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「何故、危ないことをした」
ヴィルヘルムの怒気をはらんだ声に、リュクレスは怯えたように首を竦めた。
声高にではない、けれど抑制しているがゆえにその怒りはマグマのようにふつふつと燃え滾り、ひどく低く威圧的に響く。怒鳴りつけるよりも余程に重く。
喪失の恐怖に心臓が凍りつき、今もなおその悴むような冷たさがヴィルヘルムを支配する。
猛り狂う怒りと冷たい戦慄と。
真反対の温度に、感情を殺すことが出来ない。
目の前で、リュクレスが肩を震わせ、小さな身体をさらに小さくしている。
それが、己のもたらす感情によると理解していて、なお。
チャリオットが、居た堪れなくなったのかポリポリと頬を掻いて、横槍を入れた。
「いや、あれは彼女が悪いわけではないでしょうよ。作戦的にはいけてましたし。確かに、あそこで落ちてきたのには肝が冷えたけどさー」
取りなすようなチャリオットの言葉に、だが、ヴィルヘルムは素っ気ないほどに冷淡だった。
「…この子は足の怪我でリハビリ中の身です。初めから、あの状態で踏ん張れるはずがない」
「…えっとぉ…」
返す言葉を失ったチャリオットに、リュクレスが悄然と言い訳することもなく謝った。
「すみません…その時には、そこまで気が回らなくて」
「なんで、自分の事なのに忘れているのでしょうね?」
ひやりと身を切るような声音に、リュクレスが更に身を縮めた。
異変に気がつき、向かった先で目にしたのは、落下するリュクレスの姿。走り込み、その身を受け止めた腕は、…情けないほどに震えた。
落下に備えてリュクレスが目を閉じている間に、リュクレスに気取られていた男をチャリオットは後ろから昏倒させ、果実まみれで転がっていた男と共に縄で括った。
今頃彼らは、自警団の牢屋で尋問をされているはずだ。
無事人攫いの男たちは捕まり、攫われかけた少年も無事保護されたと聞いている。
だが、部屋に戻ってリュクレスから事情を聞いたヴィルヘルムは心穏やかではいられない。
今も不機嫌さはさらに増して、余計に苛立たしさを助長させる。
その原因は彼女の行動か、それとも、感情を制御できない己自身か。
「チャリオット、外してくれ」
将軍のその様子に、チャリオットは退室を躊躇った。女性に、それも恋人に酷いことをするはずがないと信じてはいるが、今の彼はらしくない程に感情的だから。
「わかりましたけど、ちゃんと話し合い、してくださいよ?」
「…ええ」
流石にそれだけは注意して、チャリオットは将軍に従い部屋を出ていった。
扉がしまった瞬間、ヴィルヘルムは耐え切れなくなったように、リュクレスを抱き寄せた。
びくりと肩を揺らし、小刻みに震える身体を抱きすくめ、きつく奥歯を噛み締める。
腕の中でリュクレスは怯えたまま震えているのに、ヴィルヘルムに寄りかかろうとはせず、その手はその抱擁を受け入れまいと、僅かに突っ張って一人で立とうとしている。頼ろうとしないその身体を力ずくでかき抱いた。
「生涯をともにと…約束したばかりでしょう。君を、失ってしまうかと思った…」
八つ当たりのように溢れる言葉は、力なくリュクレスを責める。
なんで自分から危ない目に合おうとするのかと、腹立ち混じりに思うのに。
怖い思いをしたリュクレスを包み込めずに、震えるくらいに怯えさせたのが自分なのが、情けない。
「ご、ごめん、なさい」
冷静になれなくとも、彼女が助けを求める人を見捨てることなどできないとわかってはいる。それでも、ヴィルヘルムはリュクレスに自分を優先して欲しい。
「謝らなくていい。頼むから、危ないことには近づかないでくれ。自分のことをだけ考えてくれないか。でないと、俺の心臓が持たない」
ごめんなさいと、リュクレスは顔を歪ませて、泣きそうな顔で謝罪を繰り返す。
その姿に積み重なる罪悪感が、ヴィルヘルムの口調を荒らげさせる。
「謝らなくていいと…!」
苛立つヴィルヘルムの言葉を、リュクレスが叫ぶように遮った。
「だって!心配させたってわかってますっ!…心配させたくないって思います。でも、でもっ!…見捨てるなんて、出来ないです!…それじゃ、私が、私でなくなっちゃう…っ」
悲鳴のような悲痛な声は、真っ直ぐにヴィルヘルムに突き刺さった。
間近にある瞳は湖面のように潤み波紋のように揺れるのに、涙が溢れることはない。
突き放されたような思いに。
「…君は酷いな。そうやって私を傷つける」
ヴィルヘルムは、もどかしさに言葉を選べなかった。
腕の中の娘が目に見えて蒼白になる。震える唇はきゅっと一文字に結ばれた。
泣き崩れそうなそんな表情を浮かべて、けれど、ギリギリの位置で踏み止まるから。
泣けばいいのに。
泣いてしまえと唆すようにリュクレスの目尻に親指の腹を滑らせた。
「…泣きそうな顔をして、どうして泣かないのですか」
なし崩しにリュクレスを依存させ従わせようとする。
だが、娘はこんな時でさえも自分のことは二の次だ。
「ヴィルヘルム様を傷つけた私が、泣くのは…ずるいですよ?」
壊れそうなほど儚い笑みを浮かべて、震える声がそう囁く。
それから、リュクレスはそっとその腕から離れようとした。
離してはいけないと、男の中で焦燥にも似た警鐘が鳴り響く。
傷つけたのは、傷ついたのは果たしてどちらだ。
泣いてはいけないと、彼女が泣けない状況を作り出したのは、果たして。
「ヴィルヘルム様…?」
燃えるようだった怒りが、冷水を掛けられたかのように急速に鎮まっていく。
…心配したのだと怒っているつもりで、これではまるで、自分の思い通りにならないリュクレスに、ただ苛立ちをぶつけているようではないか。
ヴィルヘルムが今リュクレスに望んだことは、自分のことしか考えず、ヴィルヘルムの感情を揺さぶらない、そんなリュクレスだ。
そんな彼女が本当に欲しいのか。
(ああ、ちがう。そうじゃない)
今のままの、ありのままの彼女が大切なのだ。
それを守ろうと、思ったのではなかったか。
逃がさないよう拘束するために回した腕を緩め、ヴィルヘルムは今度こそ、柔らかく守るように抱きしめた。遣る瀬無い後悔に、その温もりを求めて、大きく息を吐く。
「…すまない。我儘を言った」
許しを求め、言葉を重ねる。
「君は、君のままでいてくれ。変わる必要なんてない。そんな君だから私は恋をしたんだ。……失うのが怖すぎて、大切なことを忘れていた」
ヴィルヘルムの腕の中で、リュクレスは首を振る。
「違いますっ!悪いのは私で…っ!…ごめんなさい。いつも、いつも。ヴィルヘルム様ばかり、謝らせて。心配かけて、傷つけて…」
それは彼女の偽りない言葉。心配させたことを悔やむ気持ちも、謝らせてしまったという後ろめたさも本当なのに、けれど変われない不器用な娘の、精一杯の謝罪。
少しだけ身体を離して、お互いの顔が見える距離で、ヴィルヘルムは穏やかに微笑んだ。
「そうだな。俺を傷つけるのは、いつも君だな」
その言葉にリュクレスが泣きそうな顔をする。そんな顔をするとわかっていて言った事なのに、ヴィルヘルムは困ったように眉を寄せ、慰めるように彼女の頬を撫でた。
「それでも俺は、君に傍にいて欲しい。俺を傷つけるのが君なら、幸せにできるのも君だけだから」
大切にできていると宿屋の主人に言われた直後に、また失敗している。
それでも、やはり手放す気にはなれないから。
「傷つけるのが君なら、俺は構わない。だから、それが心苦しいというのなら。傍にいて君に癒してほしい。君にしか、出来ないことだから」
「…また、心配をさせてしまうかもしれません」
「わざとでないことは知っています。…言ったでしょう。君を守るのは私でありたいと。だから、君が変わらなくてもいい。私が、守り通せばいいことだ。その代わり、君自身は私のものです。…だから、我慢しないで泣いてくれ。リュクレス」
不安そうなリュクレスにヴィルヘルムは懇願するように言うと腕の囲いを狭める。
今度はリュクレスの方が小さく笑った。寄り添うようにヴィルヘルムの胸に頬を寄せる。
「ヴィルヘルム様が暖かいから、もう大丈夫です」
ヴィヘルムはその言葉に安堵の息をついて、リュクレスの頭に顎を軽く乗せた。
「叱った事は謝りません。大いに反省してください。ただ、感情的になって怯えさせてしまったことは謝ります。だから、私を怖がらないでください。思ったより、辛い」
「はい」
リュクレスは小さく返事をして、顔を上げた。
ヴィルヘルムを見つめ、提案するように告げる。
「…ヴィルヘルム様、仲直りしませんか?」
柔らかい声音にもう、怖がる色はない。子供のような言葉選びは、ヴィルヘルムの罪悪感を減らすためのリュクレスなりの気遣いだろう。
ふっと息をもらして。
「ええ、仲直り、しましょう。…これほど辛いなら、あまり、喧嘩はしたくないものですね」
「…本当です」
お互いにしみじみ漏らした言葉に、二人は揃って吹き出した。
額を寄せて、笑い合う。
ほら、仲直り。




