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秋の透明な空はどの季節よりも白く抜ける。
地平に近い位置は非常に白く、頂点にゆくにしたがい青さが深まるその変化に空が、高く、遠い。掴めないその中空に心が持っていかれそうだ。夏の空に昇るような雲でなく、冬の落ちてきそうな雲でなく、空を薄く棚引く白い雲。
空色と雲の色彩が淡く空を彩り、どこか懐かしさが空気に混じる。
何処からともなく馨るこの時期特有の匂い、そして、肌を撫でる冷たさを含んだ風の感触。
―――幽情なる淡彩の世界。
色彩だけでなく、触れる風が、知覚する匂いさえも淡く、おぼろげな記憶と絡まり合う。
息を吸い込めば、胸いっぱいに…どうしてだろうか、何もかも、見慣れるほどに慣れてはいないのに、季節だけがいつも通りに懐かしさを運んでくるから。
帰りたいと、ぽつり思う。
それはノルドグレーンの教会なのか、はたまた今まで住んでいた離宮なのか…否、明確に何処かではないのだ。
はやく、どこかに、かえりたい。
逃げ出したいとか、故郷が恋しいというよりは、季節の齎す本能的な帰巣本能のような郷愁に過ぎない。
けれどその秋の気配に、低く穏やかに話しかける声を思い出せば。
帰りたい先はあの灰色の瞳の元にだと、気がついてしまう。
リュクレスの帰る場所は、いつの間にかヴィルヘルムのあの暖かく大きな手が届く場所になっていた。
ソルの手を借りて、馬車を降りる。
湖面を裂くように真っ直ぐに架けられたアーチ橋を正面に、あらためて王城を見つめた。威風堂々とした灰色の要塞は、高い空を突くように6本の塔を聳えさせ、空を映した湖面は水色というよりも銀のように輝いて風に水面をさざめかせていた。季節ごとに異なる趣を見せるスヴェライエの、今が、どの季節よりも本質に最も見合った季節なのかも知れない。
どこか鋼のような厳格さを纏う湖と城。
背景を飾る黒緑色の森は紅葉とは無縁の喨々とした単色で、冷たさを含む風が葉を揺らした。
知らず緊張に硬くなる身体。その硬さを和らげるように、褐色の肌を持つ青年はリュクレスの頭を優しく撫でた。見上げれば、黒曜石の瞳が柔らかな色を浮かべて見つめている。彼の物静かな佇まいも、その淡々とした物言いも変わらない。
それなのに。
「門番にこの紹介状をみせれば、何も言わなくても王妃の元へ案内してくれます。今までのように、主も俺も傍にはいられないけれど、近くにいるから。それは忘れないように」
ヴィルヘルムにも散々と念押しされた言葉をソルが重ねて伝えるから、リュクレスは硬くなった表情を和らげて頷いた。
ちょっぴり、初めてのお使いを頼まれた子供の頃を思い出す。自分も緊張していたけれど、母の方が余程不安そうだった。今も、そう。
見下ろされるソルの瞳に隠しきれずに心配が滲んでいるのを見つけて、反対にリュクレスは笑ってしまった。嬉しくて、照れてしまう。誰かに心配してもらえる幸せはどこかくすぐったい。
手渡された手紙にはノルドグレーン伯爵の封蝋。どういう理由かは分からないが、リュクレスの後見人は故郷の領主、ノルドグレーン伯爵らしい。
会ったこともないけれど、ノルドグレーンではとても慕われた領主様だったから、彼に迷惑をかけないように頑張りたいと思う。
「ほら、そんなに気負わなくても大丈夫ですよ」
「でも、出来るだけ迷惑はかけたくないですから」
迷惑をかけないことはないだろうから、せめて最小限に止めたい。
「それ程に気にしなくてもいい気はしますが、まあ貴女のことですしね、気にしないのは無理か」
ソルはそう言って苦笑すると、リュクレスの手を取った。
「無理しない程度に頑張ってくださいね。泣くほどの我慢や頑張りは禁止。そんなことになったら即使用人じゃなく、客人に立場が変わりますよ?」
…過保護発動。それはちょっと遠慮したい。
「う、…はい」
「では、…頑張ってきてくださいね」
「はい!ソル様、行ってきます」
不安も緊張もあるけれど、それよりも心配して見守ってくれる人たちに安心してもらえるように、リュクレスはにっこりと子供のような笑顔を作って、ソルの手を握り返した。
リュクレスが王城の上がることになったのには理由がある。
ことは一週間前に遡る。
「王妃の元で侍女として働いてみませんか?」
些か作り物めいた穏やかさを浮かべてヴィルヘルムがした提案に、リュクレスは目を丸くした。
冬狼将軍の恋人で、王妃様とはお友達だなんて、なんの冗談かと言われてしまいそうな現状ではあるものの、さらりと言われた内容は、またまたありえないことだった。
王宮の侍女というものは、貴族の令嬢たちが働きに上がるか、もしくは花嫁修業、行儀見習いに行くところだと、上流社会に無縁のリュクレスだって知っている。
それも王妃の専属となれば、それこそリュクレスだけでなく王妃自体の威信にも関わるのではないだろうか?安易に「はい」とは返事ができない。
いくら、王妃本人からも同じようなことを望まれた覚えがあったとしても。
…身分となれば、一応子爵令嬢という取ってつけたような名ばかりのものがある。だが。
「私、教養とか礼儀作法なんて身につけてないですよ?」
心配そうにそう答えれば、彼は表情も変えず首を振った。
「大丈夫、そんなことはありません。…侍女が嫌であれば、王妃の賓客という扱いでも構わないのですが」
それこそとんでもないと、大慌てでリュクレスは首を振った。
ヴィルヘルムが少し残念そうに、「やはり、そうなりますか」と苦笑するから、リュクレスがそう言うことを予測して、彼が侍女の立場を勧めてくれていることに気がつく。
…どうしてと、聞いても良いのだろうか?
リュクレスにとって、この屋敷は守られたとても穏やかな居場所だったから、どうしたって離れることに不安を抱く。
そうまでして王城に上がらなければならない理由が、最近ヴィルヘルムを忙しくさせている原因なのだろうか。
「そんなに心配そうな顔をしないでください。…今は一番、そこが安全なのです」
「安全、ですか?」
ヴィルヘルムは少しだけ迷うように言葉を切った。だが、結局端的な言葉を選ぶ。
「君に賞金が懸かっています。マリアージュかとも思いましたが、どうやら違う。懸けた者はわかりませんが、確実に君を狙うものがいる。だから、それが判明するまで、王宮へ上がっていてもらいたい」
「賞金…」
リュクレスは、ひやりと首筋を冷たいもので撫でられるような感覚に襲われた。
知らぬ間に付けられた己の値段。そんなものが懸けられる理由がわからない。……この珍しいと言われる色彩のせいなのだろうか。
手を握られてはっと顔を上げる。知らないうちに俯いていたようだ。
「すまない。怖がらせたいわけじゃなかったんだが…ただ、君が自分の置かれた状況を知っておくべきだと思った」
心配げな眼差しと、手を包む暖かく大きな手。
リュクレスが考えて行動できる娘だと、ヴィルヘルムは信じてくれている。だからこそ、伝えてくれたのだ。危険を知らなければ、それを回避する行動は伴わないから。
「…元はといえば、私のせいだな。君を囮になど使わなければ、名無しに目をつけられることもなかっただろうに」
修道院の中で慎ましく生活をしていたならば、リュクレスはきっと今も静かに平穏に暮らせていたのかもしれない。けれど。
少し苦しそうな顔をするヴィルヘルムに、リュクレスは首を振った。
「アリオのように普通に生活していたって巻き込まれるときは巻き込まれます。だから、気に病まないでください。それに、囮役があったから、今私はこうやってヴィルヘルム様の隣にいられるんです。もしやり直せるのであっても、何度でも、私は同じ選択をします。…とても、怖いですけど、でも、それでもヴィルヘルム様、私後悔していないです」
だから、ヴィルヘルムにも後悔はしないで欲しい。
己の瞳がわかりやすいというのならどうか、伝わって。
「君は…全く。不安なのは君でしょうに、何故私が励まされているんだか」
やれやれと溜息をつくヴィルヘルムの表情がいつもの穏やかさを取り戻していることにほっとする。笑い返すリュクレスに、ヴィルヘルムは静かに確かな意志を持って告げた。
「君を商品のように扱わせたりしない。必ず守ります。ですから」
彼が自由に動くためには、リュクレスは彼が安全だと思うところに居た方がいいのだろう。
「私が、王城にいれば、ヴィルヘルム様は安心なんですね?」
「ええ。この離宮では、王城から距離がありすぎる。何かあった時に、以前のように後手に回るのは御免です。君が、何処にいるかわからないなんて、今の私には我慢ができませんから」
灰色の瞳は真剣な色を浮かべて、リュクレスの姿を映し出した。
守るという約束を、ヴィルヘルムは果たそうとしてくれている。ならば、リュクレスが出来ることは、彼の行動を妨げず、尚且つ不安にさせないこと。
「わかりました。王城にあがります。私なら大丈夫だから、ヴィルヘルム様も心配しないでくださいね」
そう言えば、ヴィルヘルムは何とも言えない顔をした。言い出したはずの彼のほうが納得出来ていないような、そんな不思議な顔。握られたままの手に、力が籠る。
溜息とともに溢れたのはヴィルヘルムの本音。
「…本当のことを言えば、君がこの屋敷に留まりたいと願ってしまう理由とは全く違う意味で、私も君を此処から出したくはない。王城に行ってくれとお願いしておきながら、勝手なものですね」
ここは鳥籠。鍵がなくとも、中の鳥は逃げようとはしない。
そして、その籠は誰の目にも届かない森の中。
ヴィルヘルムはリュクレスの髪を撫でる。もう、その行動は癖のようなものだ。
さらりと柔らかく触り心地の良い黒髪に指を滑らせ、彼女への独占欲を満足させる。
王城に上がれば、王妃はリュクレスを離さないだろう。
忙しくなる己のことを差し置いて、取り返すのが大変そうだと今から先の心配をする。
…あながち間違っていない心配だったりするのだろうが。
侍女として上がってしまえば、仕える身だ。今までのように容易く逢うこともできない。
慣れない環境にリュクレスも苦労するに違いない。
本当であれば、客人として城の中で守られていればいいと思う。だが、それをリュクレスが望まないことを理解してしまうから。
渋い表情のヴィルヘルムを見上げ、リュクレスは髪を撫でるその大きな手に自分の手を重ねた。男の人なのに、ヴィルヘルムの手はとても暖かい。ほのかな熱が伝播してリュクレスのひんやりした手のひらを温める。
ゆっくりと溶けるように、笑った。
「…花嫁修業だと思って頑張ります。だから、ヴィルヘルム様も見守っていてくださいね」
共に頑張ろうと言ったあの誓いを忘れることはないのだと、少し気恥ずかしげにリュクレスは恋人に告げる。
「…あまり、長くは待たせない。でないと、俺が持たなそうだ」
ぼそりと、ため息混じりの呟きは後半部分ほとんど聞き取れない。
なんだが憮然とした響きにリュクレスは小首をかしげた。




