアイリーンは身構えた。
「あなた、フィリップが虐待されていたことを知っているの?」
「存じています」
「それでも当主の味方なの?」
「はい」
その返事は淀みない。アイリーンは頭を抱えた。庭でのエミリアへの対応といい、先ほどの狼狽っぷりといい、この執事の人柄は良いことが分かった。しかしだからこそのこの頑なさ。当主への忠誠心は揺るがない。
「――旦那様は、確かにフィリップ様に消えない傷を残されました。おそらく、フィリップ様は一生お苦しみになるでしょう。しかし私はそれでも、お二人が元のような関係に戻ってくださることを願っているのです」
「何か、事情があるの?」
視線を下に向けて話す執事の顔は、どこか苦しそうだ。思わずアイリーンはそう尋ねた。彼は一瞬躊躇ったように固まったが、すぐに深く頷いた。
「旦那様は、フィリップ様の本当の父親ではありません」
「――っ」
一瞬言葉を無くした。しかしすぐに我に返る。
「でもだからって、虐待していいという訳では――」
「フィリップ様がお生まれになった時、旦那様はひどく喜ばれました。旦那様と奥方様、結婚してすぐのことでした」
「…………」
ゆっくりとアイリーンは口を閉ざした。ひとまず、黙って聞き入ることにした。よどみなく話す間にも、執事の視線は宙を漂っていた。
「その後数年間、クラーク家は何事もなく幸せに過ごされていました。しかしやがて、奥方様がご病気になられました。旦那様とフィリップ様は献身的にお世話を致しましたが、奥方様のご容体は悪くなる一方。心身ともに衰弱なさってしまった奥方様は、ある日旦那様をお呼びになり、こうおっしゃったのです」
ここで執事は一旦言葉を切った。
「本当はこのまま墓場待て持って行くつもりだったが、フィリップの成長を目にする度に心が痛む。だから懺悔させてほしい。フィリップは国王陛下の子である、と」
「――っ! 国王陛下……フィリップが!?」
アイリーンは驚愕に目を見開く。次第に話はとんでもない方向へ進んでいた。
「認知はされていませんが、確かにそうです」
執事は一層声を潜める。
「旦那様と奥方様が、まだ婚約の段階だった時に、事件は起きたそうです。国王陛下が……ひどく、その……好色でいらっしゃることはご存知でしょうか?」
「え……ええ、風の噂に聞いたことがあるわ」
アイリーンも曖昧に頷く。後宮に妾が山ほどいるという話だ。人々はよくそれを面白半分に話していた。
「とある夜会の時に、国王陛下は奥方様に手をお出しになられたそうです。奥方様も、相手が相手なので、拒むことができなかった、と」
「……それはそうよね」
やっとそれだけ言うと、アイリーンは大きく息を吐いた。
誰に対して怒ればいいのだろう。ずっと、フィリップの父親と面と向かって話すことを目的としていた。でも、……彼は悪くなかった。いや、子供に手を上げたのはもちろん許せない。しかし彼がやるせない思いだったのは想像できる。やり場のない怒りをどうすればいいのか分からなかったのも分かる。
「旦那様も、不思議には思っていらっしゃったようです。どうして自分と息子は似ていないのか、と。そして奥方様が亡くなられた後、旦那様はフィリップ様をいないものとして扱う様になりました。時には暴言を吐くこともありました」
アイリーンは眉を上げた。事情は分かったとはいえ、当主の息子に対する対応は、何度聞いてもなれるものではない。そんな彼女の心境に気が付いたのか、執事は更に付け加える。
「言及させていただきますが、旦那様は無視することはあれど、日々折檻なさっていた訳ではありません。ただ……ただ、あの日旦那様は泥酔しておられました。その日、国王陛下との会食があったそうです。旦那様は、それとなく奥方様とフィリップ様のことについて示唆なさったそうですが、国王陛下はお気づきになられませんでした。……自分が手を出した相手のことなど、すっかりお忘れになっていたようだ、と後に旦那様はお話になりました」
「…………」
「フィリップ様は、泥酔なさっている旦那様のことを心配し、水を届けに行きました。フィリップ様か持って行きたいと仰られたので、私はそれに頷いてしまったのです。あの時、私が無理にでも行っておけば――!」
「分かった……分かった、もういいわ」
アイリーンは静かに首を振る。
「事情はよく分かったわ」
一度聞いてしまえば、もう知らなかった頃の自分には戻れないだろう。彼らの複雑な事情も踏まえたうえで、自分がどうすべきか、考えなければならない。
「フィリップ様はあの部屋の中にいらっしゃいます。ウォーレン様は、じきにフィリップ様を王宮にお連れするでしょう」
「行ってもいいのね? あなたの立場は悪くなると思うけれど」
執事の顔は相変わらず暗い。しかしその瞳は、どこか吹っ切れた様にも見えた。
「私には……もうどうしようもできません。中途半端に旦那様とフィリップ様の間を行ったりきたり。お二人にとって、一番信頼が無いのは私でしょうから」
アイリーンは声もなく首を振った。
信頼が無い人に、当主はこうも事情を話すだろうか。少なくとも、ここまでの事情は自身の胸に秘めておくことを選択しても仕方がないと言える。それを、どんな形であれ、当主はこの執事に話した。それは、信頼以外の何だというのだろうか。
そうは思ったが、結局アイリーンは何も言わず、フィリップの部屋をノックした。
それは自分で気づくべきだ。




