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リュクレスにとって馬車の旅はこれで二度目だ。
以前は景色を眺める気持ちの余裕などなかった。緊張と不安でいっぱいだったあの日に比べると、今日はまるで夢みたいに平穏だ。
あの時のような緊迫感はなく、のんびりとした気持ちで窓の外の景色を眺める。
まだ日差しは厳しいが、髪を揺らす風は少しだけ涼しい。
馬車は静かに走り続けている。
馬の足音も轍を走る車輪の音も、車内の静けさを邪魔するものではない。規則的なその音と揺れが、少しだけ眠気を誘う。
ふと視線を感じて、リュクレスは前を向いた。
向かいに座るヴィルヘルムが、いつの間にか手元の書類ではなくリュクレスを見つめていた。まだ、手元にある書類はそのままだが、読み途中の様子はない。
ちょっとだけ、終わったことを期待する。
「お仕事、終わりました?」
お仕事で忙しいヴィルヘルムを労う気持ちは本当だ。仕事中でも、一緒に過ごせるなら嬉しい。けれど、目を合わせてお話ができれば尚、嬉しい。
「はい。申し訳ありません。今回は仕事を持ち込まない予定だったのですが」
リュクレスの正直な気持ちはその目に浮かぶから、彼は苦笑して、止まっていた手を動かした。書類の束を綺麗にまとめて仕舞い、謝罪の言葉を口にする。
リュクレスはそんなヴィルヘルムにゆるゆると首を振ると、気遣いと嬉しさを複雑そうに織り交ぜて微笑んだ。
「忙しいのは知っていますから。本当は…ヴィルヘルム様に休んでもらいたいのに、でも一緒にお出かけ出来るのが嬉しくて、浮かれてしまって…ごめんなさい」
「そういう時はありがとうの方が嬉しいと、前にも言ったでしょう。喜んでもらえましたか?」
「はい!…ありがとうございます」
笑顔を見せるリュクレスに、ヴィルヘルムも優しく微笑む。
そして、隣の席を軽く叩いて、こちらへどうぞと席へ誘った。
「せっかくですからね。君に傍にいて欲しい」
リュクレスは添えられた手を頼りに揺れる馬車の中を移動した。隣に座ると、腕が触れ合う。あまりに近いその距離が新鮮でどこか落ち着かない。
けれど、暖かくて居心地が良い。何とも言えない、矛盾した感情にリュクレスは振り回されっぱなしだ。
頬を紅潮させながら、そわそわしているリュクレスの腰に手を回し、ヴィルヘルムはそっと抱き寄せる。そうして包み込んでおいて、
「冬なら良かったかな。今の時期では暑いと嫌がられてしまいそうですね」
笑みを含んでそう言う。
じっと固まった娘は、ゆっくりと解けるように笑ってヴィルヘルムに身を寄せた。
「嫌じゃないです」
一瞬、ヴィルヘルムの身体が固まった気がする。顔を上げると男が困ったような顔をしていた。
「失敗だったかな」零れた言葉は娘の耳には届かない。
さらりと髪を撫で、ヴィルヘルムはリュクレスの頭に頬を寄せた。
「その服、良く似合っていますね。予想通りで嬉しいですよ」
あれほど、意気込んで侍女たちが準備に勤しんでいたというのに、直前になってヴィルヘルムは新しい衣装を運び入れさせた。それはドレスではなく、一般階級の平民の洋服ばかり。今日の服装もその中に一着で、淡い黄色と、若菜色のストライプのワンピースだった。胸元にはたんぽぽのペンダントが揺れている。
いつものドレスに比べ、随分と着やすい洋服は着替えに手伝いを必要とせず、堅苦しさもない。
「普段もこういう服がいいなぁ…」と、こっそりリュクレスが囁けば、「流石にそれは…」とヴィルヘルムは苦笑いをした。
「今回は、貴族然とした格好よりは、市井の方々に混ざってしまった方が楽しめそうですからね。君の設定は商家の娘さんというところでしょうか」
ぽやんとした雰囲気に、リュクレスの纏うその色彩は、意外な程箱入り娘という感じを醸し出しているから、なかなかに的を射た設定だとヴィルヘルムは思う。
「そういえば、君は言葉遣いも、振る舞いも綺麗ですが、どこかで教わったのですか?」
リュクレスは孤児院出の平民の割に、言葉も立ち居振る舞いも綺麗だ。本人はあまり自覚がないようだが、王妃が望む王宮の侍女でさえ無難にこなせてしまえる程度には教育されている。それが不思議で問いかけると、リュクレスは首をかしげて考え込んだ。
今ひとつ、自信なさげに口を開く。
「教わったことはないです。話し方はお母さんが、こういう話し方だったのでいつの間にか、同じような話し方になったんだと思います。振る舞いは…もしかしたら、お母さんとしていたお姫様ごっこのおかげかもしれません」
「お姫様ごっこですか?」
男のヴィルヘルムにはよくわからないが、確かに女子はお人形ごっこなど好んでいたように思う。おままごととかそう言った類のものなのだろう。
「はい。よくある子供の頃のごっこ遊びです。母は以前侍女をしていたので、私をお姫様扱いして、本格的に付き合ってくれたんです。侍女姿のお母さんが格好良くてよく遊んでもらいました。だから、そのおかげかも…?それ以外あまり思いつかないです」
「なるほど。君の母上は先見の明がありますね。どこに出しても恥ずかしくないよう娘さんを育てたわけだ。素晴らしい」
母を褒められて、娘はとても嬉しそうに破顔した。
取り留めもなく、二人は会話を楽しんだ。普段ともに離宮に住みながらも、思うほど一緒にいられないから、会話は尽きない。
のんびりと話をしていると、不意にヴィルヘルムが窓の外に目をやった。
柔らかく目を眇めて、リュクレスの名を呼ぶ。
「ああ、ほら。窓の外を」
促されて窓の方をみやり、…その光景に、呼吸をすることさえ忘れた。
馬車の窓枠が、まるで額縁のようだった。
その中には金色の穂が、風に揺られて煌めいている。
なだらかな隆起に沿って、果てもなく遥かずっと先まで。
金色の絨毯が広がっていた。
細い道を、荷台に農具を乗せた驢馬が、ゆっくりと家路を行く。
すれ違う彼らが、帽子を軽く持ち上げて挨拶をし合う。
絵画のような、それでいて生き生きとした人々の生活が鮮やかにそこにあった。
こちらのほうが少し寒いから、早く麦畑は金色に染まる。
ヴィルヘルムはそれを知っていた。
声もなくその風景を見つめるリュクレスの表情は、ヴィルヘルムが望むままの笑顔で。
彼は静かに微笑むと、自分もその景色を楽しむことにした。




