女、行き倒れる。
(私は、ここで死ぬのだろうか)
不注意から財布をなくし、何か獲物を確保できればと森に入ったのが不味かった。街道で誰かが通るのを待っていればよかったのに。冷静さを失っていた過去の自分を張り倒してやりたい。
ふらふらと、足元が覚束ない。まだ昼間のはずなのに森の中は薄暗く、視界には緑、緑、緑。きゅぅう。腹が鳴く。最後に食べたのはウサギだったか。そもそもなんなんだ、いきなり飛びかかってくるとか。咄嗟に受け止めてシメたが。ああ、美味しかったな…ウサギ。ぎゆうぃ。また腹が鳴く。
先程の開けた場所。人の手が入っていた。もしや人が住んでいるのか。どうにか、水と食料を─
(ああ、刀が重い…)
まだ刀を担保に金を、とまでは考えずに済んで…あれ、考えてる?と、ともかくそれは無しだ。母上にどやされる。
母上…ああ、フソウが恋しい。白米が恋しい。タンゴの甘辛い煮付けのタレが染み込んだ白米を、その脂ののった白身とともに─
(あああああああ!)
駄目だ。もう駄目だ。私はこんなところで道半ばで行き倒れるのか。誰にも知られず、ひっそりと。悲しい。修行では母上にしごかれる以外では泣かなかったのに、こんなにも涙がポロポロと。
(父上、母上、兄上、姉上。この愚かなシエイを笑ってください。先立つ不幸をお許し─)
そこまで考えて、ふと、何かが気になった。見回しても森が広がるばかり…いや、少し開けてきたか。上を見上げる。霞む視界に煙が─
(煙…人が、人がいる?だ、誰か…)
駆け出そうとして、足がもつれて、転んだ。
「かふっ……うぅ…ぐすっ」
情けなくて、可笑しくて。私はそのまま目を閉じて、全てを、投げ出した。
─ ─ ─
『で、コレが例の行き倒れなんだが』
「はぁー…気の毒な…」
ふふっ、そう、哀れな女です。笑ってやってくださいよ…えっ。笑う?誰が、そう誰かが─!
「かっ」
「おお、生きてた」
ああ、まともに声も出ない。助けて。お願いです。浅ましくも、生にしがみつきます。
『急がねばならんな。肌がこんなに黒くなるまで、誰にも気づかれなかったとは』
「生真面目な心配していらっしゃるとこ恐縮ですが…っしょっと。肌の色は元からですよ?たぶん」
『…わかっているさ。ちょっとした冗談だ』
「あら意外。バッテンさんも冗談言うんですね」
たのしそうですね。
「おっといけない。さあひとまずこれを飲んで渇きを癒しましょう。飲みにくいかもしれませんが、栄養はあるはずです」
子供のものとしか思えない華奢な手が私の背中を支える。うう、情けない。手が震える。冷たい飲み口だ。金属だろうか。
(んくっ…んくっ…んっ、喉に、絡む、でも……ああ、美味し)
上手く飲み込めず、口の端に垂れるものまで余さず舐め取る。傍で『エロッ』と聞こえましたがなんでしょう、鳴き声?結構な量を飲み、生きていると実感を得られた。
「あっ…はぁ、ああ……」
『エロッ』
やっぱり鳴き声が。グロマの類いでしょうか。かなり近いのですが。念のため刀を……あれ、刀は?
「いや、念のためお預かりしてますが」
なるほど、慎重ですね。森の中で暮らすならそれくらいでないと、ですか。
「え、どうしよう」
「え、何かするつもりですか」
にわかに友好的な態度が消える。顔は笑っているけれど、首元に刃物を突きつけられた気がした。と、いうか。支えてくれている膝が、心臓の後ろ辺りをぐりぐりしている。
「いえ、まさか」
「ですよね」
友好的な笑顔で、やっぱり、笑ってない。
警戒されてはいるようだが、家まで連れていってくれるようだ。聞きたいことがあるそうで。ええ、怪しいですよね、私。大丈夫、悪いようにはしません。私の言う言葉では、ありませんね。
わざわざおぶってくれている。申し訳ない…もう歩けそうなのですが。今は、少し楽をさせてもらいましょう。
(何故か…広く感じる背中ですね。助けられたからでしょうか?)
いささか不用心ではないでしょうか…と、思った辺りで周囲の狼たちが距離を詰めてくる。この者たち、できる。
「そ、そういえばもう一人、男性がいらっしゃいませんでしたか?そのかたは、どちらに?」
『私か?』
狼が、しゃべったような。私はまだ疲れているのでしょうか。
「ふふ、声はすれども姿は見えず…」
『私か?』
なぜか狼が半笑いですね。なぜかわかります。
「着いたら、起こして下さい」
「えぇ…」
─ ─ ─
いけない。まさか本当に背中で寝てしまうとは。気づけば住居が目の前に。フソウと様式の違う、大陸らしいつくりのお家だ。
一人で住んでいるのだろうか。何となくだが、そんな気がする。洗濯物が干されているが一家のものとしては少ないように思うし。
「先ほどの狼たちは帰ったようですね」
「警戒することはありませんよ?『話せる方々』ですから」
「んなっ…るほどぉ?しかし、その、宜しかったのですか。私のような得体の知れない相手を」
「自分で仰いますか」
全く以てその通り。この少女のほうが余程しっかりしているような。若い身空で世捨て人なのでしょうか…
「あなたは、フソウ、という国のご出身ではありませんか?」
「…はい、その通りです」
お見通しか。まあ知られてはいるはずだ。フソウも大陸と交流がないわけではない。着物は取り引き出来るほどの数が揃わないので基本島の中での取り扱いだ。
「まあ、詳しい話は中で。どうぞどうぞ」
「では、お邪魔いたします」
玄関で靴を脱ごうとして、大陸ではその必要がないのを思い出し、腰を上げ彼女についていく。彼女はそのことも知っているのか待ってくれていたようだ。ここならもしかして…期待してしまっても良いのでしょうか。
(な、何を図々しい!ここには話をしに来ただけ、ここには話をしに来ただけ)
余禄に白米を。ごくり。
「さて、こちらでも摘まみつつ…私はベルガモートと申します」
「…ぅあ、わ、私はシエイ・イスルギと申します。フソウより参りました。この度は命を助けて頂きまことに有難う御座います」
「どういたしまして。まあ、余り固くならず。どれ」
先程の干した果実を切り崩し、皿に並べていく。瑞々しく艶のある果肉がしかし質素な甘さを想像させる。串を貰い、果肉を突き刺し、口に運ぶ。
(んふぅ…)
駄目だ。鼻の穴が膨らんだ。恥ずかしい。美味しい。もうどうしよう。彼女が、今度こそ裏表のない表情で笑う。ああ、まぶしい。住みたい。ここに住みたい。と言うか棲みたい。命を拾ってもらってなお、おお。なんと浅ましい。でも、いやしかし。
「あの、少しいいですかね?」
「あっ、ふぁい!」
「…私、ある事情からフソウのことを詳しく知りたいのです。その文化に、並々ならぬ興味がありまして」
ほう、ほう。これまでそれとなく聞きかじってきたそうだが、フソウの人間に会うのは初めてとのこと。肌の色にも言及されたが、抵抗はないそうだ。着るものから風俗、食習慣と根掘り葉掘り。島の外に出た者が肌の色云々で出戻りしてきたこともあったが、私は幸運な出会いをしたわけだ。
「んむんむ。結構、実に結構。風呂、温泉、露天風呂!その発想を諦める必要は無かったわけですね、素敵ィ!」
こちらに風呂は無いのですね。少し残念ですね…って!すっかり『置いてもらう』つもりでいましたが、まだですよ。ただ、流れは悪くない。掴みはいい。このまま畳み掛けて─
「それで、ちょっと相談なんですが…しばらく、ウチで暮らしませんか?」
「へっ?」
喜んで。まあ、待て待て。続きを聞こう。いわく、森の守護が彼女の生業で、しばらく前にご両親を亡くされたと。お労しい…先程の狼たちやご同輩と務めをはたしているが腕っぷしがあるなら助かると。その代わりココで寝泊まりしてくれていいと。まあ、今放り出されても手も足も出ませんのでこちらに損は無い。というかいいことづくめだ。いいのだろうか。
「いかがでしょうか…?」
ああ、その上目遣いは卑怯ですよ…答えは決まっていますが。
「お労しい身の上、承知いたしました。このお救いいただいた命、しばし、この森と貴女様の為に使いましょう」
で…食べさせてください。
「契約成立、ですね」
少女が刀をこちらに返す。
「さて、ではお近づきの印に味見をしていただきたいのですが、よろしいですか。『お粥』なんですけど」
(…来たあああああ!)
思わず拳を振り上げ、天を仰ぎ快哉を叫ぶ。私ことシエイ・イスルギの、ハドモントでの出会い。その最初の夜が更けていく。




