潮騒
「こんちわー、瞬くーん、遊びに来たよー」
病室のドアを、ノックもせずに勢いよく横へと引いた真央は、部屋の奥にあるベッドで半身を起こし上げていた幼馴染の少年――瞬へと一直線に歩を進める。小さく悲鳴を上げた瞬は、声が聞こえたドアへと顔を向ける間もなく華奢な両手に頭を掴まれ、前後左右に大きく揺り動かされた。
「ちょっと、真央、なんだよ急に。……って、やめて、やめて。頭がぐらぐらするっ」
瞬は目をぐるぐると回しながら、後ろにいる真央に弱々しい声で懇願する。いつも彼女に頭を揺さぶられると、車酔いと同じ感覚になる昔からの体質をどうにか抑え込み、瞬は後ろにいる真央の顔を覗き見る。
「だって、今日も学校つまんなかったし。やっぱ瞬くんがいないとヤダッ」
両頬を小さく膨らませながらも、目鼻立ちの整った童顔から滲み出る可愛さを崩さない真央に、瞬は一瞬心臓をどきっとさせるが、それはすぐに自身のこめかみを圧迫する彼女の頬によってかき消された。
「あああっ、いいよ、このマスコットみたいな感じ。幸せ~」
「ちょっと、やめろよ。もう、高校二年生にもなって。お互い十七歳なんだから、そういうのはもう……」
「瞬くんは留年して高一じゃん。先輩のいうことはおとなしく聞きなサーイ」
「パワハラ? これ、俗にいうパワハラってやつですか、真央さん?」
顔をしかめながら問いかける瞬から身体を離し、真央はちっちっちっ、と右の拳から人差し指を上げて左右に小さく揺らす。そんな彼女の顔は、不敵な笑みを自信ありげに浮かべていた。
「そんなことはない。これはれっきとしたスキンシップだよ、瞬くん」
「ドラマの探偵みたいに、キメ顔でカッコよく言われてもね……」
「その証拠に、きみは!」
名探偵モード全開の真央は、不意に大声を上げるや否や、白い布団に隠れた瞬の下半身に向けて、右手の人差し指を向けた。
「わたしと直接触れたことで、大人への第一歩を突き出そうとしているではないか!」
「変な誤解を与える発言はやめて下さい、お願いします。私は無実です」
瞬は顔を赤らめながら、真央に向けて最敬礼のポーズをとる。座りながらの体勢であるために、少し姿勢に違和感を感じ取ったものの、その感覚を反芻させる間もなく、真央は軽く咳払いをして告げた。
「まあ、その、何だ……カツ丼でも食うかね、少年」
「今度はどこの刑事さんだよ、お前」
あと、そのネタちょっと古臭い。そう呟いて、瞬は小さく溜息を吐くと、同い年の幼馴染へと顔を向ける。
「……で、用件は何? また課題の手伝い?」
「ブッブー。今回はそんなちゃちい代物ではございません」
「ちゃちいってなんだよ、お前。この前の生物のテスト前日に、テストで赤点とりたくないって言って泣きついて、それで夜遅くまで大真面目に教えてあげた恩を忘れたとは言わせんぞ」
「残念ながら、そんな恩は知らんな」
「本当に言いやがった。今ぼく、真央をちょっと軽蔑しちゃったよ」
「そもそも記憶にもないんだから、仕方ないじゃない」
「ああ、そういや、お前途中から寝落ちしてたんだったな。……まあいいか。とりあえず手短に言ってくれ」
「えっと……その、何と言うか、唐突……と言うか」
ぶつぶつとそう呟き、あちこちに目線を泳がせつつも、やがて真央は意を決したように、はっきりと『それ』を口にする。
「わたしと付き合って」
「えっ?」
瞬は、思わず身体を硬直させた。半円状にぽかんと口をあけたままの少年を前に、真央は胸まである長い黒髪を左手で軽くいじりながら、恥ずかしげに口にする。
「だから、わたしの恋人になってよ。……小さいころからずっと、好きだから、瞬くんのこと……」
そこまで言って、真央はその場で俯いた。しばし沈黙が流れる。瞬は、全身に勢いよく流れ出す感情の波に呑まれながらも、どうにか口を閉じ、溜まっていた唾を一気に嚥下する。素直に嬉しい。自分も小さい頃から、真央を好きだったのだから。その気持ちをあらためて心の内で実感し、瞬は口で一度深呼吸をした。そして、少年が息を深く吐き出すと同時に、真央が耳を真っ赤にさせつつ、精一杯の笑顔を瞬へと向ける。
「わたし、言葉も悪くて馬鹿だけど、瞬くんのことが大好き。それだけはちゃんと分かる。だから――」
「ごめん」
一つ一つ言葉を選び取りながら言葉を紡ぐ真央を、よく通る瞬の声が遮った。ほんの一秒ほど、再び静寂が流れた後、瞬が沈痛な面持ちでゆっくりと、それでいて淡々と答える。
「今のぼくは、真央とは付き合えない。別に、真央のことが嫌いなわけじゃないんだ。ただ……ぼくは、真央のことを幸せにしてやれない。だから、恋人にはなれないんだ」
ごめんよ。少しの間をおいて、瞬はそう呟く。彼の目の前にいる真央は、ただ無表情で自分を見下ろしているばかりだった。
「そ、そんな……」
力なく口にする彼女の顔色は、先ほどまであった血色を失い、青白く変貌していた。そんな真央の表情を目にして、瞬は強い罪悪感に襲われる。きっと、こればかりは、後からいくら謝っても許されるものではないだろう。真央も――そして、真央の心を傷つけた自分自身も。
――どうして、彼女にあんなこと言ったんだ。
――最低だ。
――自分の気持ちに嘘をついておいて、何勝手に後悔してんだよ。ふざけるな。
頭の中で、何人もの虚構の自分が、現実の自分自身を責め立てる。瞬は、そんな彼らの声を聞かないようにするために、両目をゆっくりと閉じた。仕方ないだろ。心の中でそう言い訳すると同時に、少年の肺が瞬時に強い熱を帯びていく。
さらに、じわじわと首を締めあげられていく感覚に、瞬は思わず右手で首を押さえ、喉につかえていた空気の塊を何度も大きく吐き出した。
「瞬くん、大丈夫?」
苦しげに咳き込む瞬を見て、真央は彼の元へ駆け寄ると、左手で彼の背中を上下に撫でながら、枕元に置いてあった小型の吸入器を瞬の口元へと当てた。瞬は、左手で吸入器を掴み取ると、潤んだ両目で真央の顔を見つめる。対する彼女は、小さく胸を上下させると、今にも消え入りそうな声で呟いた。
――ごめんなさい、わたしのせいで。
そう言って、真央は黙って踵を返す。そのまま、ベッドの上にいる幼馴染を振り返ることなく、すたすたと病室のドアへと歩み寄り、静かに部屋を出て行った。
瞬は、ベッドの上で独り、ゆっくりと呼吸を落ち着かせながら誰に言うでもなく、心の奥底で口にする。
これで、良かったんだ。
もうぼくの前で明るく振る舞わなくていい。これから先、二度と言葉を交わしてくれなくてもいい。
ただ、縛られてはいけない。
不治の病に冒されて、もう長くは生きられないぼくなんかに――。
だんだんと意識がはっきりとしてくる中で、少年の脳裏には、部屋を立ち去る間際に見せた、両眼に涙をいっぱいに溜めた少女の顔がいつまでも焼きついていた。
潮騒/完