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16歳と聞いていたが、目の前で膝を突き震えている娘が15歳を超えているようには、ヴィルヘルムにはとても見えなかった。栄養不足の痩せた身体を持つ、子供。
父親である子爵に認知され受け入れられているはずだが、彼女が身に着けているのは孤児院で着ていたものだろう。肩までの短い髪も、貴族の女性ではありえない。
じっと声をかけることなく、見下ろしていると落ち着いてきたのか震えは少し治まった様子だった。
掛けた声に従い上げられた顔は、視線が合うと慌てて下を向いた。
美少女というほどハッとする何かはない。
が、可愛らしい顔立ちに、珍しい藍緑の瞳、黒い髪がまた魅力的な色のコントラストを作る。愛妾にしては幼すぎるが、珍しい色彩に稀少価値はあるだろう。
(…幼女趣味を疑われそうな気もするが、まあ、一時のことだ。アルには多少、目をつむってもらうとしよう)
痩せて貧弱な体つきとみすぼらしい恰好に目立たないが、素材自体は悪くない。
整った顔立ちに、大きな瞳と可愛らしい唇。
もう少し栄養を付け、全体に健康的な丸みを帯びてくれば、数年後には魅力的な女性になるだろう。
「ふむ。君はもう少し太ったほうがいいな。棒っきれのようなその身体では、流石に愛妾というには相応しくない」
「…愛妾、ですか?」
ふと、下を向いていた視線が、男に戻された。困惑したように、少女は聞き返す。
「そうです。貴女が呼ばれたのは、ここで王の愛人となるためですよ」
娼婦のような仕事をしろと言われたら、唯の街娘が単純に是と言えるものではないだろう。けれど、王の愛人であれば、悪い話ではない。諦めるか、喜ぶか。だが、決して断るまい。
にっこりと人の好い笑みを浮かべるヴィルヘルムを、少女はしばらく無言見つめ、不思議そうに尋ねた。
「将軍様、王様は王妃様と結婚したばかりではないのですか?」
「結婚したばかりですね。それが何か?」
「奥さんが居るのにどうして愛人が必要なんですか?」
まるで、子供との問答の様だ。
苦笑いを浮かべながら、ヴィルヘルムは彼女の髪に触れた。柔らかくさわり心地の良い髪だ。
「君も子供ではないのだから、男の性というものを知っているでしょう?妻一人では王には物足りないのですよ」
子供のようと思いながら、子供ではないと逃げ道を塞いで、追い詰める。
さらりと髪を逃すと手の甲で頬を撫でた。瞳には淫蕩な色を浮かべ、察しろと無言で諭す。
大抵の女性がそれで頬を赤く染めるか、どういう目で己が見られているのか、感じて怯えるかのどちらかだ。けれど、娘は顔色を変えるどころか、真摯な瞳で、首を振った。
「それでは、王妃様も王様も可哀相です」
浮気される王妃はともかく、王も可哀相?
思わぬ返しに、ヴィルヘルムは怪訝に思って眉を顰めた。
「どういう意味です?」
「だって。夫婦がお互いにお互いを大切にして家族が出来上がるのに、その努力をしないなら、手に入れられるはずの幸せも手に入らないもの。王様たちは政略結婚かもしれません。でも、せっかく家族になったのに。…何故、王様が愛する人が王妃様じゃいけないんですか?王妃様とまずは仲良くなってくださいって、王の周りの人たちは、応援してあげないんですか?そんなのお二人とも可哀想じゃないですか」
…まるで、子供の理想の家族論だ。鼻で笑いそうになりながら、駄々をこねる子供でも相手にするように、ヴィルヘルムは宥め賺す。
「大人の欲というものは早々綺麗ごとではすみません。人というのは本能というものに左右される生き物です。君の言うことはまるで、子供の夢物語だ」
まっとうな意見、それが通じないこともあることを理解できない年でも、境遇でもないだろう。それなのに、彼女は綺麗なことしか見たことが無いように、懸命に伝えようとする。
「…そうでしょうか?お互いに大切にしあう家族が、夫婦が街の中にはたくさんいます。皆、貧しくても、幸せそうです。だって、一番大切なものが傍にあるから。本当に幸せかどうか、子どもだからこそ分かるもの。子どもが自分のうちは幸せな家庭だって思える家族って大切じゃないですか?王子さまは王様と王妃様、両親が仲良しだったら幸せだと思うんです。それを夢物語と言われるなら、それでもでもいいです。でも、私は、王様にも幸せになってもらいたいです。だから、家族を壊すようなことに協力することは、出来ません」
愚直な程のひた向きさで、告げられた拒絶の言葉に。
「私に逆らうなら、首を落とされても文句は言えませんよ?」
剣呑さを隠すこともなく、ヴィルヘルムは腰の剣を抜いた。
殺気は本物だ。先ほどは可哀相になるほどに震えるだけだったのに、この状況に少女は怯えを見せながらも、ヴィルヘルムの灰色の瞳を真っすぐに見つめる。追い詰めるために剣の切っ先を突きつけても、凪いだ湖面の様な瞳には不条理を責める色はなく、悲しそうな色を浮かべただけで、言葉を翻そうとはしなかった。
ただ一言、「役に立てなくてごめんなさい」と頭を下げ、項を晒す。
首を落とされることを覚悟しているその行動に、ヴィルヘルムは苦い顔をした。
まるで、試しているようで、試されているのはこちらのほうだ。
アルムクヴァイドなら、国を良く治めるだろう。彼の作る国が見たい。そう思って彼についてきた。
良き国とは何か。そして、何を目指し、何処へ行こうとするのか?
誰かが問いかける。
今、此処に居て、剣を抜く己自身に。
「…君は。まるで人の良心を量る天秤の様ですね」
呆れた様な声と、深々としたため息。それから、剣を納めると、男は小さな体を持ち上げる。
不意に身体にかかる浮遊感にリュクレスは驚いて声を上げた。
気が付けば、リュクレスはヴィルヘルムの前に立たされていた。
視線を下げるためか片膝を突いている彼に慌てて、リュクレスも膝を折ろうとする。それをやんわりと止めて、困惑する彼女に向かい話しかける。
「怖がらせてしまい、申し訳ありませんでした。君の言葉は正しい。試すような真似をしたことも謝ります」
少女の瞳が不安定に、揺れる。
「…君を信じて、本当のところを言いましょう」
先ほど覚悟した死が、どうやら回避されたらしいとまだ実感が湧かないようだ。
ヴィルヘルムはリュクレスが動揺から立ち直っていないことをわかっている。
「君は、囮です」
それでもなお、彼はここで話を止める気はなかった。
「…囮?」
男の思惑通り、彼女は耳を塞ぐことなく、健気にも話に耳を傾ける。
「はい。王の暗殺計画があります。それを阻止するために、逆に罠を仕掛けたい」
リュクレスが相槌を打つのを確認すると、彼は話を続ける。
「君には、首謀者が誰か炙り出すために、攫われてもらう予定でした。当然ながら、命の危険も伴う。君は断ろうとも、了承しようとも命が脅かされていたわけです。道具の様に扱ったことは謝ります。いや、いまだに君に協力を求めている時点で、この謝罪も無意味か」
将軍と言われる男は、緊張した面持ちで立ち尽くすリュクレスの手を取る。
「王の暗殺を阻止したい。協力を願えるだろうか?」
灰色の眼が、少女を射抜く。強い眼差しに、けれど強制する色は見られない。
『貴女の嫌がることを強制はしないでしょう』
ソルの言葉は真実だ。だが、そこに隠された後ろめたさは、強制でなく人を使う術をヴィルヘルムが持っているという事実。
凍てつく氷の様だった瞳が、初めて熱を孕んでリュクレスを見つめていた。
視線は逸らされることなく、彼女は一度だけ瞬いた。瞳には何故か、少しほっとしたような色が浮かべ、迷うことなく、明確な意志を持って頷く。
「…私に出来る事があるなら、協力させてください」
はっきりとした答え。
…情に訴え、彼女がそう答えるよう仕向けたのはヴィルヘルム自身。
だが、そのひたむきな献身がヴィルヘルムには腑に落ちない。
凛とした瞳をみれば、娘が男の言葉に乗せられていないことは明らかだ。
答えは鮮やかなほど揺るぎなく、彼女自身が持っていた。
「将軍様はこの国の守護者です、私たちを守ってくれた貴方の役に立てるなら喜んで頑張ります。きっと、そう思う人は私だけじゃないですよ」
これまで救ってきた国民を、『国民』と一括りでしか見ていなかったヴィルヘルムにとって、ひとりの少女のその想いは、ただ戸惑いを与えるものだった。