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マリアネラが去ってからはリュクレス付きの侍女はいない。リュクレスが望まなかったからだ。代わりに、必要な時だけ身の回りのことを手伝ってくれる。
今日も着替えを手伝ってくれたのは、トニアという笑顔の温和な中年の女性と、リュクレスより2歳年上の溌溂とした元気なお姉さん、レシティアだ。
二人共とても親身になってリュクレスの世話を焼いてくれるが、今日はいつにも増して熱意を感じる。
明日からチェルニへの小旅行が始まる。どうやら、そのための衣装選びらしい。
毎日のものだけでなく、祭り用の衣装も別に選ぼうと、二人は意気揚々と衣装と向かい合っている。
ぽつねんと置いてけぼりにされてしまったリュクレスはそっとソファに座ったまま、彼女たちを観察していた。楽しそうな彼女たちを見ていることもリュクレスは好きだから、邪魔をしようとは思わない。
「やっぱり、こちらのお色がいいんじゃないでしょうか」
「そうねぇ。でも、町中を歩くにはそのスカートは少し邪魔になるんじゃないかしら」
「ああ、そうですね。では…、こちらなんてどうでしょう?」
「あら、素敵ね。この間、将軍が追加で作らせていたものね?」
その言葉にぎょっとしたのはリュクレスだ。
「え?!」
また増えた?!
知らないうちに、クローゼットの中は一段と充実してきているようだ。夏用のドレスだけでなく、秋に向けたものも、靴や装飾品に至るまで増えているのだろう。ひと目で高級品と分かるドレスが並ぶその中を、リュクレスは怖くて覗くことができない。いくら自分のものだと言われても、いや、反対に自分のものだと言われてしまったからこそ、リュクレスにはその中身が自分の身に不相応としか思えなくて、及び腰になってしまう。
王妃様のように気品があって、ドレスの似合う容姿をしていたなら、これほどの抵抗はないのかもしれない。いや、卑屈になっているわけではないのだ。だが、童顔で凡庸な顔立ち、小柄な身長、子供のような貧相な身体にどうしたってドレスは似合わない。重ねて、無教養で立ち居振る舞いだってなっていないとくれば、せっかく用意された衣装も勿体無いばかりで、まさに猫に硬貨である。
それに現実的なことを言ってしまえば、庶民的な感覚のリュクレスにとって着まわせる枚数があれば、それ以上は必要がないと思えてしまう。
最近までリュクレスは、その衣装や装飾品が全て借り物だと信じていた。クローゼットには近づかず、衣装にも装飾にも触れることもない。汚しでもしたら大変だ。
囮役のために準備されたものだと思っていたそれらが、自分に用意されたものだと知ったのは、盛夏の頃、ヴィルヘルムの言葉がきっかけだった。
「随分身長が伸びましたね」
その自覚のないリュクレスは、自分の身体を見下ろした。
「そうですか?」
自分の腕や足元を見てもよくわからない。
思い返してみれば、最近関節が痛むことが時々あったけれど、あれが所謂成長痛というやつだったのかなと、のんきに思う程度だ。周囲の人々が長身なせいもあって、身長が伸びたと言われても実感はない。小柄であることは変わらないし、言われれば裾が少しだけ短くなったようにも感じるが、相変わらずコルセットを使用することもなく、きつくなったと感じることもないから。
「ドレスのサイズ直しが必要ですね。…いや、いっそ、新しいものを新調しましょうか」
わざわざドレスを直す必要さえ感じていないリュクレスには、新調という言葉ははっきり言って質の悪い冗談にしか聞こえない。
それでは、まるでリュクレスのために衣装を作るように聞こえるではないか。
だが、ヴィルヘルムは全くもって本気のようだった。
驚きを通り越して、狼狽してしまう。
「ええ!!いやいやっ、そんな必要っ…な、ないというかっ!…勿体無いですっ!今の借り物で十分ですからっ」
顔を青くしてリュクレスは、慌ててそれを遠慮した。
謙虚にというよりは、拒否に近い。
だが、彼は器用にも、全然笑っていない笑顔を見せた。
「おや、私を恋人にドレスを送ることもしない甲斐性なしだと思っているのですか?」
「え、ええ?!」
いやいや、そんなつもりはないですと、冷や汗ながらに首を振る。
「確かに冬に用意したものは、囮役としての君に準備した衣装であることは認めます。ですが、夏以降は、私が君に送ったものですよ」
「え、え?」
「借り物などではありません。君のために準備した、全て君だけのものです」
予想すらしていなかった言葉に、リュクレスは言葉が出ない。
腕を差し伸べてリュクレスに触れる男は、悪魔のように甘い笑みを浮かべて顔を寄せる。
「物で関心を惹くのもどうかと思いますが、あの衣装や装飾品は私の君への想いです。受け取ってはくれませんか?」
「うう…っ」
「ねえ、リュクレス。どうか、受け止めて?」
とろりと低音の甘い声。
耳朶を掠める唇に、リュクレスは身体を戦慄かせた。
それがどれほどの効果を齎すか知っているくせに、ヴィルヘルムは容赦がない。
目を開けていることも、立っていることもままならず、リュクレスは。
その甘えるようなその声色に、ただ肯定以外許されず。
新たなドレスを大量に送られる羽目になったのは記憶に新しい。
恥ずかしい思い出まで蘇って、リュクレスは耳まで真っ赤になった。
レシティアが持っているドレスは彼女たちの言うとおり、見たことのない新しいデザインだった。濃い青に、金色の刺繍が品良く綺麗だ。Aラインのすっきりとしたそのシルエットは少し大人っぽくてリュクレスには似合いそうにないが、ヴィルヘルムの選ぶドレスは今まで淡い色が多かったから、少しだけ新鮮な気がする。
また新しいものを貰ってしまった。
「こんなにも、もらってばかりで…どうしよう」
困ったような小さな呟きは、しっかりと二人に拾われてしまう。
「何を言っているんですか。殿方が女性に衣装を送るのは自分好みの女性にしたいからですよ。完全なる自己満足です。そんな風に、気にしないでよろしいですわ」
レシティアがすました顔で言い切った。
「リュクレス様がそのドレスを着て笑顔で感謝の言葉を口にするだけで、十分お返しになるのだと思いますよ?貴女の笑顔は将軍にとって、宝石よりも高価なものでしょうから」
穏やかにトニアも同意して、リュクレスにやんわりと言い聞かせる。
「貴女を手放したくなくて、喜ばせたいのに、こういう行動でしかそれを伝えられないあたり、あの方はとても不器用ですね」
ヴィルヘルムが不器用?リュクレスは、小首をかしげる。彼は穏やかな笑みを絶やさない。何事にもスマートに物事をこなしていく印象がある。
けれど、彼の告白を思い出すと、そうなのかもしれないとかすかに思う。
年の功か、トニアはおっとりと微笑んだ。
「リュクレス様、遠慮せず貴女の気持ちは伝えればいいものだと思います。けれど、将軍が貴女に与えるものは、彼の甘えのようなものですから。きっと、これからも続きますよ?覚悟してくださいね」
そう言われてしまえば、リュクレスは少しだけ考え込んで、それから慎ましやかに微笑んだ。
「はい」
それは包み込むような優しさで。
レシティはため息混じりに苦笑する。
「リュクレス様がそうやって甘やかすから、きっと将軍が我儘になるんですね」
甘やかす、その自覚は相変わらずないのだけれど。
ヴィルヘルム以外の人たちまで言い出すからには、そうなのだろうか。
でも、もし。
「…もし、本当に、ヴィルヘルム様を甘やかせているなら、嬉しいです」
とても自分に厳しい人だから、少しくらい、一人くらい甘やかす人がいてもいいんじゃないかと思うのだ。それが、リュクレスであるならば、嬉しい以外のなにものでもない。
「リュ、クレス様…その顔、絶対将軍の前でしちゃダメですよ…?」
なんだかぐったりと肩を落としたレシティアを励ましながら、トニアはのんびりと、リュクレス様は大物ですねぇなんて微笑む。
よくわからないまま、おろおろするリュクレスを前に、トニアは仕切り直しとばかりに、レシティアの肩を叩いた。
「さ、まだ準備は終わっていませんよ。リュクレス様は明日、長い移動になるでしょうし、あまり長い間お付き合いしてもらうわけにはいきません。ぱぱっと進めてしまいしょう」
「は、はいっ」
レシティアも気を取り直したように、リュクレスの衣装選びに戻った。




