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美しく装飾された大きな扉の前で、尻込みをしたように少女は立ちつくしていた。
息苦しい程の緊張に、大きく吸い込んだ息を吐き出す。
表情を強ばらせ、胸の上に置かれた手は小さく震えている。
簡素でありながら品のある黒い侍女服にも、彼女はまだ着慣れてはいなかった。
黒い髪を首の後ろでひとつに括り晒された項と、細い肩、黒いその色彩が華奢な身体を目立たせる。痛々しさがないのは、その頬に仄かな赤みが差しているからだろう。
俯き加減に伏せられた瞼、まるで教会で祈りを捧げるかのようなその姿を、年かさの女性が隣で静かに見守っていた。艶のない灰緑色の髪、緑の混じる青い瞳は実直な性格を表すかのように硬質な光を少女に向ける。
もう一度、深呼吸をして、黒髪の娘は、少しだけ顔を上げた。
ふるりと震える睫毛の奥から現れた円らな瞳は、藍緑色。
「そろそろよろしいですか?」
掛けられた声には少し神経質さを含むが、少女の不安を感じ取り、急かすこともなく心の準備をする時間を与えるところを見ると、存外人が良い。
ささやかな気遣いを、娘はしっかりと受け止めて頭を下げた。
「はい。ありがとうございました」
女性は小さく口角だけを引き上げた。心持ち、瞳に浮かぶ色が優しいものに変化する。
背筋の伸びた綺麗な姿勢は、しゃんとして、扉だけではない、この豪奢な世界に物怖じなどしていない。経験に培われた自信に満ちてとても力強い姿は、少女にとっても、懐かしい母のような女性を思い起こさせ、安心感を抱かせた。
少女は改めて、向かう扉を見つめた。
木製の扉に直接彫り込まれた植物がまるでガーランドのように扉を飾る。花や葉の一部は色味の違う光沢のある木片が嵌め込み細工になっており、浮き上がるような立体感を見せていた。
天井には精霊たちが踊る。
広々とした空間はそこが廊下であること忘れてしまいそうになる。
少女、孤児であったリュクレスにとって、ひとつひとつが絢爛として、今まで生きてきた世界とは余りにも違いすぎる。
彼女の逃げ出してしまいそうな思いを、隣に立つ女性は気がついていたのだろう。
けれど、逃げないとリュクレスが決めたのを見届けて。
ようやく彼女は、静かに扉をノックした。
挨拶の仕方だとか、頭の中で繰り返していた少女は、開かれた扉の向こうに立つ女性と視線が合って。
…挨拶を忘れた。
リュクレスを見つめる目は輝き、華やかに破顔した顔が向けられる。きっと扉を挟んで今か今かと開かれるのを待っていたのだろう。
「リュシー、待っていました!これから、よろしくお願い致しますね」
彫像のように固まったリュクレスを出迎えたのは、抱きつく勢いで歓声を上げたルクレツィアだった。満面の笑みを浮かべてリュクレスの手を取り、両手を繋ぎ合わせる。
「ルチ様…」
ぽかんとしてしまうくらい王妃が喜んでいるから、リュクレスは自然に肩の力が抜けて、紫色の瞳に向かって解けるように表情を緩めた。
ほんわかと微笑み合う。
「ルクレツィア様、リュクレス様も、立場を弁えて言葉をお選びください。リュクレス様は特に侍女として、こちらにいらしたのですから、呼び方も、話し方も十分注意してくださいませ」
手を取り合って再会を喜ぶそんな二人に、残念そうに水を差したのは侍女長の声だった。
リュクレスをこの部屋まで案内してくれたその人である。
ため息混じりに届いた苦言に、慌ててしまったリュクレスは、後ろに控えていた彼女に向かい頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ」
ただ、手は王妃に取られたまま、仲良く繋がれている。
振り払うことなど考えもしないから、おろおろとしながら頭を上げた。
ルクレツィアは苦笑して侍女長に向き合う。
「ティアナ、貴女がいるときだけにするから、少しだけ許していただけないかしら?とても、大切なお友達なの」
お願いと、ルクレツィア自ら頭を下げられて、ティアナはもう一度深々と溜息を付いた。
「あまり、油断されませんように。王妃のお気に入りの侍女というのはリュクレス様のお立場を良くも悪くも致しますから。線引きはしっかりなさいませ」
厳しい言葉の端に混じる気遣いに、リュクレスは少し申し訳なく思いながらも、胸にじんわりと暖かいものが広がるのを感じた。侍女長は外見の厳しさとは裏腹に、とても優しい人だ。
リュクレスは、ルクレツィアの目を見て、手を離してもらうと、もう一度、ティアナに向かって深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。ちゃんと注意します」
花のようなあどけない笑顔に一瞬見惚れると、ティアナはその丁寧な挨拶に表情を和らげた。
「王宮の奥には将軍もそうそうはお見えにならないでしょう。お寂しいかとは思いますが、此処にいる限りは侍女として頑張ってくださいませ」
「はい!ルクレツィア様、誠心誠意務めさせて頂きます。至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。ティアナ様、ご指導よろしくお願いします」
ルクレツィアがにっこりと微笑んで、こちらこそと、涼やかに応える。
「私に様はいりませんよ?」
ティアナが苦笑して言うと、リュクレスは戸惑ったように、首を傾げた。
「ええ、と…さっき、案内をしてくださった方がティアナ様と呼んでいましたし、いろいろ教えてもら…頂くわけですから、やっぱりティアナ様って呼ばせて…くださいませんか?それに、私にこそ、様はいらないです」
慣れない言葉使いに、少しだけ、しどろもどろになりながらリュクレスはティアナに懇願する。そのすがるような眼差しに負けて、ティアナは渋々ながら承諾した。
「言葉遣いは、それほど悪いわけではありませんから、どもってしまう位なら、丁寧な言葉を心がける程度で結構ですよ」
「は、はい」
「積もる話もお有りになるようですから、本日は大目に見ましょう。夕食前まで二人でゆっくりお過ごしください。リュクレスにはその場で他の者の紹介をしましょう」
ティアナの言葉に、目を綺羅々とさせて、手放しの笑顔を二人が浮かべる。
奥ゆかしい控え目な王妃が、とても嬉しそうに年相応の笑顔を見せ、それに返される娘の愛らしい笑み。ティアナは、彼女たちを包む優しい雰囲気に表情を緩めた。
そして、自分の心配が杞憂に終わったことに内心でほっと胸をなでおろす。
平民を王城の侍女にすることは今までに例がない。それも姓すらも無い孤児となれば、侍女としての仕事どころか、礼儀作法、礼節という基本的なものにおいてゼロからの教育になるのではと思っていたからだ。それは、悪目立して彼女の立場を悪くするだけではないかと気を揉んでいた。だが、実際にリュクレスと対面してみれば、修道院育ちとは思えぬほど、礼儀作法の基本は出来ていている。言葉遣いも、概ね丁寧なものだった。
将軍の恋人に対する贔屓目に過ぎないのではと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
仕事を覚える必要はあるが、侍女としての資質は問題ないだろう。
ティアナは、和気藹々と会話に花を咲かせる娘たちを温かい目で見つめると、王妃の部屋を後にした。




