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川辺の木陰に敷物を敷いて、二人は協力しながらバスケットの中身を広げた。

そこに並べられたのは、サンドイッチに、サラダに、デザートなどの携帯食。

見るからに彩り豊かで、美しく飾られた食事は食欲をそそる。

「美味しそう!」

思ったよりも盛りだくさんに入っている昼食を、リュクレスは感心したように見回した。

「さすがアルバさん…」

リュクレスも料理はするが、調理を仕事とするアルバとは流石に比べるべくもなく。見た目も、味も素晴らしい出来の料理にいつも感心してしまう。

「アルバは、王宮でも1、2を争う腕を持つ料理人ですからね」

「そうなんですか?あ、でも、どおりで。アルバさんの料理すごく美味しいですもんね」

気さくだから、そんなにすごい人だとは思っていなかったと、素直に言えば、ヴィルヘルムは穏やかに頷いた。

「彼の性格もあって、今回、離宮での協力を頼んだのです。ですが、彼もこの仕事は得るものが多かったと非常に喜んでいましたよ」

「そうなんですか?」

「ええ。君から聞いた植物の知識はとても参考になったようです。それに、やはり料理を食べている人の反応が見えるのは作り手にとって励みになると」

「…えへへ」

喜ぶように小さく笑ったリュクレスに、ヴィルヘルムがついでのようにさらりと突っ込む。

「その割に、最近また食事量減っていますよね?」

目が泳ぐのを自覚する。…灰色の瞳が仕方なさそうに見つめるから、リュクレスは謝るしかなくなった。

「……アルバさんのご飯は美味しいんですよ?ただ、この暑さに食欲が、沸かなくて」

「やはり、夏バテしてましたか」

「かもしれません。今年はちょっと暑いです」

「気候の違いかな。ノルドグレーンの方が盆地なので暑いかと思っていましたが」

「土地によって違うんですね。向こうの方が、風があった気がします」

「風、ですか」

「もしかして、それを気にして連れ出してくれたんですか?」

気がついて、また心配をかけてしまったのかと申し訳なさそうに俯いたリュクレスに、ヴィルヘルムはその顎を捉えて視線を合わせる。

「まあ、少し環境が変われば食べやすいかとも考えましたが。最初に言ったでしょう?君と、逢引がしたかったのですよ。誰にも邪魔されず、二人だけでのんびりするのもたまには良いでしょう?」

眼鏡の奥の瞳さえも柔らかく、ヴィルヘルムが微笑みを浮かべる。

「だから、顔をあげて?」

ほろりと、リュクレスは表情を和らげた。

「はい」

「では、せっかくですから食べましょう?君も、ほら、お腹の空いている間にちゃんと食べてくださいね」

促されるままに、サンドイッチを手にして、一口食べる。野菜の甘さと、香辛料で味付けられた薄く切られた肉が絶妙で、美味しい。ピリリとした味付けは、この暑さでも、食欲を増進させるひと工夫なのだろう。サラダのドレッシングは酸味が効いてあっさりとしているし、どれもリュクレスの好みに合わせてくれているのがよくわかる。

有り難く思いながら、サンドイッチをひとつ食べきると、同じように食べ始めたヴィルヘルムをまじまじと見つめた。

今更かもしれないが、リュクレスは彼のその軍装が気になってしまう。

長閑な景色に、その格式ばった服装は当然の如く浮いている。

時と場所に応じた装いを選ぶ彼にしては、それはとても珍しいことだ。

「ヴィルヘルム様、今日はなんで軍服なんですか?」

「ああ、式典の途中で抜け出してきたので」

「ええっ!いいんですかっ?」

思いもかけない言葉に驚いて、リュクレスは聞き返す。

「大丈夫だから抜け出してきています。尻拭いは、今までサボっていた人がするだけですから、お相子ですよ」

ヴィルヘルムはといえば、しれっとして気にした様子はまるでない。

「はあ…」

すました顔で食事を進めるヴィルヘルムの横顔を見つめ、リュクレスは曖昧な返事で頷いた。内情をよく知らないリュクレスが口を出せることではないだろうし、それに、彼が無責任なことをするわけはないと知っているから。

だから、リュクレスはぺこりと頭を下げて、「お疲れ様でした」と男を労う。

敷物の上に座る将軍は、軍人とは思えない穏やかさで、いつもより砕けた雰囲気でそこに居た。胡座を崩し、手にしたサンドイッチを食べ切ると、後ろに手を付いて少し身体を反らせて空を見上げる。

それは、飾ることのない素のヴィルヘルムなのだろう。軍服を着ているのに、いつも以上にただの男の人に見えた。

光を取り込む灰色の瞳、整った柳眉にすっと通った鼻筋、形の良い唇。

子供のような悪戯心が、リュクレスの中でむくむくと沸き起こった。

広げられたお皿に乗せられた黒味の強い木苺は甘酸っぱく美味しい。甘いものがあまりに得意ではないヴィルヘルムも好きな果物のひとつだ。漂った視線がそれを捉えて、そっとひとつ、摘まみ上げる。

「ヴィルヘルム様」

「はい?…!」

リュクレスの呼ぶ声に、返事を返そうとした彼の口の中に、ぽろりとそれを放り込んだ。

予想していなかっただろう、リュクレスの行動に、ヴィルヘルムが目を見開いた。

「とても美味しかったので」

ヴィルヘルム様もどうぞっと、にっこりと微笑む。


不意打ちは大成功。


けれど、どうやら男の方が一枚上手なようで、してやったりの娘は、あっという間に動揺に顔を赤くする羽目になった。

意外な行動に驚いてくれたのは一瞬。


ゆるりと、ヴィルヘルムが笑みを刷いた。


彼の唇を掠めた指先を、引こうとした腕ごと捉えられる。

「美味しい、ですね」

柔らかな声は、言葉の意味以上の何かを含んで、聞こえた。

「リュクレス」

ヴィルヘルムはあまり、リュクレスの名を呼ばない。

君、と呼ばれることが多い。

だから、名を呼ばれると、それだけで、どきりとする。

「は、はいっ」

ひっくり返った変な声が出る。それを面白そうに眺めて。

「もう一度」

意図を持って、口が開かれる。

手が離されて、リュクレスは頬を染めながら操られるように、もう一個木苺を手に取った。緊張に震える手で、ヴィルヘルムの口に、赤黒く艶やかな果実を入れる。

それは先ほどと同じ行為なはずなのに、まるで違う意味をなすから。

舌の上に乗せられたそれに、リュクレスは居た堪れなくなって、慌てて手を引こうとした。それは、容易く男に阻まれる。

そのまま手を取られ、口に含まれると、指先を柔らかく食まれる。

視線を囚われたまま、指先から、指の腹、そして手のひらまで、ゆっくりと唇を這わされる。指先から伝わる感覚に、びくりと肩を揺らし、思わず目を閉じた。

「だから、その顔は、誘っているのと変わらない」

視界を閉じたリュクレスに届くのは声だけ。

笑っているような声音で、真摯に囁く吐息が唇に触れた。

そう感じた瞬間、甘い口づけが降りてきた。

柔らかく、少しだけカサついた唇の感触。

初めてのはずのそれは、どこかで感じたことのあるもので。

触れるだけで離れた優しいそれに、リュクレスはゆっくりと目を開けた。

既視感は、気のせい?

「ヴィルヘルム様…今の…以前にも…?」

思い出すような少しぼんやりした思考に、リュクレスは頼りなそうな眼差しを向ける。ヴィルヘルムは悪さが見つかった時のような、気まずそうな顔で苦笑した。

「バレましたね。…一度だけ、君の目が見えなかった頃に。覚えていませんか?」

記憶の中に引っかかる、感触。

足首の傷跡をなぞる感触、頬を包む大きな手。

触れられる唇の、柔らかな感触。

感覚から、引きずられる、記憶。

「あ…」

初めて、ヴィルヘルムに感謝の言葉を伝えた日のことだ。

暖かい日差しの中で、白く曖昧な世界。

触れる優しい腕。

「あの時から、ずっと、君が欲しかったと言ったら呆れますか?」

笑みを湛えた表情の割に、男の眼差しは酷く真剣だった。

「…え…?」

「あの時、私は君に抱いている感情が恋だと気付いた。もっと前から君に落ちていたのだろうけど、自覚したのはあの時です」

呆然と、リュクレスはヴィルヘルムを見つめる。

狡いと詰られても仕方ない。紳士としてはあるまじき行いだとわかっていると、男は懺悔のように告げ、それでも触れずにはいられなかったと。

裁かれるのを待つような恋人に、リュクレスはそっとその小さな手を伸ばした。

膝立ちで、視線の高さを合わせて。冷たくさえ見える灰色の瞳を、じっと覗き込む。

作った穏やかさも、笑みも、その冷たさを隠すための目隠しだ。

けれど、その冷たさを暴いてみれば、その奥にはこんなにも熱を持った感情を隠している。

情熱的で渇望するような愛情を、リュクレスの幼い心が恋を自覚するまで、胸の奥深くに仕舞いこんで。

触れたいと思う愛しさも、切なさも。

こんなにも胸を突く衝動を抑え、急かすことも、押し付けることもなく、ヴィルヘルムは静かに立ち止まって、手を差し伸べて待っていてくれたのだ。

その手に、ようやく追いついて、リュクレスは自分の手を重ねる。

「…ずっと、待っていてくれて、ありがとうございます。待たせてごめんなさい」

ともすれば、リュクレスの中に芽吹いたばかりの恋など、まだ、大人なヴィルヘルムに追いついたとは言えないかもしれない。

先ほどの触れ合いも、その先を望むには少々リュクレスには覚悟が足りない。

それでも、確かに繋がれた想い。

見守って、待ち続けたヴィルヘルムに、リュクレスはただ、感謝を捧げるしかない。

「怒らないのですか?」

そう聞きながら、懺悔をしながらも、男は娘が許すことを知っているのだろう。

優しい娘は、そんな狡さを知っていて男を受け入れる。

リュクレスは頷いた。

束の間のささやかな触れ合いは、男の望むものには程遠いはずだ。

けれど、伸ばされる手は奪うことなく、リュクレスを包み込むだけだから。

「怒らないです。ヴィルヘルム様に触られるの、嫌じゃない、から。あの時も、よくわからなかったけど、暖かかった気がします」


そう言って、娘は無防備にも、顔をほころばせた。





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