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冬狼に祈りを捧げ、不安な思いから逃げ出すように教会の外に出れば、そこには先程の日常と青々しい緑が広がっていた。

陽の光とその暖かさに、ほっと息をつく。

それでも、さっきの不安を忘れられなくて、一番安心できるところに逃げ込みたくて、リュクレスは足早に宿屋へ帰ろうと公園に足を踏み入れた。

「ふざけんなっ、離せっ、離せよぉ!」


彼女の耳に届いたのは、切羽詰まった少年の声。


尋常ではないと感じさせるその声に、リュクレスは驚いて周囲を見回した。

「…どこ?」

声を頼りに公園内を歩き、声の主を探す。

宿屋にほど近い木々の陰で、二人の黒服の男に少年が無理やり連れ去られようとしていた。

一人が担ぎ上げ暴れる少年を押さえ込んでいる。

「手間かけさせやがってっ」

「殴るなよ、商品価値が下がる」

「ちっ、めんどくせえ」

バタバタと暴れる少年の口に何かが詰め込まれる。声は塞がれ、悔しそうなうめき声だけが届くだけになった。

それでも彼は諦めずに、全身で抵抗する。

リュクレスは慌てて周りを見回した。だが、周囲に人影はなく、助けを求められるような人がいない。

(ヴィルヘルム様を呼びに行っていては、間に合わない)

公園から最も近いのは宿屋だ。だが、戻るには、彼らの前を通り抜けなければならない。

男たちは注意深く警戒している。気がつかれずに通り抜けるのは不可能だった。

そして、彼らを巻いて走り抜けるにはリュクレスのこの足では遅すぎる。

木立が遮って、この状況は屋敷からは見えないようだ。男たちは、それをわかっている。

運び出されようとしている少年に、リュクレスは覚悟を決めた。

思い切って、近くにあった木の枝に飛びつき、逆上がりの要領で枝の上に登る。どっしりとした幹同様に、枝振りも立派な林檎の木はリュクレスが乗った程度ではびくともしなかった。同じ要領で、もう一度高い位置にある枝に登ると、そこに危なげなく立ち上がる。

手を伸ばして近くにある太く安定した枝を掴むと、その枝を頼りに木の上を歩き始めた。元より木登りは得意だ。高いところも平気だから、その高さにも不安はない。ただ、足を踏み出す度に、右足が不安定でうまく足が付けない。もたもたしていると目の前で攫われてしまうと、差し迫る危機に心は焦る。それもで、落ちては元も子もないのだと自分に言い聞かせて、慎重に、気づかれないよう伝い歩きで枝を渡り、彼らの上に移動する。

暴れる少年に、気取られている男たちは、不自然に揺れる葉音に気付かない。

少年が完全に自由を奪われる前に、リュクレスはどうにか彼らを見下ろせる位置までたどり着いた。

ゴクリと息を飲んで、深呼吸をひとつ。

そして、枝にたわわに実る果実をもぎ取ると、意を決し、勢いよく男たちの頭に向かって投げつけた。

「いっ!」

「いてぇ!」

潰れて割れた果実から、果汁が飛び散る。男の拳ほどある林檎の実は熟しておらず実が硬い。この高さから投げつければひ弱な女性であろうとも立派な投擲武器になる。

後頭部を直撃した男は、彼にとっては運悪く、リュクレスにとってはありがたいことに、そのまま昏倒する。倒れた男の身体の下から這い出た少年は驚いたようにリュクレスを見上げた。

金茶色の右眼と、淡青色の左眼。虹彩異色の目が驚きに目を見開かれる。

綺麗な目だなと片隅で思いながら、リュクレスは大きな声で叫んだ。

「早く逃げて!」

「…もが、…なっ、あんたっ」

口の中の詰め物を自分で引っ張り出し、少年は焦ったように声を出した。

「ふざけるなよっ、逃がすと思うのかっ」

ふらついたものの怒りに顔を赤くしたもうひとりの男が、怒鳴り声をあげて、少年の腕を捻り上げる。

「うあっ、痛っ!」

力任せに少年を吊るし上げた男に向かい、リュクレスはもう一度、果実を連続して投げつけた。それは綺麗に男の顔と肩に命中して、男はたまらずに顔を抑える。

「ぐぁ…っ」

自由になった少年は肩を押さえながら心配そうにリュクレスを見上げる。

「今だよっ!早く!私なら大丈夫だからっ」

早く逃げて、早く、早く。

はやる鼓動が気を急かす。どくどくと煩い心臓を押さえ付けて、リュクレスは叫んだ。

「いいから、早く!行って!」

少年は少し躊躇ってそれから、悔しそうな顔で走り出した。

「助けを呼んでくるっ。待ってろっ!」

公園を抜ける少年の後ろ姿を見送り、ほっと息をつく暇もなく、リュクレスは気合を入れ直す。そうじゃないと、挫けて逃げ出してしまいそうだから。

大丈夫、大丈夫。きっとヴィルヘルム様が気づいてくれる。

しばらく、リュクレスの姿が見えていないはずだから。それにこの騒ぎ、彼が気づかないはずがない。

怒りにギラギラとした燃えたぎる目が、リュクレスを睨みつける。わかっていたこととは言え、男の標的が自分に移ったことを感じて、恐怖に膝が笑った。

「舐めた真似しやがって…」

近づいてくる男にリュクレスは慌てて新しい実を投げつけた。だが。

ザンッ

腰から抜かれた剣が、それを綺麗に二つに割った。

「いい加減、当てられっぱなしじゃねえぞ。あのガキの代わりにお前を売っぱらってやる。その前にたっぷり可愛がってやるからな、覚悟しとけ」

憎々しげなその声に下卑た声音が混じる。2ヶ月前の悪夢が甦って、リュクレスは背筋がぞっと冷たくなった。カタカタと震えた手が、もぎ取ろうとした果実を掴み損ね、手から滑り落ちる。丸い実は重力に従い、地面に落ちて転がった。

震えは、男の目にもわかったのだろう。男はせせら笑いを浮かべ、尊大な態度で、身体をかがめた。足元に転がってきた林檎を拾う。

悠然と、掌の上でまだ青く硬い実を弄ぶ。

嬲るような目に、リュクレスは耐え切れなくなって、もう一度その実を手にした。

「果物は食べるものであって、人に投げつけるものじゃないんだぜ?お嬢ちゃん?」

「し、知ってますっ!」

今度こそ、しっかり手に掴んで、投げつける。だが、それも剣で払われる。

当たらなくても、投げつけている間は時間が稼げる。

そんなリュクレスの思いを嘲笑するように、男は手に持った果実をリュクレスに目掛けて投げ返した。

勢いよく、リュクレスの脇を掠めて通過していく。

焼けるような痛みが脇腹を襲い、顔をしかめる。

反射的に、身体を捻り直撃は避けたものの、幹を掴んでいた手が滑る。傾いた身体を右足は支えきれず、踏み止まれなかったリュクレスは、次の瞬間、地面へと投げ出された。

ちらちらと白い陽光が、緑とともに目に飛び込む。

身体を覆う浮遊感に、リュクレスは落下の衝撃に耐えるように目を閉じた。








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