主様と夜行者
一時間に一本あるかないかといった数少ない電車に乗り込んだ二人の男は、数人しかいない利用者に露骨に注目を浴びた。しかし二人組はその突き刺さるようなあからさまな視線を気にすることなく空いている席に座った。観光するようなものもなければ若者が遊びに来るような土地でもない場所に場違いな二人組は、人々の印象に残る。
二人組の片方が光を受けて美しく艶めく黒髪を三つ編みにして背に垂らし、一瞬女性と見紛うかのように整って美しい顔をしているなら尚更。それにもう片方も負けていない。明るい茶髪は太陽の光を受けてまるで金の穂のように輝いている。片方でも驚くべき風貌をしているというのに、それが二人とあっては、まるで作り物のようで現実感がない。
周囲がなんて思おうがお構いなしに子供のようにはしゃいで窓を覗きこむのは黒髪の御前だ。放っておけばそれこそ子供のように椅子に乗り上げて窓を覗き込みそうな様子に、同行している結は気が気でない。御前がこうして外界へと出掛けるのは相当久方ぶりのことであり、物珍しい周囲に気が取られてしまうのも仕方がないように思える。しかし悪目立ちしてはいけない。
「主様、少しは大人しくなさって下さらないと……」
周囲に気を遣って小声で窘めるが、御前は生返事を返すだけで振り向くことさえしない。仮にも一個の町を守護する土地神であるというのに、これでは威厳がまるでない。威圧しろとまでは言わないが、せめて堂々とした態度であって欲しいものだ。これではまるで子供か、お上りさんだ。
「主様」
「分かっておる。少しぐらいは良いではないか」
結は御前に仕えて何百年と経つ。御前は長らく山の主として地元の民に信仰の対象とされてきた。時代が移ろえど御前は人間に尽くしてきた。何度か諸用のために神社を出たこともあったが、言ったとしても隣町まで足を伸ばす程度で、それも日帰りだ。今回のように数日間神社を留守にすることは今までになかった。
だがしかし今回、御前の元を訪れた夜行者は、世間から隔絶されていた彼らに援助を申し出た。昔ほど災害による被害も大きくなく、戦乱もない現代では守り神という存在は常時そこに存在する必要はない。必要なときにそこにいることが大事であり、それ以外は留守にしていても問題はない。むしろもっと自分のために時間を使うべきであると夜行者は語った。そして夜行者たちは御前の元へ留守を預かる者を派遣し、御前に自由を与えた。
「こうして旅に出るのは久しぶりだ。楽しいな」
御前はその立場故に滅多に外出することが叶わないが、逆に結は御前の世話をする関係もあり、ちょくちょく外出している。さすがに外泊まではしたことがないが、隣町に住む友人の元へはよく顔を出している。今回ほどの遠出は初めてだが、はしゃぐほどではなかった。
人間ではない者たちにとって、人間が主体となっている源田は非常に生きにくい世界だ。しかし同時に、闇はもっと暗くなり、夜行者たちにはある意味昔よりも暮らしやすくなったといえる。土地神や地に縁のある者たちは、土地の開発によって居場所を失くした者や、力を失いそのまま消滅した者もいる。夜行者が手助けしているのはそうした類の者が多い。
結は御前に庇護される立場にあり、自由に動くことのできる状態にある。しかし今の御前には他人はおろか、自分を維持する力も危うくなってきている。しかし御前はまだましな方だ。彼が守る山はまださほど人間の手が入っておらず、細々とはしているものの御前に力を与えている。彼と似た土地神の中には、自然からの力を得られなくなって消えた者も多い。
夜行者たちは御前に自由と保護を与えにやって来たが、同時に結に対しても同様の条件を提示していた。今の状況では御前にとって結は邪魔な荷物でしかない。結が独立し、御前の元を離れれば、御前はもっと自由に動くことのできる力を得ることが出来る。しかし結はその取引に首肯することが出来なかった。
地上には車や電車が行き交い、空には飛行機が舞う。地下には電線が走り、あたりそこらを電波が漂うこの原題は、不死の者たちから見るととても忙しなく映る。昔は力なくか弱き存在だった人間も、気づけば多種族を滅するほどの力を持つようになった。もう既に今までどおりとは行かなくなっている中で、このままいけばあと数年の内にでも人間以外の者たちは決断を迫られることになるだろう。御前はもう決めた。だが結はこの早すぎる時代の流れに、ただ戸惑うばかりだった。
「ひ、人がこんなに……」
引きつった笑みを浮かべたのは、もちろん御前だ。いくつかの電車を乗り継ぎやって来た首都東京。夜行者に挨拶をするのだと言って向かった新宿駅のホームから既に、御前の表情は崩壊していた。結も初めて訪れる土地ではあったものの、雑誌や新聞で予習しておいた成果か、御前ほどの動揺はない。二人とも整った美しい顔立ちに長髪、そして夜行者が置いていった現代風の洋装であるために悪目立ちすることはなかったが、人の多さに辟易している姿は、見る人にお上りさんの印象を与えた。
「堂々として下さい、主様」
気後れしたもののなんとか先に立って歩き出す結。御前はその後ろを服の裾でも掴みかねない勢いでついてきていた。どう考えてもこの姿を見て彼が神だとは思えない。ある意味では人間の中に同化出来ているのだから喜ぶべきことなのだろうが、本人らはそれどころではない。
「この人の量に慣れる気がしないんだが……」
「別に無理することはないと思いますよ」
人をかき分け目的の出口へと向かいながら、結はふと違和感を覚えて顔を巡らせた。あたりにはどれも同じように見える人間たちが、昔では考えられないほどのスピードで歩き去る。混沌としているようで秩序ある動きの中で、結には何かが違って見えた。目を細くしてその違和感を探していると、ばちっと何者かと視線があった。
「結? どうした?」
驚いたように目を見開き、唐突に動きを止めた結に御前が尋ねる。しかし結は咄嗟に返答をすることが出来ず、意志の力でどうにかして顔を御前へと振り向けた。
「人ではない者がいます」
緊張しているのか、絞りだすような結の声は掠れていた。その声はとても小さく喧騒の中では消え入りそうだったが、御前の耳にはしかと聞こえている。彼は表情を消して結が見つめていた方向に目を遣った。
「人が多いところは隠れやすいのだろう。先程から数名、こちらを窺っておる」
あまりにもさらっと御前が言うので、結は驚愕を通り越して間抜けな顔で御前を見つめた。警戒して周囲に気を配っていたはずなのに、結が気付いたのは先ほど目があった人物だけだ。その他にも自分たちの周囲に蠢く多数の人間に紛れて人ではない者がいるなど気付きもしなかった。驚く反面、己の不甲斐無さに落胆を禁じ得ない。
二人は結を先頭にして再び歩き出した。端から見ていると御前はまるで行き交う大勢の人々に怯えているかのように見えるが、目に見える以上のものをその全身から感じ取っていた。結は御前を見た目だけで判断していたことを恥じ、更に警戒を強める。
「ああ、あれは知っている者だ」
結が聞こえる程度に低い声で御前が呟いた。その声に反応するように結が視線を向けると、そこに見覚えのある黒服の男が人の動きに左右されず、まるで周囲を行き交う人々のほうが避けていっているかのような状態で待ち構えていた。身体に合った黒いスーツはサラリーマンの多い新宿駅に馴染んでいたが、醸し出す雰囲気はどう考えても浮き上がって見えた。
「ようこそお越し下さいました、御前様。わたくしは案内を申し付けられております。どうぞこちらへ」
結は会ったことのない人物だったが、相手が人間ではない存在であることは一目で分かった。本来獣である結の鼻は相手も同種であると教えていたが、流れるような身のこなしに隙のない雰囲気は鼻が利かなくてもその正体を推測する有力な手がかりになるだろう。
「夜行者の元にはいろんな種がいるみたいですね」
「我々もその一つだな」
黒服の男について歩くと、不思議と人が邪魔にならない。肩が触れ合うほど近くに人がいるというのに、何故だかぶつかることもなくすいすい歩くことが出来る。男が何か暗示でもかけているのかと疑ってみるが、そのような動きをしている様子もない。しかし何もしないでこのような状態にはならないのだろうから、ただ結の知らない何かをしているということなのだろう。
「外へ出られたのは久しぶりでしょう? いかがですか。時代はだいぶ変わりましたでしょう?」
振り返ることなく男が尋ねるが、不思議とその声は耳に届く。あまりにも自然に人間にはない技を使うことに結が眉を顰めていると、ポンと肩を軽く叩かれた。はっと我に返って御前を見遣ると、御前はにやりとその魅力的な顔を笑わせた。
「そうだね。随分と様変わりしたようで、楽しいよ」
「楽しいですか。それは良かった」
改札を抜け、気がつくと人の量もまばらな超高層ビル街に踏み入っていた。駅構内と違い人の姿は少ないが、それでも常時数名のスーツ姿の男女が歩いている。一日に数人しか歩かない田舎の道とは大違いだ。
「このあとのご予定はお決まりですか?」
向かうは都庁にも負けず劣らずの超高層ビル。大手企業が名を連ねるオフィスビルの間にそのビルはあった。一見して周囲の建物と大差ないように見えるが、ガラス張りのエントランスをくぐると、そのガラスが内側からでは日の光を通さない遮光使用になっているのが分かる。それでもまるで外の光を取り入れているかのように巧みに照明が配されており、人間ではその違いに気付くことはない。
「まあ気ままに歩いてみようと思ってる」
「案内が必要でしたら遠慮なくお申し付け下さい。不慣れな土地では地に詳しい者も必要でしょう」
受付嬢が座る受付を素通りし、警備員の配されている通路の先にあるエレベーターホールへと進む。受付嬢も警備員も、彼らがすぐ目と鼻の先を歩いているのにまるでそこにいないもののように見向きもしない。彼らは確かにそこにいるのに、まるで人形か写真のように不自然に見える。彼らが人間ではないと知るのはそれだけでも充分だった。
エレベータは最新科学が導入されているのか、操作盤がほとんどなく、つるりとした壁自体が発光しているかのように白くぼんやりとした印象の箱だった。ドアが閉まり、動き始めたのだろうが階数表示がないためにどこにいるのかは不明なままだ。動いていると分かるのは、エレベータが推進する重力が身体にかかる感覚があるからであり、それがなかったら動いていることさえ分からなかっただろう。
「我々は御前様の、そして結様の仲間入りを歓迎しております。これからもどうぞ、よろしくお願いたします」
まるで締めくくりのような台詞を口にしたかと思うと、男は馬鹿丁寧に頭を下げた。そしてそのタイミングでエレベータが目的階についたらしく、音もなく出口を開いた。白い箱にぽっかりと穴が空くように通路へと出る道が開かれる。
案内役は頭を下げたまま動かない。どうやらこれ以上先にはついてくる気はないようだ。躊躇うようにそれを確認した御前と結は、そのまま案内役を残してエレベータを降りた。彼らが廊下に立つと、その背後で開いた時と同様に音も立てずにエレベータのドアが閉まった。これで退路は断たれたと言っても過言ではなさそうだ。
その通路はエレベータやこの建物の全体的な印象と同じく無機質で、そしてこの階には窓がなかった。外に面している位置にいないだけという可能性もあったが、夜行者の所有するビルで窓がなく太陽光の入らないフロアがあったとしても驚きはしない。地下であるという可能性もある。
「主様」
「不安がることはない。彼らは害を加えたりせぬよ」
「……どこからそんな自信が出てくるのです?」
夜行者の所有地の中で繰り広げるような会話ではないことは分かっていたが、結はつい思っていたことを口にする。夜行者が初めて彼らの前に姿を表した時から、結には彼らを気軽に信用している御前が信じられなかった。夜行者は突然御前神社を訪問し、前触れもなく彼らに協力するなどと言い出したのだ。代償に何を要求されるのかと思えば、等価とは決して思えないことばかり。信用出来ないという結の主張も尤もだった。
しかし御前はおおらかに笑って見せた。御前は結がまだ御前に仕えて早い段階の頃、理解できないことを質問するたびにこうして優しげな笑みを見せた。何も心配することはないと言い聞かせるような寛大な笑み。結はその笑顔が大好きだった。守られていると実感できる。しかしこの瞬間は無条件に安心することが出来なかった。その御前の他者に対する絶対的信頼が、彼を殺すことになるような気がしてならない。
「落ち着きなさい、結。不安は相手に付け入る隙を与えるよ」
「……はい、主様」
曲がり角やドアといった迷う要素が何一つない廊下の先に、ぽつんとドアが現れた。重厚な木製の扉は、近代的なデザインのビルには似つかわしくないほど上品だ。まるでその扉から向こう側は別世界が広がっているとでもいうような雰囲気を醸し出している。西洋的な扉はきっちりと閉じられていたが、そのドアノブを回せば開くのだろうことは誰に教えられずとも分かった。そこに向かう他に道もなく、御前は当然のようにそのドアノブを回した。
「ようこそいらっしゃいました」
木製の扉の向こう側は、ワインレッドの毛長の絨毯にマホガニー製の執務机、そして革張りのソファ。まるで西洋の書斎とでもいった内装をしていた。壁には重厚で何十にもドレープのある絨毯よりも濃い色合いのベルベットのカーテン。その飾りの房は金糸で、些かやり過ぎた感も否めない。しかし全てが計算されたようにそこに収まっていた。
そしてその中央、執務机の向こう側に一人、男が座っていた。
「初めまして、わたしはバラッティ。ユーイン・バラッティと申します。わたしはこのソサエティの本部より日本の統括を命じられております」
薄暗い照明の部屋に溶けこむような黒髪に、透けるような青い眼。その両目はまるでそれ自体が光を放っているかのように見える。着ているのはさぞかし名のあるブランドのスーツなのだろう。ぴったりとその無駄のない身体に合っている。無害そうに見せる微笑はどこか作り物めいていて、全体的に人形のような偽物のような雰囲気が漂う。肌はシワ一つなく白すぎて、人間でさえ彼を見て同じ人間だとは思わないだろう。
「あなた方の管轄の責任者とでもいったところでしょうか。どうぞお困りのことがございましたら、遠慮なくお申し付け下さい」
夜行者は、その中でも吸血鬼は日中に動くことは出来ない。世間的にはそう言われている。しかしこのバラッティはその例に含まれていない。今はどう考えても日が高い日中帯であり、室内だからこそ太陽の姿を見ることが叶わないが、一歩外へ出れば燦々と照りつける太陽がその姿を見せる。その光を受ければ、吸血鬼など塵もも残さず消えてなくなる。
「この時間帯でも動けるとは、さぞ強い力をお持ちなのだろうな?」
御前の指摘にバラッティは気を悪くするでもなくクスリとその顔を笑わす。非常に魅力的な笑みだが、同時にどこか一物含んでいるようにも見える。その顔立ち、動きが完璧すぎて逆に違和感を覚えるという矛盾に、本人が気付いていないのは明らかだ。気付いていれば何か策を講じて然るべきだろう。
「いやいや、これでも無理をしているのですよ。これが夜ならお食事でもお誘い申し上げるところですが、残念ながらそれも叶わぬ願い。ならばせめてこうしてご挨拶だけでもと思いましてね」
何を考えているのか他人に悟らせない作り物のような態度に、結は居心地の悪さに、それと分からぬ程度に眉をしかめる。御前は顔色一つ変えずに柔和な笑みを浮かべていたが、それが本心からの表情ではないことは長い付き合いの結はすぐに見抜いていた。御前には本音を顔に出さないだけの精神力があった。
「左様か。それは残念。だが案内は不要だ。気遣いは有難く思う」
それほど夜行者について詳しくない結には分からなかったが、この夜行者の日本支部責任者である吸血鬼と御前では生きている年月にかなりの差がある。バラッティはかなり手強そうな吸血鬼に見えるが、長くても二百歳そこそこ。対する御前は軽く千を超えている。その力もかなりの差があるだろう。だからこそバラッティは御前に対して下手に出ている。だが御前や結は守る立場であり闘う者ではない。いざ争いとなればバラッティのほうが有利になるだろう。
「今日は挨拶に伺っただけだ。眠りの妨げにもなろう。我々はこれにて失礼する」
「これは失礼を致しました。今度は是非日の陰ったお時間にでも」
「ええ。では、また」
それ以上会話を長引かせないために、御前は結をそれとなく急かすとその足取りで唯一の出口である木製のドアに向かい、礼儀的に頭を下げてから部屋を出た。バラッティは椅子を立つこともなかったが、動かなかったのではなく、動けなかったが正しい正解だろう。平然として見せていても、彼の正体は暗闇に生きる吸血鬼だ。太陽のある時間帯は彼らにとって休息の時間だ。活動する場所ではない。
寄る場所もない廊下を抜けた先にあるエレベータは既に口を開いて二人を待ち受けていた。しかしそこに案内人の姿はなく、操作盤もないエレベータでどうやって戻るのかと考えるよりも早くその白く発光する箱状の乗り物は自動で目的階まで動き始めた。そういうふうにプログラムされていたのだろうが、何の前触れもなく動き出すエレベータに不信感を抱かせるには充分だった。
再びエレベータがその口を開くと、人形のような警備員と受付嬢がいる一階のフロアにたどり着いていた。表示パネルのないそのエレベータがいったいどこまで行って帰ってきたのかは機会に詳しくない御前と結には想像もつかなかった。そして彼らが出て行くまでにすれ違う人間はおろか人ではない者の姿もなく、このビルがいったい何者が使用し、どういった目的で使用されているのかを知るすべはなかった。
〈続く〉