幕間 -料理長と家令の場合-
食堂の扉が半分開いていた。
普段、開けっ放しにされるようなことはないそれに、料理長は不思議に思って中を覗き込んだ。
食堂の中は無人ではなかった。
そこには、本業はなんだったかと本気で疑いたくなる東方の青年が、窓の外に視線を向けていた。
人の気配に敏い彼にしては珍しいと思いながら声をかける。
「…どうしました?」
身動きすらせず、立ち尽くしていた青年はその声に意識を室内へと戻したようだった。この屋敷の若い家令はまたしても珍しいことに口元を緩めている。
「いえ。大したことではないのです」
室内に入り、彼の視線の向かった先を見れば、そこには長身の男と小柄な娘。
庭に咲く植物たちの説明でもしているのだろうか、手振り身振りを交えて、娘は楽しそうに語りかけている。その顔は無邪気そのもので、明るい笑顔を浮かべていた。
時々相槌を打ちながら、聞き手に回る男の顔は普段の泰然とした雰囲気はなく、冷徹な将軍も形無しだなと、苦笑いしてしまいそうなほど蕩けているから。
「ふっ」
思わず吹き出してしまった料理長に、家令も肩を竦めた。
「…平穏なものですな」
料理長はのんびりと呟いた。
特に何のこともない景色の中で、ふたりが共にいるだけで、それを見ているものたちの心は和む。
「最近、庭園がお花畑のように見えることがありますね」
…お花畑
家令の冷静な言葉とは裏腹に桃色の世界が想像出来てしまい、堪えきれずに料理長は声を立てて笑う。
冬狼の、その異名は名ばかりのものではなかったはずだ。
彼の纏う穏やかさは、切るような冷たさを隠す外套のようなもので、彼自身がまさに冬の化身のように冷淡で時に無慈悲だった。
世界は真白く染まる厳冬のように彼の姿を吹雪に隠し、血塗れて殺伐とした戦場でのみ、人の目はその姿を鮮烈に映した。
そんな男に忠誠を誓った家令は、主のあまりにも鮮やかな変化を窓越しに見つめる。
「残念なほど男振りが下がってませんか、あの人」
「ふはっ」
言うに事欠いてそれかと、当の本人が聞いたら冷ややかに怒り出しそうな台詞を、ずけずけという割に、彼のその口調は明らかに愉しげだ。
初めて会った時に比べ、遠慮のない彼の言葉を料理長は嫌いではない。むしろ、面白いとさえ思っている。
「ああやってみると、ただの男なんですね」
ぽつりと呟かれた言葉に、家令自身さえ冬狼将軍の姿を視認できていなかったのだと、改めて思い知る。
将軍はずっと、冬の雪の中にいた。冷たい世界で彼自身も凍えたように、心を動かされることもなく。凍った季節が巡り、彼は初めて春を知ったのだろう。
柔らかく穏やかで、暖かい春を。
神である冬狼が草原で花を愛でながら微睡むように。
ようやく彼も立ち止まり、彼自身の幸せに手を伸ばす。
やわらかな黒髪におもむろに触れて、そっと梳いた。
娘が動揺し、頬に朱を刷く。
どこかうっとりと語られる言葉を聞いてはいられなかったのだろう、細くしなやかな腕を伸ばして、娘は男の口を塞いだ。
だが、慌てて手を引いたところを見ると、舐められでもしたのか。
不意打ちにたじろぐ娘を面白そうに男は見つめる。
何か言葉を紡いでいるが、ここまでは聞こえない。
ただじんわりと目を潤ませて娘が頬を染めるから、なんとなく想像は付いた。
向かいあう家令が呆れた顔をして、息を漏らしているから、興味本位で聞いてみる。
「彼はなんと?」
読唇術ができる彼には、男の言葉が脳内でリフレイン中なのだろう。ややげんなり気味な表情で、首を振った。
「俺には恥ずかしくて、口が裂けても言えない言葉です。…口づけの意味、ですよ」
「……ああ…」
少しだけ遠くをみて、生ぬるく応える調理長にも、若かりし頃そんな台詞に憧れたような過去があったような気がする。だが、実際に使うとなると別の話だ。
とある詩人の詩にある句だ。唇なら愛情。
手のひらに口付けたならば、その意味は。
―――懇願。
覗き見をしているのはこちらだが、なるほど。
…いたたまれないほど、恥ずかしい。
聞こえなくてよかったと、家令には悪いがほっと胸を撫で下ろす。
だが、色恋沙汰にはとんと疎そうな娘には、随分と刺激が強い気もする。
逃げられてしまうのではないかと見守っていれば、どうやらそれは杞憂のようだった。
恥ずかしそうに戸惑いながらも、少女は決して逃げださず、男を受け入れてあどけなく笑う。
それは余りにも無垢で純真な、紛う事なき愛情で。
振り回されることに気がついていながら、仕方が無いとばかりに許容するその寛容さに料理長は脱帽した。
子供のような娘だと思っていた。
けれど、もしかしたらこの屋敷の誰よりも器が大きいのは彼女なのかもしれない。
修道女のような慈愛に満ちて、母のような包容力を持ちつつも、そこにいるのは恋を知った、たおやかな娘。
その破壊力は侮れないものがある。
特に、その娘に恋に落ちた将軍は、もう冬の極寒の中にはいられまい。
少しだけ料理人は将軍に同情した。
「振り回しているようで、振り回されているのは案外、彼のほうかもしれませんなぁ」
「ははっ。それには同意します」
声を出して笑い、家令は酷く幸せそうな顔をしていた。
彼らの幸せな姿をこうやって見守り、喜ぶ者がいることを彼らは知っているだろうか?
そう、考えて余計な世話だと気付いた。
誰かの為に幸せになるのではなく、幸せだからこそ誰かを幸せにもできるのだ。
ふたりの仲睦まじい姿がずっと見られることを望みつつ。
しかし、覗き見は稀でいいと料理長は思う。
「少々、私には甘すぎですね。…胸焼けがしそうだ」
家令はそれに、大きく同意した。
本文内使用している、とある詩人の句とは、フランツ・グリルパルツァーの「接吻」(1819年)という有名な詩です。結構ご存じの方多いと思いますが。世界は異なりますが、きっと似たようなことを考えた人がいてもおかしくないかなと、いうことにしておいて頂ければ有難いです。




