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宿の主ハルク・バッソはいつものように、サロン風の広間から中庭に出た。
気持ちの良い朝の空気の中で、今日一日カウンターに飾る花を選ぶ。
身体に染み付くほど繰り返された日課だ。
今日も朝露に濡れた花はどれも瑞々しく美しかった。
人気のない、祭りの翌日。
昨日の空に祈る祭りの静けさではなく、まだ夢の続きを望むゆえの静かさだ。
誰もがゆっくりと朝を迎えるだろう。だから、それほど早くから準備をする必要もないのだが、この時間の花の美しさは格別で、バッソは妻に朝のキスを残すと結局いつものように早く起き出してしまった。
庭の花壇で美しく咲き誇る花の中から、綻びかけた蕾を手に取る。
パチリと音を立て、一本目の花を手にした。次は生き生きとした満開の花を。
だんだんと花束になってゆく腕の中の花を確認しながら、一本一本丁寧に選んではハサミを入れる。満足できる花が揃い、バッソは屈めていた腰をゆっくりと伸ばした。
集中力が途切れた彼の耳に、小さく縄の軋む音が聞こえてきた。
それは小さな庭に作られたブランコの揺れる音だ。
大きな木の太い枝に括りつけられた2本の縄に、座れるよう木板の台を付けたそれは、バッソの自身の手作りだ。庭の隅にひっそりと作られた素朴な遊具はバッソも家族も気に入っているものだが、お金持ちの商人たちにはあまり評判がよろしくない。
渋々ながら撤去も考え始めていたそれに、楽しそうに揺られているのは、数日前から品の良い紳士と共に宿泊している可愛らしい娘さんだった。
彼らの来訪の目的は星祭りだったのだろう。
昨夜は、例年以上に、流星の多い夜だった。
美しくオレンジ色に染まった空の下、彼らは何かしらの約束を誓いあったに違いない。
肩を抱くでなく、腕を組むでなく。
そっと手をつないで戻ってきた時の二人の様子はとても幸せそうだった。
日が昇ってから時間が経ち、空は白く青い。
少しだけひんやりとした空気の中で、朝露に濡れた庭は朝日に輝く。
その中でブランコに揺られる少女。
バッソには気が付いていないようで、湖のような瞳は遠く空を見上げている。
「おはようございます。お祭りはいかがでしたか?」
ゆっくりと、驚かせないように近づいて、頭を下げる。彼女は視線を下ろすと、にっこりと笑顔を向けて挨拶を返し、ブランコを止め立ち上がった。
「とっても、とっても素敵でした!」
思い出すような眼差しに、薄く紅潮する頬が愛らしい。
「それは良かった。…しかし、朝早くていらっしゃいますね」
バッソは少し下世話かと思いながらもつい、口にしてしまう。
その意味がわからなかったのだろう、少女がきょとんと目を瞬かせて、それから周りを見る。
「?そんなにいつもと変わらないんですが…そういえば、今日は静かですね。お祭りの翌日はみんな朝ゆっくりなんですか?」
朝とは言えいつもに比べて町は閑散としている。
宿屋の主人は苦笑を隠して控えめに笑う。
「星祭りは夜通し騒いでいる者も少なくないものですから」
「確かに!あんなに綺麗だったら寝るのが勿体無くなっちゃいますね」
「ええ、そうですね」
連れの紳士とは明らかに恋人同士であるのに、朗らかに笑う少女に艶めいた色はない。
純粋で無垢な娘。
珠玉の玉、もしくは箱入り娘といったところか。
とても珍しい色をした瞳は、鮮やかに感情を映し出す。純真な少女をあの紳士はとても大切にしているようだ。
愛の町と別名で呼ばれるチェルニの星祭りは本来豊穣を祈り、子を望む祭りだった。いつの頃からか、子を望む愛が、恋人同士や夫婦の愛を確認する祭りに変化して、今や、愛を告げ、誓い合う、愛の祭りとなった。
愛を誓い合う男女が、その夜をどう過ごすかなど、決まりきっている。
だからこその先ほどの言葉なのだが、どうやら娘はその理由に気がついていないようだから。
「ドレイク様も起きていらっしゃるのですか?」
確認をすれば、やはり嬉しそうに娘は頷く。
「みたいです。さっき窓から手を振ってくれましたから」
朝から仲の良いそのやりとりが想像されて、バッソは小さくご馳走様ですと苦笑する。
宿屋の主人としては、それに気がつかせず、隙のない笑顔で相槌を打った。
「そうですか。でしたら、いつもどおり朝食をお持ち致しますね」
「はい、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる娘に、バッソも礼を返して。
誠実にお互いを想い合う恋人同士を見るのは嬉しいものだと、バッソは笑みを零す。
少女が室内に戻るのを見送ると、自身も踵を返し屋敷の中へ戻った。
いつもと同じ時間に、いつものように運ばれる朝食。
ただ、いつもと違うのは運んできたのが給仕ではなく、宿の主人だったことだ。
珍しいなと思い、ヴィルヘルムは無言で彼の行動を見るとはなしに眺める。手際よく食卓を整えると、普段余計なことは言わない彼が、珍しくヴィルヘルムに話しかけてきた。
「ドレイク様、僭越ながら、お祝いを言わせてください」
柔らかく差し出された言葉にヴィルヘルムは少し怪訝な顔をした。
宿の主人に祝われる覚えがないというのが本音だ。
「お祝いですか」
彼はその疑問を分かっているのだろう、穏やかに微笑んで、胸に手をやる。
「ご婚約おめでとうございます。近い将来の幸せな結婚をお祈りしております」
その言葉に、ヴィルヘルムは一瞬だけ目を見開いた。それを見て、主人は笑みを深め、軽く頭を下げる。
贈られたものは、おもねるような言葉ではなく、ただ純粋な祝辞だった。
ヴィルヘルムは構えていた自分が少し可笑しく、
「ありがとう。そんなにわかりやすかったかな?」
苦笑いを隠そうともせずに、口元に指を添えた。
主人はにっこりと毒のない笑みを浮かべる。
「お戻りになられたお二人はとても幸せそうでしたし、なにしろ昨夜は星祭りでしたので。…ですから、今朝、お嬢さんを庭でお見かけしたときには少々驚きましたが」
その言葉に隠された意味を、ヴィルヘルムは正確に理解する。
「星祭りとは本当に美しい。二世の誓いなどまるで呪いのようだと思っていましたが」
うっすらと口角を持ち上げて、はぐらかすかのようにそう言う。
「呪いですか…」
意外だったのだろう、主人は細い目を瞬かせた。
「今世だけでなく来世まで縛るのです、これが呪いでなくてなんだというのです?」
そんな否定のような言葉を投げながら、男は柔らかく苦笑した。
「そう思いながらも、想う人を縛りたいと願う。人間の業とは深いものですね」
ジレンマなのだろうか。大切にしたいと思う穏やかな祝福と、全てを奪い取ってしまいたい妄執に、これが人を想う心かと。
振り幅の広いこの感情を理性で従わせるのは至難の業だ。
主人は顔に皺を刻んで微笑んだ。
「人の業は深く、人の情は厚いものですよ」
来世まで縛りたいと願う深い業と、来世まで想いを重ねてゆきたいと願う情。人を愛するということは、誰もがその二つの感情に振り回されるということだ。
星祭りの存在が、それを物語る。
「…彼女を大切にしたいのです」
婚前の彼女に触れることはできない。
他人にはわからないかもしれないが、と、ヴィルヘルムは口にはしない。
主人は仕事用の仮面をとって、朴訥で温厚な本来の顔を覗かせた。
「私は、お客様のことには感情を左右されることは少ないのです。多くの方が祭りに参加しにお見えでしたが、貴方方を見て、初めて祝いたいと思いました。お互いに大切にし合うのがとても良くわかるからでしょう。…貴方様はちゃんと大切に、出来ておりますよ」
この宿を利用するのはお金に困ることのない富裕層はかり。貧困層と異なり多くのものを手に入れているはずなのに、彼らの心はどこか乾いて見える。
その中で、彼らは酷く特異に見えた。お互いに注ぎあって、心の水瓶はきれいな水で潤っている。
その言葉に、ヴィルヘルムはまじまじと主人を見つめると、うっすら微笑んだ。
「ありがとう。一番嬉しい言葉です」




