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「あ」
町の中の高台に向かい歩いていると、そこに見たことのある少年の後ろ姿を見つけて、リュクレスは小さく声を上げた。
家族のもとに送り届けられたと聞いてはいたが、少年の無事な姿を自分の目で見ることができてホッとする。ただ、その後ろ姿がなんだが寂しげに見えて、リュクレスはチャリオットを見上げた。
「あの、声をかけてきてもいいですか?」
「どうぞ。俺ならこの辺にいるから」
にっこりと快く送り出してくれるチャリオットに、リュクレスはお礼を言って少年を追いかけた。
誘拐未遂事件から数日が経つ。
警戒する気持ちもそろそろ中弛み、アリオは平穏で窮屈な日常を退屈に感じ始めていた。
姉の言いつけで、ギルド周りから離れないようにしているが、じっとしているのもいい加減、飽きてくる。
アリオはぶらぶらと、町の小さな広場に向かう。
日課のようなものだ。
市場のある広場とは異なり閑散としたそこは、少し高台になっており、町の中に居ながら外の丘陵地帯が望めるのだ。小高い丘の麓に点在する十字架が見える。
アリオは適当に地面に座ると、それをぼんやりと眺めていた。
「こんにちは」
不意に頭上から降ってきた声に、首を巡らせ、顔を上げる。
そこには柔らかな雰囲気をまとった少女が、立っていた。
透明感のある、溶けてしまいそうな藍緑の瞳。優しそうに微笑む姿は、あの時懸命に助けてくれようとした恩人だ。
「あ、あの時の姉ちゃん!」
「はい。…そういえば、お互い名前も知らなかったね。私はリュクレス。君は?」
言われてみれば確かに、そうだった。あの時はドタバタしていて、結局挨拶もしていなかったとお互いに笑い合う。
おっとりと自己紹介をされて、アリオも自分の名前を告げる。
「アリオ。アリオ・オルトーヴァ。姉ちゃん自己紹介の時にはちゃんと名乗れよ」
リュクレスは困った顔をした。
「ごめんね、私は孤児だから、姓はないんだよ」
父親に与えられたルウェリントンという姓はリュクレスにとって、自分のものではない。
リュクレスのように途中で家族を失うもの、初めから家族のないもの、つまり孤児といわれる者たちは、この国では姓を失う。
だから、平民の中でも最も社会的地位が低い。
孤児と言われる者たちが、人の施しで生を繋いでいることは子供でも知っている。
いじめられたり、蔑まれたりしている姿を目にすることはアリオも度々あった。
同じような目に、この人もあっていたのだろうか?
こんなにも穏やかで、優しいのに。
聞けば、彼女は困ったように笑って、「そうだね」と、はいでも、いいえでも取れる答えを返す。
…それだけで想像は付いた。
辛くはなかったのかと聞くのは、余りにも無遠慮で、無神経な気がした。
「ごめん」
謝罪は、柔らかい笑顔で受け止められた。
「ううん、気にしないで。それより、ここで何してるの?」
さらりと変えられた話題に、アリオは向こうの丘を指さした。指先の線をなぞるように、リュクレスはその先を見る。
「あっちに、丘が見えるだろ?」
「うん」
「そこの麓にさ…俺の母さんの墓があるんだ」
「お母さんの…そうなんだ。挨拶してたんだね。邪魔しちゃったかな?」
「ううん、大丈夫。…皆にはさ、男のくせに情けないって言われるんだ。姉ちゃんは、もう立ち直っているのにって」
でも、エルナ姉ちゃんだって、今でも思い出して遠くを見ていることがあるって知ってる。
「そうなの?」
「うん。でも、あんたはバカにしないのな」
透き通る泉のような輝きが、和らいで解ける。
「しないよ。…亡くなった人が本当に居なくなってしまうのは、思い出してもらえなくなった時だから。どんな風に故人を偲ぼうとも構わないんだよ。生きている人にとって、それは心の整理にもなることだから。君のお姉さんみたいに、心の中で大切にすることも、君のように行動で大切にすることも、どちらも間違いじゃない。だから、きっと、お姉さんは、やめなさいっていわないでしょう?」
リュクレスは、そう言って穏やかに笑い掛ける。
アリオははっとして、リュクレスを見た。エルナには一度たりともとがめられたことがないと、初めて気がつく。
リュクレスは何も言わず、優しい瞳でアリオを見ていた。
「…姉ちゃんも、寂しい?」
孤児ということはつまり、家族はいないということだろう。
姉がいても、父がいても、母がいないだけでアリオは寂しかった。
たった一人。
それがどれほど寂しくて、怖いことか。
アリオは知りたくないと思いながらも、思わず聞いてしまった。
あまりにも、そこにいる人が柔らかく穏やかに、笑っていたから。
だから、聞いて。
そして、後悔した。
「…うん。大切な人を失うのは…寂しいし、辛いね」
ぽつりと、落ちた言葉は……小さく、けれど重たい石のようだった。
全身を貫いた慟哭が去れば、身体の中に残るのは喪失感と、虚脱感。
ぽっかりと空いた穴は容易く塞がることもなく、失ったことを受け入れるからこそ胸が軋む。いろいろな後悔や、心残りが、降り積もる。それでも。
リュクレスは、笑うのだ。
「…私もね、助けてもらったから、生きているの。はじめは、自分だけが助けられて、お母さんを助けられなかった自分が苦しくて仕方が無かった。でも、自分を責めても、お母さんは帰ってこない。それどころか、きっと悲しませるだけだって気がついたの。それにね、助けてくれた人にも申し訳ないって思った。だから、精一杯生きようって。こんな私にも何か出来ることがあるはずだから。そう思っていたら、そんなに辛くはなかったんだよ?」
リュクレスにとって、責める相手はほかの誰でもなく、いつも自分だった。
母を死なせた相手よりも何よりも、母とはぐれてしまった幼い自分が誰よりも許せなかった。
あの時、手を離していなければ二人無事に生きていたのではないかと。
だが、自分を責めるだけでいるのは、「可哀想な自分」というものに酔っているだけで、母にも、助けてくれた将軍にも失礼だと気がついたから。
その後悔を、自責の念を、変えられない過去ではなく今、これから後悔しないための原動力に変えて前を向く。
こんなにおっとりと頼りないのに、リュクレスは姉によく似ている。
失った人を恋しく思っても、悲しみや嘆きに、その場で立ちすくむことなく、前を見てちゃんと先に進んで来た人だ。
それは辛いことから目を背けることなく、大切な人を忘れないでいたということ。
それは、強くなければきっとできない。
弱々しそうに見える恩人の少女がとても綺麗な笑顔を見せて、それにと、続けた。
その笑顔に、アリオは惹きつけられる。
「それにね。血の繋がった人はもう、いないけど。…とても、大切な人が今はいるよ」
アリオの機嫌が、急に悪くなる。
「…あのおっさんか」
「おっさん?」
だれのことだろう?と繋がる人物がおらず、リュクレスは首をかしげる。
「こないだ、あんたに怒ってたやつ」
沈黙。
…熟考。
怒られた覚えは、…あ、あれ?
「…ヴィ、ヴィルヘルム様のこと?!」
目を丸くして、驚きに声が裏返る。
あまりの言葉のギャップにリュクレスは絶句した。
少年にとって、彼はおじさんと言われる年齢にあたるのだろうか…ヴィルヘルムには内緒にしておいたほうが絶対に良さそうだと、リュクレスはこっそり心の中で決心する。
それから、慌てて、ヴィルヘルムに対する誤解を解こうと手を振った。
「あれは心配してくれたんだよ。ずごく迷惑かけてしまったの…申し訳ないよね」
「申し訳ない?」
「だって、心配させてしまったってことは、心を痛めて思ってくれたってことだから。心配してもらうことは嬉しいけれど、させてしまうのは辛いね。せっかくなら、好きな人たちには笑っていて欲しいもの」
アリオはふと姉の抱擁を思い出した。思えば、あの優しい腕は震えていなかったか。母を失ったときと同じような喪失感を、もしかしたら与えていたかもしれない。
強く、けして弱いところ見せようとしない姉に、また辛い思いを我慢させるところだったのかもしれないと、初めて思い至る。
どうしよう。
そんな思いは口にしなくてもリュクレスには届いた。
「強くなりたいね」
彼女はぽつりと言った。
大切な人を心配させないだけの強さ、守ることの出来る強さを。
それは力強い腕力であったり、包み込むような優しさであったり、形はきっと様々なのだ。
すぐに手に入れられるものでも、容易く届くものでもないけれど。
それでも、いつか手にいれたい。
アリオは静かに頷いた。




