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リュクレスは満足そうに水から離れると、ヴィルヘルムに手を引かれ素足で川縁に上がった。とても嬉しそうな顔は、屈託なく可愛い笑みを見せる。
「ヴィルヘルム様、ありがとうございます。馬に乗せてくださったことも、川遊びもピクニックも…全部、すごく楽しかったです」
ほんの些細な会話の中に散りばめられた言葉の数々。
彼はその会話の端々にあったそれを拾い集めてくれたのだ。
川遊びなんて、淑女のすることじゃないと止めることなく、周りを気にすることなくリュクレスが遊べるよう人気のない場所を選んでくれた。
ヴィルヘルムの優しさと細やかな気遣いに、感謝はしてもし尽くせないくらいだ。
「楽しかったですか?」
「はい!」
即答される返事に、ヴィルヘルムも思わず笑んだ。
「君が喜んでくれるならこの程度のこと雑作もありません。私も気分転換になりましたしね。…他になにかしたいことがあれば、言ってもらっても構いませんよ?」
「とんでもないです。こんなにも、いっぱい…もう十分です」
「恋人を喜ばせたいと思うのは当然のことでしょう?君も私に甘えてくれませんか」
「私ばっかり甘えているのでは甲斐性が無さ過ぎる」という言葉をヴィルヘルムが飲み込んだとは知らずに、リュクレスはただヴィルヘルムを喜ぶならと少し考え込む。
十分だと思ったのも本当のことなのだけれど、…すこしだけ、我儘を言ってみようか。
視線を上げてヴィルヘルムへの願いことは。
「…じゃあ、馬の乗り方を覚えたいです」
今日が楽しかったというのももちろんだが、馬に乗れるようになればいつか一緒に馬で散歩が出来るのではないかと、こっそりとした野望。
それに、やれることを一つでも増やせれば、いつか役に立つこともあるかも知れない。
ささやかな願いは、少しだけヴィルヘルムを困らせる。
本当は足の悪いリュクレスにとって乗馬は危険だ。だが彼女の思いを無碍にもしたくない。だから、男はそれを秘密にして微笑んだ。
「わかりました。ただ、乗馬の練習は、私が傍にいる時だけにしてください」
「それは…私は嬉しいですけど…。ヴィルヘルム様、忙しいのに。無理しないでもいいですよ?」
「君と過ごす時間を作るのに多少の無理など負担でも何でもありませんよ」
「でも、せっかくならちゃんと休んでください。私は…本当はどこに居ても、何をするのでも構わないんです。こうやって隣に居られるだけで幸せだから」
繋がった手に少しだけ力を込める。
「安上がりですね」
「そんなことないですよ。将軍様を独り占めにしているんですから、すごい贅沢です」
呆れたようなヴィルヘルムに向かって、そう言って満ち足りた顔で笑う。
その顔に陰りはなく、その言葉に偽りはない。素直な娘の素のままの告白がヴィルヘルムには面映ゆい。
リュクレスには、今までに感じたことのないような気持ちばかり与えられる。
…お互い様なのかもしれない。
二人共、初めての恋なのだから。
もどかしい様な初々しさを大人の男は楽しむことすら出来るはずだった。けれど、リュクレスが本当にその恋を大切に育て、ヴィルヘルムから受け取ったものを、真剣に真正直に返そうするから。男のその余裕は知らぬ間に、何処かに溶けて消えてしまった。
余裕などない。
いつでも真剣で、愚かしいほどにがむしゃらだ。
「…私との相乗りは嫌ですか?」
「え…?」
「私は君と一緒に乗りたいのですが」
共に駆けるのも魅力的だが、あの距離感は心地よい。
「駄目?」
「…駄目じゃないです」
囁くように伝える懇願を、リュクレスは断れない。
「では、また一緒に馬で出かけましょう。手綱の引き方も馬の扱いも教えますから。ね?」
有無を言わせない微笑みで、男は承諾をもぎ取った。
それは建前。
乗馬を教えることよりも、相乗りが存外気に入ったのだ。
娘が自然に身体を預けて、その体温と柔らかさを十分に堪能できるその距離がとても愛おしい。
よく、意地悪だと拗ねたように零されるが仕方がないだろう?
困ったような恥ずかしそうなその表情が、ヴィルヘルムをどれだけ煽ってくれるのか。
無自覚な娘に、ヴィルヘルムは振り回されっぱなしなのだから。
小川から上がったリュクレスが身支度を整える頃には、西の空は少しだけ茜色に染まり始めていた。
「ああ、もう夕暮れですね。そろそろ帰りましょうか」
空を見上げて、ヴィルヘルムに誘われるままに、リュクレスは馬へと向かった。
夕暮れに今日の終わりが迫っていた。
黒の森を抜け見慣れた建物が姿を現す。
帰り道、少しだけ急いで欲しいと言ったのはリュクレスだった。
「あ、間に合った」
帰ったら分かるからと理由は伏せられたまま、馬を走らせてきたがどうやら間に合ったらしい。
声を弾ませて、リュクレスが屋敷を見て指を指す。それから首を巡らせ、ヴィルヘルムに笑いかけた。
「ヴィルヘルム様と一緒に見たいと思ったんです、ようやく願いが叶いました」
薄暗い夕闇に沈む屋敷の窓に、ぽつりと明かりが灯された。
たった一つでは、ぼんやりと朧げで頼りなかったものが、一つずつ増えていく。
橙色の暖かい光が屋敷の中から溢れる。
「私は、この瞬間がとても好きなんです」
夕暮れになると、ソルは屋敷の中を一巡し、一つずつ部屋に明かりを灯して歩く。
その姿を窓の外から見るのがリュクレスはとても大好きだ。
彼の優しさが屋敷中に灯されるようで、ほっと胸が温まる。
「心の中にも一緒に光が咲くようで、とても温かな気持ちになります」
ソルが動く。手燭台の上で揺らめく灯。
「君は、本当にいろいろなものをよく見ていますね」
呆れなのか感心なのか。ヴィルヘルムは、自分が全く気に止めたこともない日々の営みを大切に見つめる娘に、思わず、神の恩恵を感じてしまった。
出会えなければ知ることのなかった世界を、この娘は鮮やかにヴィルヘルムに見せる。
白く灰色がかった世界が、極彩色を纏い始めた。
目に痛いような色ではなく、ただそれは豊かで鮮明で、美しい色彩。
これほどに世界は美しい。
それを知ってしまったなら、傍にいて欲しいと、願わずにはいられない。
リュクレスがいなければ、男の灰色の瞳はモノトーンの世界しか写さないのだから。




