幸せの味
「ソル様、今少しいいですか?」
離宮の小さな野の花はおずおずと相変わらず控えめにソルの手を止めさせた。
今日の装いは秋らしい山吹色のドレス。胸下に切り返しのある緩やかなラインは可愛らしいばかりの少女を軽やかにどことなく女性らしく見せる。草色のショールを肩に羽織る彼女は、半年を過ぎて随分ドレスにも慣れたようだった。
けれど中身はといえば、あまり変わりはないらしい。
ちょこんとそこに立ってソルの都合を確認するリュクレスは、悩むような仕草でもしようものならすぐさま遠慮して言葉を飲み込んでしまうだろう。
ソルにとって、ヴィルヘルムの命令の次に優先させたい娘のことだ。身体を返して向き直ると、自分でも笑ってしまうくらいに優しい声が出る。
「なんでしょう?」
ほっとリュクレスの瞳が柔らかく緩む。
「相談なんですが…ヴィルヘルム様の喜ぶものってなんでしょう?」
「喜ぶもの、ですか?」
「はい」
「唐突になんです?」
「唐突ですか…?あ、そうか。えっと、もうすぐお誕生日でしたよね?」
真面目な顔をしてそう尋ねる彼女にとって、生まれた日は大切なものなのだろう。
「誕生祝い、ですか」
ソルにとって生まれた日は特別な意味を持たない。東方の民は年の初めに年を数えるから、生まれた日を知らない者さえいるくらい重要視されないのだ。
10年仕える主も、一度たりともそんな祝いをするところを見たことはなかった。
「…はい。私にあげられるものがあるかわからないけど、喜んでもらえたらいいなぁって」
(貴女にリボンを結んでどうぞと言えば、歓喜するのは間違いないですけどね)
そんなことを頭の中で突っ込んで、だが、思っても絶対口にはしない。
皆を和ませる花のような娘を、狼の鼻先に召し上がれと差し出すなど、言語道断である。
ソルは少しだけ考える素振りをした。
誕生日に思い入れは無いようだと伝えることは、彼女を残念がらせるだけだ。彼女が祝いたいと思うのであれば、そうさせるのがいいだろう。彼女にとっても、主にとっても。
きっと、今後、誕生日というものが特別な意味を持つ日になるのだろうから。
「祝福の言葉を伝えるだけでも、主は喜ぶと思いますよ」
「…あ、う…でも」
「何か主にお祝いしたい?」
「はい」
「なら、貴女が祝われて嬉しかったことを、同じように行えばいいのでは?」
「同じこと、ですか?」
「…難しいことを考える必要はないんですよ。貴女が喜んだように、きっと主も喜ぶ。どうせ毎年する気でしょ?」
特別な日。でも、これからの年月、彼らにとっての当たり前になるはずだから。
リュクレスははにかむように微笑んだ。
「えへへ。やっぱり、ソル様に相談して良かった」
宝石よりも美しいその瞳が綺羅々と瞬く。
翳りのないその笑顔が、何よりの贈り物になると、ソルは知っている。
「準備なら、協力しますから。どんな風に祝っていたのか聞かせてください」
そうして、柔らかく微笑ましい彼女の思いに、屋敷中が花を咲かせたように淡く色付く。
幸せの気配がそこにあった。
「一体私に隠れて何をしている?」
苦笑しているのに、どこか我慢が効かないのは、彼女のことに関しては全てを知っておきたい独占欲の賜物か。
「それを言っては彼女ががっかりしますから。時が来ればわかります。たまには彼女に振り回されてあげたらどうです?」
「…振り回されっぱなしだと思うがな」
「感情的には、でしょう?行動で彼女が我が儘をすることはないのだから、見守ってあげてくださいよ」
笑って欲しいか、しょんぼりとしてほしいか。
さあ、どっちの彼女がほしいのかと問われれば、小さく息を漏らしてヴィルヘルムは椅子の背に身体を預けた。
「…俺は知らないふりをしていればいいんだな?」
「そういうことです」
ソルが表情も変えず言うのに、ヴィルヘルムは肩をすくめて。仕方がないから、いつものように仕事を再開することにした。
きっかけは、屋敷の中のそわそわとした雰囲気だった。
リュクレスの機嫌の良さに何かあったのだろうと思うものの彼女は、特に何もなかったというから。
さて、何を企んでいるのやら。
ソルの言い方からして、首謀者はリュクレスだ。
それならば、明かされるまで待つのも悪くはないだろう。
気がついていないふりを続けるのも少し楽しくなってきた頃。
「今日は早めにお帰りになることをお勧めします」
変わらない表情で、けれどどこか面白がるようなソルが、送り出す際に囁いた言葉。
言葉に従い、早めに仕事を切り上げて屋敷に戻れば、玄関でリュクレスが駆け寄るようにヴィルヘルムを出迎えた。
「お帰りなさい!お誕生日おめでとうございます」
可愛らしい笑顔で迎えられて、苦笑交じりに納得する。
ああ、そうか。
「今日は、私の誕生日でしたか」
その言葉に、リュクレスが目を丸くする。
「気がついていなかったんですか?」
「…この年になると生まれた日など気にすることがなくなりますから」
誕生日を祝われるなど、子供の頃以来だと素直に告白すれば、リュクレスはヴィルヘルムを真っ直ぐに見つめ、大事な思いを込めて希う。
「ヴィルヘルム様、生まれてきてくれてありがとう。…これからも毎年、こうやって祝うことを許してくれますか?」
「…もちろん」
ヴィルヘルムは溶けるように笑った。
可愛らしく飾られた食卓に準備されたものは、いつもより素朴な食事だった。
暖かく湯気の立つそれを運んできたのは給仕ではなく、リュクレス本人で。
最後にそっと添えた、白いクリームに、ベリーで飾られたケーキは小さなもの。
たった二人だけの、ささやかで、こぢんまりと設けられたお祝いの席。
その日、リュクレスは本当に嬉しそうに祝いの言葉を繰り返した。
「知らないふりをしていて良かったでしょ?」
「そうだな。こんな隠し事ならば、確かに歓迎だ」
「とても悩んでいたんですよ。貴方にあげられるものなど何も持っていないから、どうしようって。貴方は欲しいものならなんでも自分で手に入れられるでしょう?」
きっと、ヴィルヘルムは人に与えられる物など望まない。
それならば。
生まれたことを祝福する気持ちだけでも伝えようと、リュクレスは食事を準備して、食卓を花で飾った。
作られたケーキは甘いものが苦手なヴィルヘルムでも食べられるよう甘さを抑え、酸味で食べやすく工夫してあった。
食事は、暖かく、彼女らしい朴訥とした優しい味だった。
食材や料理は知らないうちに知られていたのだろうか、ヴィルヘルムの好物ばかり。
豪華とは言い難い。
けれど、思いやりにあふれた優しく穏やかなリュクレスなりの祝福の仕方に、心の中が満たされる。
ああ、彼女の誕生日には何を返そうかと。
ヴィルヘルムは秘めやかに微笑んだ。




