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一通り目を通したヴィルヘルムは、報告書の中に火急のものはないと判断し、全部ベルンハルトに一任することにした。返書がない限りは、副官へ一任するというのは初めから決まっていたことだから、彼から何か行うことはない。
チェルニにたどり着いたのは夜も更けた時間だった。自分で馬を駆ければ半日もかからない距離だが、馬車ではこの時間の到着も仕方ない。
慣れない馬車の旅に疲れたのだろう。暗くなる頃にはリュクレスは馬車の中ですっかり眠ってしまっていた。相変わらず軽い身体を、両腕に抱えて馬車を降りる。
宿は中産階級向けのもので瀟洒で垢抜けた造りの建物だった。
馬車の音に気づいたのか、降りると同時に宿の正面の扉が開かれる。
中から出てきたのは中肉中背の温厚そうな男で、手に明かりを持っている。下男にしては着ている服が仕立ての良いものだから、ヴィルヘルムが少しだけどう声をかけようか逡巡していると、男は流れるような動きで深々と礼をした。
「ようこそお越しくださいました。セレジオ・ドレイク様。長旅お疲れでしたでしょう」
迎えるその綺麗な所作に、ヴィルヘルムは彼が宿の主人と確信する。
「私は、当宿屋の主人でハルク・バッソと申します。挨拶はこの程度で。ささ、どうぞ中へ」
感じの良い男は、社交的だが、厚かましさがない。
彼は要領よくヴィルヘルムたちを案内すると、カウンターの中に入った。
「夜遅くなってしまって済まないね。しばらくの間よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。…お連れ様は夢路に旅立たれましたか」
「ええ。旅慣れていないものだから」
宿の主人は眠る少女の顔を覗き込むような無粋な真似はせず、柔和な笑みをのせて、壁にかかる鍵箱の中から部屋の鍵を取り出した。
「記帳は明日でも構いませんので、本日はもうお休みください。お連れ様も早くベッドに寝かせてあげたほうがいいでしょう。お部屋へご案内いたします」
気の利く主人に甘えることにして、ヴィルヘルムは礼を言う。
声を抑えて話すからか、リュクレスは起きることなく、こんこんと眠り続けている。
二部屋の鍵を開け、主人は奥の部屋の扉を開けた。
「お嬢様はこちらをお使いください。女性向けに作られておりますから。使用人部屋は入って右手にございますので」
「ありがとう」
「いえ、どうぞ、ゆっくりお休みください」
宿の主人が去り、ヴィルヘルムはリュクレスをそっと寝台に寝かせた。シーツを娘の肩まで引き上げると、寝台の端に座り、あどけない寝顔を見下ろす。
このまま同じ部屋に居たい気持ちは山々なれど、残念ながら手を出さない自信が欠片もない。
想いが通じ合ってからのヴィルヘルムの忍耐は、それこそ紙のように脆弱だ。
「純白のウエディングドレスを、笑顔で着て欲しいですからねえ」
ヴィルヘルムはしれっと白を着せることができるけれど、神の前でリュクレスが偽りの笑顔を浮かべることなど出来はしないだろから。
それまで彼女の純潔は守るべきであって、手を出すことはできない。リュクレスが無防備だからこそ、誤解を招くような行動もヴィルヘルムが慎まなくてはならないのだろう。
「ただ、これくらいは許してくださいね?」
苦笑いを浮かべなから、ベッドに沈む愛おしい娘の、その唇に口づけを落とす。
「おやすみなさい。良い夢を」
唯一付いてくることを許したトニアに後を任せ、隣の部屋に入ると、ヴィルヘルムも上着を脱ぎ、すぐに横になる。仕事を詰めた分、3日の徹夜は流石に堪えた。
どっと押し寄せてくる疲労に身を任せ、隣の部屋の彼女を思うと、あっさりとヴィルヘルムも眠りに落ちていった。
翌朝、起きだしたヴィルヘルムは、早々に浴室にこもった。熱い湯を頭から被り、ようやくしゃんと目が覚める。入浴を済ませたタイミングで、扉がノックされ、宿の者が食事を運んできた。
手際良く二人分の朝食を整えると、給仕は一礼して引き上げる。気が回るのは主人だけでなく、この宿の使用人たちにも言えるようだ。よく教育されていると思う。
ヴィルヘルムはそう評価しながら、リュクレスを迎えに出ようと扉を開け、立ち止まった。
何故ならば、そこにはノックをしようとする仕草のまま固まる娘が居たからだ。
驚いたように目を丸くして、視線はヴィルヘルムに止まったまま。
「リュクレス?大丈夫ですか?」
引き戸だから、彼女に扉がぶつかることはなかったはずだ。突然開いた扉に驚いたのだろうと声を掛けるが、反応はない。
心配になり、リュクレスの顔を覗き込むと、目を泳がせていた彼女が、慌てたように後ろにのけぞった。そうして、じわり顔が赤く染まってゆく。
「リュクレス?」
少し前かがみになるヴィルヘルムの髪から水が滴り落ちる。
水も滴るいい男という言葉があるが、今の彼がまさにそれで。
男の色香に、リュクレスは逃げ腰になってうろたえていたのだ。
だが、逃げ出すことなく、そろそろと手を伸ばし、彼の肩に掛かる布でその髪に触れる。
「風邪、ひいちゃいますよ?」
男のように乱雑な拭き方ではなく、優しく労わるような拭き方は心地よい。そのまま彼女を独り占めしてしまいたくなる。
「ありがとう」
「…こちらこそ」
「こちらこそ、ですか?」
リュクレスの礼の意味が分からず、ヴィルヘルムは首をかしげた。
「だって、ヴィルヘルム様の髪の毛に触れるの、好きなんです。とっても、綺麗でさらさらだから」
無垢な笑顔には男を誘う意図はない。…分かっていても唆される。
「……いつでも、触ってもらって構いませんよ」
布越しではなく、愛しいその手が直接、髪に触れる。擽ったい感覚は、ぞくりと別の感情も引きずりだした。
色めいた意味なんてないのに、むやみに男を煽るのは彼女の無邪気さ故か。
こちらが触れると恥ずかしがるクセに。
君が嬉しそうに微笑むなら、それは仕方がない。
男の我慢に気づいていないから。
妻にした暁には、覚悟しておいてくださいね?
にっこりと不穏な笑顔に、ヴィルヘルムは言葉を隠した。
今日のリュクレスは、薄紫の光沢のないサテン地のワンピースを着ている。ふわりとしたスカートが、腰の細さを一層強調する。髪はサイドを編み込んで後に流し纏めているが、後ろ髪は下ろされたままだ。
柔らかな石鹸の匂いに、入浴も終えて早々と身支度を整えたことを知る。
「どうやら、私のほうが寝坊助だったのかな?」
「え?そんなことないですよ。私はトニアさんに準備とか手伝ってもらってるから早いだけで」
「では、君が私の手伝いをしてくれますか?」
そう言って、彼女を部屋に招き入れ、ヴィルヘルムは寝台の端に腰掛けた。両膝の間にリュクレスを引き寄せ、髪を拭く行為を続けさせる。男の明らかな接触に動揺しつつも、リュクレスが嬉しそうにはにかむから、ヴィルヘルムはそれ以上悪戯を仕掛けることなく、されるがままになりながら、口元に笑みを浮かべる。
(これで、甘えさせている自覚がないのだから、困った人ですよね)
朝食が冷えてしまう前にと思うのに、今のこの雰囲気を壊してしまうのがあまりに勿体無い。朝食と、リュクレスを天秤にかけ、当然のごとくリュクレスに傾くから。
(後で謝るから、一緒に冷めた朝食食べましょうか)
そんな風に、男は笑った。
今日は、まだ、始まったばかり。




