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宿に帰ってからも、リュクレスは自分の部屋に戻ることすら戸惑うような有様で。
見上げてくる娘の、まるで迷子の子供のような頼り無さに、ヴィルヘルムは部屋へ見送らずに自分の部屋へ招き入れる。
この小さな背中が、己を庇うのをヴィルヘルムは苦々しく思い出す。
少年の言葉は、ヴィルヘルムを揺らさなかった。エルナに言ったことはヴィルヘルムの本音だ。強い思いが立ち直るきっかけになることをヴィルヘルムは知っている。それが、例え憎悪であろうとも。故に、返すことをしなかった。
だから、ヴィルヘルムに向けられた憎悪と悪意をリュクレスが代わりに浴びることはないのだ。
自分が冷淡であるという自覚はある。
男には守りたいものがある。それ以外に手が届かなかったとして、割り切る、いや切り捨てることがヴィルヘルムには出来る。
そのことを誰よりも知るはずなのに、リュクレスのその眼差しはヴィルヘルムを気遣わしげに見つめ、ひたすら案ずるようだった。
手を引いて、いつも食事の時に使っている椅子に掛けさせる。
まるでリュクレスを囲うように、その肘掛に手を付き、藍緑の瞳を覗き込んだ。
真っ直ぐに見つめるその瞳に映る自分に、問いかける。
あの非難に傷ついているのかと問えば…やはり答えは、否。
英雄への期待、そして、その期待に応えられない英雄への一方的な失望。
そんなもの、気にしたこともない。
少年の言葉が引っかかったのだとしたら、もっと個人的な感情だ。
アリオの言葉が、男の胸にある罪悪感をざらりと撫でた。
彼の言葉が、無意識に脳内でリュクレスの声に書き換えられて、男には聞こえた。
自分が英雄などではないことは身に染みて自覚している。叔父に言われるまでもない。卑怯者と謗りを受ける覚えはある。
リュクレスを傷つけて、そして、彼女の母も助けることができなかったその後悔が、名ばかり立派な己に自嘲を抱かせる。
「…君は私を責めないな」
弱音だ。本来であれば、リュクレスにだけは、聞かせたくなかった、己の中の後悔。
見知らぬ者からの失望など、ヴィルヘルムを傷つけはしない。
張りぼてのような英雄像を、誰よりも知っているこの娘が、本当はどう思っているのか。
心のどこかで失望がよぎったことはなかったのだろうかと。
気になるのはそれだけだ。
「私は君の母を助けられなかった。いつか、責められるかと思っていたのに」
「…なぜ?」
リュクレスの声に滲むものがなんなのか、ヴィルヘルムは読み取るのを躊躇う。
「君たちを守るのが冬狼将軍、君たちの英雄ではないのですか?」
少しだけ疲れたように微笑む男を、リュクレスは痛ましそうに見つめる。
手を伸ばし、両手でヴィルヘルムの頬に触れた。
「さっき、言ったじゃないですか。…将軍様も人間です。神様でも超人でもない。その両手で全ての人が救えるなんて思っていません」
真っ直ぐに見つめる瞳が凛として男を捕らえる。
「でも、守ろうとしてくれた。そして多くの人を助けてくれたのは事実です。ヴィルヘルム様の手から零れた命もあるかもしれないけど、救われた命だって凄くたくさんあるから。
全部を救えないことを責めるなんてそんなこと、しません」
漏らさず、すべてを救うことなんて誰も出来やしない。
自分を守ることしかできない人たちも多くいるのだ。その中で誰かを助けようとする、それだけで尊敬できることだと思うから。
人に出来ることなんて限りがあって、それでも精一杯出来ることを頑張っている人をどうして責められようか。
「何度でも伝えます。ヴィルヘルム様は一人の人間です。人は神にはなれないんです。だから、神様みたいに完璧であろうとする必要はないんですよ?」
リュクレスはヴィルヘルムの顔を引き寄せる。ささやかな力にも関わらずヴィルヘルムはされるがままに近づいた。こつりと、彼と額を合わせて目を閉じる。
「以前に言いました。私は将軍様に感謝の気持ちしか持っていません。だから、後悔なんてしないで。今までどおり前を向いてください。それで助けられる人もいるはずです」
祈るような敬虔な想い。
「君は…いつでも私の味方なのですね」
ヴィルヘルムすら己を信じられない時でさえも、リュクレスは一途にヴィルヘルムを想うのだろう。
「弱くってきっと、ヴィルヘルム様から見たら、頼りないばかりかもしれないけれど。それでも、私だって、貴方を守りたいんです」
信念を貫き通す強さを持っていたとしても、けして傷つかないわけではない。それが痛みを伴わないわけではないと、リュクレスは気付いているから。
彼が平気だとは思わない。その傷を癒したいと思う。
けれど、出来るならば、傷ついてほしくない。
そして、神様だって全てを思い通りにできるわけではない。だから、助けたいと思う人に優先順位がつくのも仕方がないと思うのだ。
冬狼将軍が揺らがないのは決めてしまうからだ。その信念は揺るがない。
良い国を作ろうとする国王を支えること。
王を支えるヴィルヘルムをリュクレスは誇りに思っている。
だから。
「人間だから、好きな人や苦手な人がいるし、大切な人を優先してしまうのはおかしくないと思うんです。だから、ヴィルヘルム様は迷わず王様を一番に助ければいい」
それでいいとリュクレスは言うから、
「君を優先するとは思わないのですか?」
少し不機嫌になる男に、リュクレスはゆるりと微笑んだ。
「だって、ヴィルヘルム様にとって、王様は特別でしょう?」
「君も特別です。迷うなと君がそう言うなら、君と王、両方助けます」
「王様を助けなきゃダメですよ」
「王を助けて、君を失い、私に何が残るのです?私の心もともに失われてしまうのに?」
「でも、王様を助けられなくても、ヴィルヘルム様は傷つくでしょう?」
「だから、二人共助けます」
そこは絶対に譲れないという。
よくある例え話だ。
崖から落ちそうな二人、海に溺れようとしている二人がいるとして、そのどちらを先に助けるのか。
究極の選択に、ヴィルヘルムが迷うことなく答えを出せるように。
王を優先しろというのは簡単だ。けれど、ヴィルヘルムがリュクレスを見捨てられないのならば、彼が後悔しないよう、リュクレスに出来ることは。
リュクレスは屈託なく笑って、力強くヴィルヘルムの手を握り締めた。
「…分かりました。だったら、私は崖からすぐ落ちてしまわないよう腕力をつけます。海に落ちても助けが来るまで沈まないように泳げるようにしますから。だから、ヴィルヘルム様は心置きなく王様を先に助けてください。…それまで、私はちゃんと待ってますから」
不安も恐れも後悔さえも、消し飛ばしてしまいそうな明るさで、リュクレスがたおやかに微笑む。
「心強いですね」
降参というように、緩くヴィルヘルムは微笑んで、その柔らかい唇に指で触れる。
それだけでは足りなくて、反射的に目を閉じた恋人に、誘われるように触れ合わせるだけの口づけを求める。
「待っていてください。必ず、君のもとに行くから。絶対に助けます」
「…はい」
ヴィルヘルムだけに頑張って欲しくないから。
自分にできることをといつでも探し続けるリュクレスに、負けないように。
共に居られる努力をしていこう。




