10
将軍はここ数日外に出ずっぱりだ。
朝食は共にしているけれど、その後はずっと恋人を置いて仕事中。
せっかくの旅行だというのに、放って置かれるだけならまだしも、外出禁止というのは如何なものか。理由があれども、不平不満は当然だと思う。
冬狼将軍の恋人である、リュクレスという娘のその横顔を、ソファに座ってお茶を啜りながら、チャリオットはのんびりと盗み見た。
幼い顔立ちのその柔らかい表情に不満の色は見て取れないけれど。
窓の外を眺めやるその瞳に、その長閑な情景への憧れのようなものを見つけてしまえば、部屋の中で過ごすことより、外で過ごすことが好きなことぐらいは聞かずともわかる。
「いくら心配かけたっていっても、ずっと屋敷のなかじゃ辛くない?」
一応、護衛役として宿屋の別室に控えているチャリオットだが、只今彼女に誘われて午後のお茶の時間を絶賛満喫中である。
将軍に知られたら氷の冷笑で、大量の仕事を回されるに違いない。
(やーい、羨ましいだろう)
大人気のないチャリオットの心の声は、人懐っこい笑みに上手に隠され、お茶を準備して向かいの椅子に腰を下ろしたリュクレスは気がつくことなく、ほんのりと笑った。
「大丈夫ですよ、ぼーっとしているのも好きなので。ただ、ヴィルヘルム様ずっとお仕事されているから…休んでいるか心配になります。なにか手伝うことが出来ればいいんですけど。チャリオット様も、休まれていますか?」
「俺は元からさぼり魔だから大丈夫。将軍もちゃんと休むべきときはちゃんと、休む人だから心配要らないよ」
ヴィルヘルムはリュクレスに自分の仕事を知らせたりはしないはずだ。明暗幅広く、後暗いことも数多く彼は抱えているだろうから。
彼の立ち位置で、綺麗事だけで多くのことがまかり通るはずもない。軍人として国防だけを担ったならばまだ良かっただろうに、彼は王を支えることを選んだ。王と共に国を動かす男の前に問題は山積している。名無しの問題など、その一つに過ぎない。
王宮の中は中で、それこそ愛憎渦巻き、欲にまみれた貴族たちが悪霊のように彼を取り巻いているのだから、彼の心が休まる暇ははっきり言ってないに違いない。
彼の恋人はそれに気がついている。全てを見せて欲しい、隠し事をしないでと言われたら、きっと将軍も困っただろうに、そういうことを言わないあたり彼女は聡く、控えめだ。
彼女は静かに彼を待ち、お帰りなさいと迎えるだけなのだろう。
冬狼将軍が大切に隠している、宝物のような娘は自分の存在意義をよく理解している。
「少し外の空気を吸いにいこうか?大丈夫、ちゃんと将軍の許可はとってあるからさ。俺もそろそろ、部屋の中は飽きたしね」
実のところは彼女の相手をしてあげられない将軍からの依頼なのだけれど、そんなこと知らせない方がよさそうだ。
彼女はきょとんと瞬いてから、あどけなく頬を緩めた。
「ありがとうございます」
特にどこにいくと決めるわけでもなく町の中をぶらぶらと散策することにする。
リュクレスの足が悪いと聞いているから、本当にのんびりと歩く。普通に歩いている分には跛を引くこともなく、ただ足が遅いくらいにしかわからない。
小さな町だ。大通りに露天や商店が並び、街の中の細く狭い裏路地を行けば、頭上に渡された縄に干された洗濯物が風に煽られひらひらと揺れている。家の壁際に置かれた椅子に座った老人たちが日向でのんびりと談笑をしているその横を、明るい笑い声を立てて子供たちが駆け抜けていく。連なる家々のせり出したバルコニーには色とりどりの花が飾られ、通りを歩く人々の目を和ませて…そう、そこにあるのは珍しくもない、どこにでもある風景だ。
なんの変哲もない日常。平穏で、静かで、どこか懐かしい。
ゆっくりと歩くから、細部にまで気がつくのだろうか。
見過ごしてしまいそうな、些細な日常のひとコマが、チャリオットには新鮮に映った。
何日もこの町にいたのに、少しだけ前を行く少女の視線を追っていなければ気がつかなかった景色に、彼女の見ている世界の鮮やかさを知る。
「…聞いてみてもいい?」
「はい」
問いかけは、リュクレスの足を止め、振り返らせた。
通りを馬車が通り過ぎていく。さんざめく人の気配は喧騒とは程遠く、けれど無音より心地よい。それほど大きな声でなくとも、お互いの声は耳に届いた。
「足って、どうしたの?怪我したんだよね?」
「えっと。元から悪いんです。7年前の戦争中に怪我をしていて。今回、同じ方の足を骨折してしまったもので…今リハビリ中なんです。でも、もうほとんどいいんですよ?」
「そっか」
どうして怪我をしたのかを、上手に躱すリュクレスに、チャリオットはなんとなく事情を察する。
そうして思い出した。彼女は囮の娘だったと。
強い子だなぁと思う。どんな目にあったのか、無傷ではいられなかったのは確かなのに。
「私も、聞いてもいいですか?」
「なんなりとどうぞ?」
見上げるリュクレスの言葉を促しながら、話しやすいように、隣で歩き出した。
「チャリオット様も、王様やヴィルヘルム様と同じ騎士学校の友人なのですか?」
ちらりと視線をやれば、リュクレスはことりと首をかしげた。
「王様のことは聞いてるんだ?」
「はい。あ、でも、少しだけですけど」
確かにヴィルヘルムのことだ。昔話を長々とする人ではないだろう。
「どんなことを聞いたの?」
「…えっと、王様がすごく優しい人だって。王様だけど、貴族の人たちより怖くないから安心しなさいって、人となりを話してくれました。平民にも優しい王様だって」
「ははっ。将軍、王様のことは買ってるからなぁ。実際王様にも会ったんでしょ?感想どうだった?」
「はい!とても優しくて、お茶目ですっ。こんなにも優しくて、国民思いの王様が、自分の国の統治者だってことがとても誇らしかったです。だから、少しでも役に立てることがあるって思ったら嬉しかった」
王様、将軍、ここにもいたんだね。貴方たちをひとりの人間として見てくれる人が。
「…そっか。」
チャリオットは嬉しそうに笑った。
それから、頭を掻く。
「つい、質問を質問で返しちゃった。いつもの癖なんだ。ごめんな?」
気がついていたのだろう、リュクレスは何も言わず首を振った。
「ヴィルヘルム様ととても仲が良さそうだったから。遠慮のない話し方をするのを見て、もしかして学校からのお友達なのかなって。興味本位で聞いたことなので、無遠慮だったかもしれません」
詫びるように言葉を足したリュクレスに、チャリオットはからからと笑った。
「遠慮なく聞いていいよ。学友ではなくって、俺、実はアルタフス公国の兵士だったんだよね。ぶっちゃければ、敵だったわけ。で、戦闘中、崖に落ちたのを仲間に見捨てられてさ。見つかった相手が冬狼将軍だってわかった時にはいや、ホント詰んだと思ったねー。結局、何故か将軍たちが助けてくれたんだけど。でも助け方が雑でさー、…って最初から俺の扱い雑だったんだなー、あの人。ま、いいや。ともかく、味方は助けてさえくれなかったからね。助けられただけ儲けものだったんだけど。捕虜にされるのかーって、観念して殊勝にしてたら、どうしたいか聞かれて、戦争はもう嫌だなぁって言ったら、じゃあ戦争の少ない国にするから手伝えって。それで今に至るって感じかな?」
流れるように話された内容は、言うほど楽観的ではなかったのだけれど。
チャリオットの個性なのだろう、重たい話も重たくは聞こえず、悲観しそうな状況すらあっさりと淡白に聞こえる。言葉と口調の装飾がない、だからこそヴィルヘルムが伝達に己を使うのを好むと知っている。
リュクレスは少しだけ目を丸くして、チャリオットを見つめた。
「自分の国に帰りたいですか?」
遠く離れた母国を思い出す。
自分の生まれた国ではないのに、この町を見回して思うのは、人々の営みはどの国でも変わりはないということだ。…懐かしい感じがしたのはそういうことなのだろう。
町並みも、人も違うのに、どこか共通するもの。
どこの国であろうとも、人は手を取り合い、地に足をつけて、生きる。
「どうだろ?そう思ったことはないな。なんだかんだで、ここ居心地いいし。君は?帰りたいと思う?」
チャリオットから視線を外し、彼女の水色の瞳は空を映した。瞳の中に雲が浮かぶ。
透明な眼差しは、空の色を溶いたような不思議な色合いを見せた。
「ヴィルヘルム様の傍に居られることがとても幸せで…たぶん何度選択肢を出されても同じ結果を望むと思います。それなのに、それとは別に、やっぱり故郷は恋しいです」
贅沢ですねと、決まり悪そうに微笑むのは嘘の付けない少女らしい葛藤から来ている。
「いいんじゃない?そうやっていろいろなものを切り捨てずに大切にするって大事だと思うよ?」
将軍が割り切って捨ててしまうものが多いから、代わりにこの娘が拾って大切にしてくれるのではないか。
「ね、お嬢さん、将軍の傍にいてあげてね。あの人表情は顔に出すし、俺たちに遠慮なしにいろいろ言うけど、でも感情が薄いんだよね。自分に興味がないっていうか。何事にもそんな感じだったからさ、あんな風に喜怒哀楽を出す将軍初めて見たし。感情が薄いから冷酷であれたのかもしれないけどさ、これからは戦うよりも国を育てていく方に重点が変わりそうだし。昔のままの将軍だったら、いつかあの人一人になっていたんじゃないかな?俺たちが離れるっていうより、きっとあの人がさらっといなくなっちゃう感じ。だって、あんまりにも執着がないんだもん。王様のことも、王様を目指すものを支えているんであって、王様に依存してるわけでもないしさ。今まで、平和な国を望むのは王であって、将軍じゃなかった。でも今、君との幸せのために、将軍自身が平和を望んでいる。そういう意味で、初めて執着して、依存した相手がお嬢さんだからね?将軍がさ、すごく人間らしくなって俺としては嬉しいんだ。だから、ね?」
見守るような眼差しに、リュクレスは胸がいっぱいになる。ヴィルヘルムを大切に思ってくれる人はたくさんいるのだと、目の当たりにしてその嬉しさに、大きく頷く。
それを見て、人好きする表情を浮かべた明るい青年は安心したように笑った。




