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「少し、遠出をしましょうか」
短い夏が過ぎ、何処からともなく金木犀の匂いが香るようになっていた。
まだ暑さを残すのに、季節は少しずつ秋めいてきている。
リュクレスを少し遠くなった白っぽい空の下に誘い出し、ヴィルヘルムは散歩の途中でそう切り出した。
「遠出、ですか?」
背の高いヴィルヘルムの横顔を見上げると、彼はいつものように瞳を和ませた。
「ええ、時間が取れたので。チェルニという町に祭りを見に行きませんか?」
「お祭り…」
「はい。…ふふ、お誘いして、良かったようですね」
返事もしていないのに、ゆるりとヴィルヘルムが微笑むから、リュクレスは自分が一体どんな顔をしたのかわからずに赤くなる。なんでも顔に出てしまう己の素直さがちょっとだけ恨めしい。
けれど、嬉しいのは本当だから、誤魔化すことなど出来ない。
「……ヴィルヘルム様も一緒に、ですよ、ね?」
「もちろん。おや、ご不満ですか?」
「違います!反対ですっ…すごく、うれしい」
本当に嬉しくてリュクレスがえへへと照れたように笑うと、ヴィルヘルムは満足そうに目を細めた。
「星祭りという夜が本番の祭りです。とても美しいものを見せられると思うので、楽しみにしていてください」
「はいっ」
嬉しさに大きく頷いた。
名からして、星空の下のお祭りなのだろうか。
お祭りというその響きを聞くだけで、少し浮かれた気分になる。
けれど、ヴィルヘルムとお祭りというのは、なんだか意外な取り合わせだ。
何か、思い出のあるお祭りなのだろうか?
それとも、何か謂われのあるお祭りだとか?
「そのお祭り、ヴィルヘルム様は行ったことがあるんですか?」
尋ねるリュクレスを、ヴィルヘルムは歩きながら、黒い針葉樹の壁際にさりげなく誘導した。
リュクレスは、今はもう杖を使っていない。支えるもののない、その足取りはまだまだ危なっかしい。だが、リハビリのためにエスコートは可能な限り断ることを知っているから、ヴィルヘルムは出来るだけ歩きやすいところを選び、時々こうやって休憩を入れてくれる。
日陰に沈む灰色の瞳が、眼鏡越しに穏やかに緩む。
「いいえ。一度だけその時期にチェルニに滞在していたことはありますが、仕事中だったので、宿からも出ず、結局祭りを見に行くことはなかったですね」
「そうなんですか」
不思議に思うリュクレスの気持ちは、ヴィルヘルムにも伝わったようだ。
「星祭りを選んだ理由は二つあります。一つはあまり騒がしくて人の多い祭りではないこと。人ごみでは今の君が楽しめないだろうから。そしてもう一つ、こちらが本命ですが、この祭りには言い伝えがあります。基本的に私は、神頼みだとか呪いの類はあまり信じてはいないのですが…生涯に一度くらい願掛けをしてみようかと思いまして」
「どんな言い伝えなんですか?」
「それは、当日のお楽しみです」
にっこりと何かを企むような笑顔に、リュクレスは聞くことを諦める。
聞きたい気持ちもあるが、楽しみを取っておくと思えばそれはそれでわくわくする。
「じゃあ、当日を。楽しみにしています」
リュクレスはそう言って言葉通りの表情を浮かべた。
散歩を再開しようと一歩、前に出した足にドレスの裾が絡む。
それを慎重に捌いてから歩き出した。
(…やっぱり、トゥニカの方がいいなぁ)
リュクレスとしては、リハビリなんて多少は転ぶものだと思っている。
歩き方を覚え始めた子供のように、転んで身体が覚えるものだと。だから、転ぶことには抵抗はないが、ドレスを汚すのは躊躇われたから、一度だけトゥニカに着替えたいと希望したことがある。
結果、ヴィルヘルムのみならず、何故か全員に却下をもらった。
転ばないよう助けてくれるのはありがたいが、どうにも屋敷中の人たちが過保護な気がするのは…絶対気のせいじゃないはずだ。
高い木立が、まだ強い日差しを遮って日影を作る。
涼しい庭の端から見える庭の中央は日向の明るさに緑が綺麗に映え、背景になる離宮の屋敷は正面に日差しを受けて、庭との調和が絵画のように美しい。
もう半年になろうとするのに、この離宮はいろいろな一面を見せてくれる。
その美しさにリュクレスは、まだ新鮮な感動を感じることができる。
ヴィルヘルムが籠の鳥のよう閉じ込めている、と自嘲めいて言うことがあるが、そんなことはないのだ。
ヴィルヘルムは、リュクレスの希望を叶えてくれている。
だからリュクレスは作ることのない本当の笑顔で笑うことができる。
「そういえば、修道院からお返事が来たんですよ!」
嬉しいことが、重なってリュクレスの心はふわふわしている。
心配しているであろう修道院の皆へ近況を知らせてみてはどうかと、手紙を書く事を勧めてくれたのはヴィルヘルムだった。
早速、拙い文章でしたためた手紙を送ってもらってから、まだ10日も経ってない。
「それは、良かった。やはり心配していたのですね。あちらも早々に返事を書いたのでしょう」
ノルドグレーンとアズラエンでは単純に考えても郵便は届くのに4、5日かかる。届いた直後に返事を書いたのでなければ、返事がまだ届くはずがない。
「司祭様とラジミュール様からでした。あ、ラジミュール様は…」
「修道院の院長でしょう?君の母替わりだ」
「はい!そうなんです。みんな元気にしてるって書いてありました!食糧難も何とかなって、病気になった子もいなかったみたいで…ほっとしました」
無事に冬を越せたことを確認できてリュクレスは本当に嬉しい。ヴィルヘルムは隣をゆっくりと歩きながら、相槌を打った。
「良かったですね。君のことも安心してくれましたか?」
「将軍様のところでお世話になってますって書いたら、驚いてました。でも、安心したって。また、顔を見せてって…あ」
しまったと、口をつぐむ。
ヴィルヘルムはやはり、申し訳なさそうな顔をしていた。
「すみません…まだ、里帰りはさせてあげられない。」
そんな顔をさせたいわけではなかったのだ。だから言うつもりはなかったのに、つい口を滑らせた自分が悪い。リュクレスは大きく手を振った。
「あのっ、謝らないでください。私なら、手紙だけで十分です。こうやって皆に安心してもらっただけで、皆が変わり無いことを知れただけで大満足ですからっ」
それにそれにと、リュクレスは真剣だ。
「帰りたいって思うのも本当ですけど、それ以上にヴィルヘルム様の傍に居られることが嬉しいんです。だから、今一番、この時が幸せなんですよ?」
そう言って立ち止まると、ヴィルヘルムに向かい手を伸ばした。おずおずと、彼の右手に触れる。長い指、繊細そうでいて、剣を握るその手のひらは硬く、武骨な手だ。大きな手を包み込むにはリュクレスには両手でも足りないけれど。
すぐ手の届くところに、好きな人が傍にいるのに、それ以上に幸せな時なんてあるはずないのだ。
僅かに目を見開いた綺麗な人が、優しい笑みを浮かべた。
リュクレスの手が、優しく握り返される。
「…私も君に手紙を書きましょうか」
「え?」
「傍にいて、触れ合える距離で、それでも伝えられない言葉があるから。伝えきれない想いを言葉にして、君に送りましょう。返事をくれますか?」
毎日のように会っているのに言いたいことは、届けたい言葉はたくさんあって。
ああ、確かに恥ずかしかったり、遠慮したりして言えない言葉はたくさんある。
ヴィルヘルムの提案はそんな想いをお互いがしているのだと教えてくれるものだった。
「読んでもらえる時間はありますか?ヴィルヘルム様のお仕事の邪魔にならない?」
「なりませんよ。早く読みたくて、逆に仕事が捗るんじゃないかな?」
「なら、書きますっ。書きたいですっ!」
顔を紅潮させて意気込むリュクレスを、ヴィルヘルムは引き寄せる。そして身をかがめ、丸く形の良いその額に口付けを落とした。
「楽しみにしています」
耳どころか全身真っ赤になるリュクレスは、動揺して額を押さえたまま固まった。
だが、今までのように逃げ出すことなく、ゆっくりと照れたように微笑む。
「!」
ヴィルヘルムが息を飲むのが聞こえた気がした。瞬間、彼の腕の中に捕らえられる。
その唐突な行動にリュクレスは驚いて顔を上げようとしたが、がっちりと抱え込まれてしまって、それは叶わない。
まさか、彼の頬も紅潮していた、なんて。
リュクレスは知らずに、その珍しい表情をついに見せてはもらえなかった。




