番外、武田佳那子の場合
学校の正門から続く地味に長い坂。お気に入りのアニソンをハミングしつつ、スケジューラーに目を通す。あ、今月身体検査あるっけ。
「身体検査あったねぇ」
「あー。いつも思うんだけどさ。『導圧検査』の時だけなんか緊張するよね」
「『魔導』だもんね」
「魔法でしょ?」
「『魔導』だよ」
「そこ大事?」
「テストにでるよ?」
「…まあね」
本当に出る。
かつて地球規模の大災害があったそうだ。まあ私の年代がちょうどその頃生まれで、詳しく知ってるわけじゃない。『異界』なんてものが実際に在って、ソコとの境界が崩れて云々。それがいわゆる『シフトアウト』。多くの被害者が出た…って聞いてる。行方不明者は意外と見つかる。『異界』に飛ばされたというだけなら、そっちに迎えに行けばいいんだから。
でも死んだ人まではどうにもならない。正直、余り知りたくなかった死因も多いんだけど。そんな人たち、いやその遺族の人たちは、事件を収束しようとする人たちに嘆きと、怨み言を言う。そもそも『シフトアウト』は自然現象と言えるもので、事件を解決しようとしてる人たちに当たるなんて、と私は思う。でも遺族の人たちにとってはそうでもしないとやりきれないんだろうな。
そんな時勢に私は生まれて。それでもこれまで大きな病気もせず、おかしな事件にも巻き込まれず、高校にも通えている。来年はじゅけ…ぐ、あたまが。
ともかく、そんな時代に子供を産み、ここまで育て上げた両親には頭が下がる。ふたりとも若いから、なんか頑張っちゃったのかも知れない。
「ところで恭子さん。来週の土曜日ですが」
突然、体が引っ張られるような感覚。思わずスマホから視線を上げると、森の中。
「え、ちょっと」
隣を見ると、緑色の豚の顔。
『フゴッ』
「フゴッ?」
人……? ぽっちゃりとした、しかしある意味恰幅がいいと言えそうな立派な身体。上半身は裸。下半身は布きれ一枚。それがなぜかぴょん、と持ち上がる。
(見るな! 下を見るな!)
興味と危機感がせめぎあい、必死で自制し、頭部をガン見。意外とフサフサ。やっぱりヒト科?
落ち着けぇ私。今はそんなことより、確認しなければならない事がある。じっと見据え、どうにか口を開く。
「……恭子、さん?」
「フゴッフ……」
んなわけないってよ。うん、わかってた。だってこれオークだもん。いろいろ真逆だもんね。
そのオークらしき生物は私を上から下からじっくりと眺め、納得したように頷き、ゆっくりと歩み寄ってくる。逃げればいいんだけどその妙な迫力に圧されながら、オークのやや回り込むような動きを目で追いつつ後退し、背中に、たぶん樹の感触。
あ、コレヤバイやつ。
「ヤバ……ぎゃあああ!」
低姿勢で突っ込んでくるオーク。私は混乱し、なぜか樹と押し問答。あえなく私は足を掴まれ、転がされる。オークは腰布に手をやり、取り払う。当然、そこには。
その瞬間、私のなかで何かが弾けた。
「コラアアアアア!」
「フブォア!」
腰を屈め、下がってくる頭を思いっきり蹴り上げる。太股をナニかが掠めたが、それどころじゃない。陸上部で鍛えた身体は自然とクラウチング。からの、GO!
(余裕か私!)
そんなはずはないんだけど。必死に走る。走る。人はどっちだ。そもそも、ここドコぉ! 下校途中に突然森の中って! 異世界ものじゃあるまいし……って、え?
(まさかそうなの? 私、飛ばされたの? ここって、『異界』?)
ひと昔前までは珍しくなかったって聞いてたけど、まさかそんな…
「そうだ、スマホ!」
数年前から製造の携帯端末には基本『導力』で動くビーコンが備わっていると聞いている。でもそれらしい表示は出ていない。まさか、壊れた? いろいろ操作してみてもオフラインで動くもの以外は全滅。よく見れば圏外。今どき圏外って……
(『異界』でも相当な秘境でもないかぎり圏外にはならないって言ってたじゃん…)
相当な秘境。知りたくもなかった、死因。身体が震える。ともかく、どうしよう。人里が恋しい。さっきのも振り切ったとは思うけど。
(迷ったときは下手に動かないほうがいいと思うんだけど…)
無理。追いつかれたら乱暴される。間違いない。思いっきり蹴ったもん。絶対怒ってる。
『お、人間か』
「いゃああああ!」
誰! え、人? 人なの?
『生粋の人間なんて久しぶりだなぁ。どした?』
「あぅあぅ…」
でっかいオオカミが喋ってる。
『異界』だと動物も喋るのか。もうわけがわからない。ただ、さっきのアレと比べて彼はマトモに話せそうな相手で、安心して、嬉しくて。
「…うええええ」
しがみついて、泣いた。
『おま! しゃあねぇな……』
それからしばらく。抱きついた毛皮はなかなかに安心できて……ちょっと惚れそう。
『落ち着いたかよ』
「うん」
『じゃ離してくれ』
「やだ」
『襲われたらどうすんだ』
「守ってよう」
『腹這いからじゃ動きづらいっての』
そんなこと言いながら特に抵抗はしない。彼の優しさだろうか。匂いで警戒はしてくれているのかも。
どうにかこうにか落ち着いたので、事情を話してみた。やっぱりよくわかってない感じだな。嬉しいことに人里まで送ってくれるって。やだもう、惚れそう。
感覚がマヒしてたけど、この彼もテレビで見るようなオオカミのサイズじゃない。『異界』ならではなんだろうか。その背中で揺られることしばし。
『あれがラズラだ』
石の壁と、堀で囲まれた街。うん、辛うじてヨーロッパっぽいかな。彼はずんずん進む。あれあれ、ちょっと。いやまずくない? アンタどでかいオオカミでしょうよ。街中まで入ったらまずいって。大騒ぎだって。
「あそこは獣人の国だぞ? 俺もたまに出入りするしな」
「そ、そっか」
いやあのさらっと獣人とか。心構えってものが。あの、ちょっと。
私の心構えなど露知らず。歩いて歩いて、とうとう門が目の前に。来客を察知したのか、脇の扉が開いて、大柄な何かが扉をくぐる。
筋骨隆々とした体躯。そしてその肉体はケープのような服装で覆われ、言い知れぬ圧力を放っている。腰には剣が。そして、その頭部は紛うかたなき百獣の王。
「……おああああ」
『いてえいてえいてえ毛を握り込むな放せえええ』
「ふむ…」
鼻を鳴らし、どうやってか鼻筋に乗っかっている丸眼鏡の位置を正し。
「ようこそ。獣人の国、ラズラへ」
目を細めて、たぶん、笑った。




