学習、開始。
『ベル、おなまえは?』
『べるがもーと、ヴぃ、しぇるれぎあ、です』
『あはは、よしよし。よくできましたー』
うむ。子どもだからしゃーないが、頭を撫でられるのは恥ずかしいな。
言葉のお勉強が始まった。夜の寝入りの読み聞かせで学習のチャンスもあったのだが、なんせ辞書とどっこいの比率の挿絵しかないよくわからん書物だ。絵そのものは妖精っぽい少女が水辺で少年に声をかけているもの。しかし数ページ先では、母さまのおどろおどろしい口調とともに、泉から出てきたワニ…らしき生き物の絵が指し示される。妖精と少年の姿はない。
え、食われた…え、食われたの?
続きが気になるが父さまから横槍が入り、母さまが何か抗弁している。まあろくに学んでいないうちから読み聞かせても効果なかろうというハナシだろう。いやでも、ちょー気になるんですけど…
そんなこんなで学習編。まずは自分の正式な名前だが…『ベルガモート・ヴィ・シェルレギア』って、どこのお貴族様だよ! ふたりを見る限り農民ではなさそうだけれども…
母さまが次の紙を見せてくる。紙の質はそれなりだが規格はしっかり決められているようだ。教育用途にも使われている以上、こっちでは結構豊かな生活を楽しめるかもしれない。
とりあえず続きだな。鳥の雛っぽいものを指差す。発音は、『ギルース』だろうか。母さまは続けて発音し、俺もそれに倣う。今度はピンポン玉のようなものを取り出し、違う発音をする。とりあえず俺もその発音を繰り返す。母さまはその丸いのを『ギルース』の尻の辺りにコロンと転がし、長文で何か言う。ああ、あれ『卵』か。丸いなぁ…転がっていきそう。
続けて『モントレア』なるものを示される。まあ、牛だろう。先程から出されていた飲み物を示してまた何か言う。やっぱこれ牛乳か。ざらっとした感じは成分無調整とかいうやつだろうか。乳牛いるなら料理も色々捗る…か?
今度は『オース』。猪にしか見えないんですけど…この流れだと食肉として一般的ということか。豚枠?
食べ物から雑貨に至るまで。ただひたすら右から左へ、リピートアフターミー。がんばれ脳細胞。さっさと慣れようと思ったからギラギラとした目付きだったかもしれない。
『…熱心ね。私が子どものころはもっと注意力散漫で母さんに怒られてたと思うけど…』
『?』
『んーん、何でもないわ。ベルは頑張り屋さんねーって』
言うと、俺の頭をくしくしと撫でる。フフフ、もっと撫でるがいい。俺は誉めて伸びるかもしれないタイプだ。
ちなみに父さまはこの間から出かけるようになった。おそらく仕事だ。育児休暇でも貰ってたんだろう。異世界進んでるな。初日、仕事に行くのを本気で渋ったので、大盤振る舞いでほっぺにチューして『いってらっしゃい』してやった。すると父さまは目を見開きこっちが引くほどテンションを上げ、手近な木の幹で突きの練習を始める。一発拳を打ち込むごとに木の幹が弾ける。
なにアレ…身体強化魔法ってやつ…?
母さまはある意味慣れっこなのか、ひとつため息をついて風魔法らしきものを発動。物理的『いってらっしゃい』を敢行する。父さまは『なんのぉおおお!』といった感じで風圧に抗う。はよ行けや。なにこの夫婦漫才。
そういや母さま、今は杖を使ってるな。短杖っていうのかね…しかも腰にはもう一本。デュアルスタッフ?ワンド?ってやつか。胸が熱くなるな!
頭の冷静な部分が、デカイのひと振りのほうが長柄武器として使えるんじゃねえの?とか言ってくるがいいじゃねえか、ロマンだもの。
軽く勉強を済ませると今度は日常生活のことを学ぶ。というか実際体験学習か。洗濯、掃除、調理はさすがに見るだけ。鶏肉、牛肉、豚肉とカバーされているだけあって食料事情に不安は無い。根菜、葉っぱ系の野菜、果物などもよりどりみどりだ。塩や砂糖などの調味料もそれなりにあるようだがソース系はやはり厳しいか。ウスターとか無理だよな…マヨネーズは確か、卵?油?
主食は、ふわっふわの白パンとまではいかないがガチガチの黒パンというものでもない。子どもの顎でも充分噛みきれる程度の硬さだ。パンがある以上麦はあるっぽいけど稲はどうだろうな…ある程度湿度が必要なんだっけ。日本人ゆえ少し気になるが、意外と我慢できないほどではない。流石に自分に料理チートは無理。
母さまは怪しむでもなくどんどん教えてくれるので、自分もどんどん吸収していく。言葉を学んで勉強して家事手伝い。極端に慌ただしくはなく、それなりに賑わしい。非常に充実した生活である。
『おーう帰ったぞう』
『お帰り、ガル…あら、どうしたのそれ』
『おかえりなさい。父さま…ぬぁあ!』
父さまがイノシシ背負って帰ってきた。背負われたイノシシの鼻っ面がぐでんと反り返り、「ぐぇあ…」という呻き声が聞こえた気がした。
『いや警らの途中で出くわしてな?なかなかの大物だってんで、出産祝いだーっていうからな。ありがたく頂戴してきた』
でるんでるんとイノシシ、いや『オース』だったか…を揺さぶる父さま。やめてやれよ。涎が。
『ふぅん…でも流石に全部は食べきれないでしょ。解体して、明日お裾分けにいきましょう。そうだ。ついでにハドモントまで行って、ベルに色々見せてあげましょうよ』
『おお、いいな!ベルぅ、明日はおでかけだぞー?お前のお披露目だな!』
『わ、わーい』
とりあえず喜ぶ。父さまは俺を脇から抱え、加減のない高い高ーい。存在しないナニかがヒュッとなる。下を見ると、手を離され落下した『オース』のつぶらな瞳が目に入る。
心の中で合掌しておく。
─ ─ ─
母さまが、手に持った刃物をじっと見つめる。その血に濡れたような真っ赤な刃身はともすれば刃物を模したおもちゃにも見えた。状態を軽く確認し終えたか、俺に声をかける。
『ホントに見てるの?まだ早いと思うけど…』
自分でもそう思ったが、何となく好奇心が勝ってしまったのだ。事故った動物の死骸を何度か見たこともあるし、大丈夫だろうと思って。
『ま、何事も経験だろうよ』
『もう…ベル、辛かったら言うのよ?無理しなくていいから』
『はい、母さま』
とりあえず納得したのか『オース』に向き直り─その口元をつり上げる。その眼は爛々と光を放ち、深紅の刃を毛皮に突き立てる。『精錬』なる加工を施された刃は加えられる力に充分耐え、するりするりと刃は進んでいく。腹を裂き、ブツを掻き出し、部位ごとに切り分けられ、解体は進んでいく。それを眺めている俺の口の端には薄い笑みが─
『アッーーーー!』
『なんだ、どうしたぁ!』
『な、何事! あ、ベル……やっぱり、無理してたの?』
なんだ、夢か。自分の胸に手を当てて、深呼吸をひとつ、ふたつ。ふむ…だ、大丈夫か? うん、大丈夫だ。
『大丈夫です、母さま、父さま。ちょっとビックリしただけです。起こして、ごめんなさい』
『それはいいけど…ホントに大丈夫? ホントに、ホントに無理してない?』
ホントに大丈夫なんだが。ただ、甘えたほうが安心してもらえるのだろうか。
『じゃあ、ちょっとだけ、ぎゅってしてください』
女児のナリなら、まあ許されるだろう。
『いいわ…ほら、ぎゅーーー』
ああ、なにこの母性愛。ちょお安心する。ほれ、父さまも。
『んっ!』
『おお、いいぞ!ぎゅっ、とな』
あ、あれ…父性愛も悪くない。じ、自分が揺らぐ……いえ、ヒゲジョリは結構です。
─ ─ ─
一夜明けて。と言ってもまだ明けたばかり。気分的には五時半から六時くらい。ラジオ体操をしたくなるが、今はみんなで揃って柔軟体操っぽいことをやっている。すげぇ健康的な生活だ。
以前早く起きたときに剣のイメージトレーニング的なことをやっているところを見つかって以来、体づくりの基礎を教えてくれている。剣を振る姿も見ていないのにそんな真似事をやっている娘に何も言わないのはどうなのと思ったが、薮をつつくこともなかろうとそのまま続けている。母さまは娘が剣を志すことが面白くなさそうだが、心配しなくてもそのうち魔法のことも聞きにゆきますよ。ウザイほどにね。
今日は街まで俺のお披露目も兼ねてお裾分けに行くんだったか。しばらくは歩きらしい。何度か庭先までは出たがホント森の中だな、ウチって。家に近づくにつれ樹木を間引いているようだが、ほどほどに距離が空くと森は深くなり、家の裏手から遠くには山が見える。麓の森にわざわざ住んでんのか。
進行方向少し先の草むらでガサガサと草を掻き分ける音。思わず身構えて視線の先を注視する。
…なんだ、ウサギか。フッと気を抜いた瞬間、父さまからゆったりとした警告をもらう。
『おっと、まだだぞー?』
『えっ?』
目の前に迫る白い毛玉。気づいたときには、父さまの手がその毛玉を受け止めたらしく、首根っこを掴んだウサギをこっちに見せてくる。
『大丈夫っ、ベル?』
『えっ、あ、はい…あれっ?』
『こいつはいわゆる頭突きウサギだな。このぶっとい足で飛び上がって、頭突きをかまして、逃げる。普段はもうちょっと深いところにいるんだがな』
危ないよ。それで草食とか、はた迷惑な…そんならデカイ盾でどうにかなるだろうと聞いてみれば、反射的に回り込んでほぼ確実に飛び込んでくるらしい。巧みだよぉ。こっちじゃそれを見越して盾役一人、捕まえる役二人のスリーマンセルで挑むのが主流らしい。ふつうのウサギもいるなかでこいつらは珍獣扱いされており、足周りや首周りの肉は食用として、肝は“オトナ”のお薬として…とまで口にしたところで母さまに睨まれて黙る父さま。惜しいな、もうちょっとツッコンだあたりで『母さまーおとなのおくすりってなあに?』とか聞いてわたわたさせてさしあげようと思ったんだが。この頭突きウサギもついでに売りに行くらしい。キュッとシメて荷物に加える。やっぱりまだ慣れねぇな…。
それなりに歩いたが、ようやく開けた場所に出た。
『ふぁー…』
広い。ただひたすらに。森の中から出てきた反動もあるだろうが、視線を遮るものがほとんど無い。もちろん本当に何も無いわけではない。街道が視線を跨ぎ、ところどころに街道の位置を示すためであろう道標や柵がある。森から続く緑は、手入れもこまめにされているのだろう。色とりどりの草花が顔を覗かせる。そんな草花のうち、百合のような白い花が飛び地するようにぽつぽつと生えている。ありゃなんだ?
『父さま、母さま。あの白いお花は何ですか?』
『ありゃミサイルの花だな』
え、なに。飛ぶの?
『根っこが傷の治りを早めるお薬の原料になるの。いろんなお花から力を貰って育つからたくさんは作れなくて、高級品なのよ?』
凄そうに聞こえるが、エグい育ちかただな…効能によっては妥協できるのかもしれんが、なんだかなぁ。
またちょっと歩いたところに馬車が停まっていた。聞いてみると、旅人たちの休憩所でもあり、自分たちのような森に住む人間のための足も用意してくれている、と。森に住むって…エルフには見えねぇが?
『おーぅリッド、馬車借りてくぞ』
『どうも…おや、今日は可愛らしいお客さんもご一緒だ』
『俺の娘だ。可愛かろう?』
『そうですね。父親に似なくて良かったと言っておきましょうか』
『あっさりしやがって…やらんからな!』
『はいはい』
あしらわれてるな。母さまは我関せずと荷物を積み、御者台へ。俺は荷台で荷物番。つってもナマモノばっかだよぉ…臭う…
『じゃあ行くとしようか…』
『しゅーっぱつしんこー…』
ふたりが揃ってこっちを見て、笑う。無意識に小声で呟いちゃっただけなのになーんで聞こえるかな。