童話
「リュクレス?」
姿の見えない恋人を探して書斎を覗き込めば、書架に凭れ眠っている彼女を見つけた。
「こらこら。こんなところで寝ないでください」
無防備すぎる恋人に、だから心配でたまらないのに。
攫われたらどうするのですか、と一番攫いそうな男がそう言う。
彼女の傍らには絵本が開かれていた。
随分と古めかしいそれは、冬狼を題材にした童話のようだ。
紺青色の毛並み、半眼開きの灰色の瞳 伏せられた雄々しい姿態。
狼の姿をした冬の神。
そして、その鼻先で揺れる蒲公英の花。
桃色のカタバミと、其処に羽を休める春蝶の穏やかな物語。
発禁の焼印があるところを見ると、冬狼の威厳を傷つけると判断されたのだろう。
愚かしいことだが、たかだか童話にさえも、そういった制限をしていた時代があった。
*****
鼻先をうろうろ、ひらひら。
春蝶が狼の開かれた大きな口の中を横切った瞬間、その口がばくっと閉じられた。
カタバミの花が大笑い。
タンポポは慌てた。
かぱりと狼が口を開ければ、春蝶がよろよろと羽をバタつかせて、カタバミの花にたどり着く。
「ひどいなぁ、食べるなんて」
のんきな春蝶の文句に。
「お前みたいのを喰うか。食べごたえのない」
ただ単に鼻先を彷徨かれるのがうっとおしかっただけだと、狼は鼻を鳴らす。
鋭利な牙が春蝶を傷つけることはなかったが、涎に羽が重たげだ。
ふふと、タンポポが笑う。
「いいですね。ずっとこうしていたいです」
おっとりとそう言うから、ぶすくれて狼は言った。
「お前が一番先に飛んでいってしまうんだろう」
黄色の花はもうすぐ白い綿毛となって空を舞って消えてしまう。
「お前は遠くに行ってしまう」
カタバミは種を落とし、この草原に群生し、春蝶はこの丘を出ることはないだろう。
悲しそうな声で、狼は太く立派な尻尾でぱたりと地面を叩く。
困ったようにタンポポは揺れた。
狼の鼻を掠め、なでるように慰める。
「私はここにいますよ」
タンポポは続ける。
大地に根を張る私たちは、大地を駆けてゆく冬狼様については行けないのです。
ここで待つばかり。
一緒には駆けていけないかもしれません。
けれど、どんなところに貴方が行こうとも、春になれば私は貴方のそばで咲きましょう。
どこに行っても私の姿があるように、たくさんたくさん種を飛ばしましょう。
貴方のために私は咲くのです。
みんなの代わりに遠くまで。
短くとも繰り返し出会えるように、長い冬を超えて、春に再会を喜びあえるように。
黄色い花は色鮮やかに、緑の草原で明るく慎ましく、冬狼の傍で春風に揺れた。
*****
絵物語にしても、どうにも人間臭い冬狼も居たものだが。
最後のページまでめくり終えて、ヴィルヘルムは歪な笑みを浮かべた。
「春だけの逢瀬など、苦しいな。冬狼」
狼は春を待ちわびて厳しい冬を乗り越えるのか。
春になれば喜び、そして別れに怯えるのか。
蒲公英の無償の親愛は、まるでこの娘のようだ。
傍に居ろと我儘な狼が己のように。
(だが、冬狼神よ。貴方のように私は気も長くないし、穏やかに見守るだけなど出来やしない)
堪え性のない男は、冬狼のような気長さで春を待つことはできないだろう。
人の業は神に比べて余程に傲慢だ。
手に入れたなら離さない。
「それこそ、食べてしまいたいくらいに」
そう言いながらも、男のその手は優しく愛おしい娘の頬を撫でる。
あどけない寝顔に、触れるだけの口づけを。




