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「大丈夫ですか?」
風を切って馬が走る。ヴィルヘルムの声はすぐ耳元で聞こえた。
馬の揺れは見ていた以上に酷くて、舌を噛みそうでリュクレスは返事に窮する。
それに気がついて、ヴィルヘルムが速度を緩めた。
規則的な足の運びになれると、ほっとしてリュクレスはヴィルヘルムを見上げた。
「す、すみません。馬の上って結構揺れるんですね」
「怖いですか?」
「いえ、全然。さっきは舌を噛みそうで話せなかっただけなんです」
「なるほど」
強がりでなく、馬上からの高い視界と流れるような景色は新鮮で、頬にあたる風はとても気持ち良い。リュクレスは目を輝かせながら、ヴィルヘルムに笑いかけた。
「でしたら、もう少し速く走らせても大丈夫ですか?」
「はい!むしろ、楽しいくらいです。涼しいし…」
「ふふ。それはよかった。では、行きますよ。舌噛まないように気をつけていてくださいね」
リュクレスの楽しそうな返事に気を良くし、ヴィルヘルムは軽い動作で馬の腹を蹴った。
くんと伸びる速度に、リュクレスの黒髪が風に煽られて揺れる。
リュクレスは風を切る疾走感に、どきどきと胸を踊らせた。ヴィルヘルムに預けたままの背中に感じる温度が、心地よい。
日差しを遮る黒い森の中の小径を、漆黒の馬は速度を落とすことなく走り抜ける。
流れてゆく両側の景色は黒緑色の針葉樹の木立ばかり。木々の隙間から数筋、天の階のように光が森の中を斜めに差し込んで、木の幹や地面を照らし出していた。
小径というより、隧道の中を進んでいるようだった。
どれくらい経ったのか、ヴィルヘルムが手綱を引いた。慣れない乗馬に子供のように、はしゃいでいたリュクレスにはあっという間だったから正確にはわからないが、随分と長い距離を走ってきたようだ。目的地も近いのだろう、ゆっくりと馬は速度を落とし始めた。
進む先が明るく開ける。
目映い光に目が眩み、リュクレスは手を翳した。
「…!」
森が自然に開けたそこには、一本の清流。
突然、光が降り注いだのは川に沿って森が割れたからだ。緩やかな川の流れはさやさやと優しいせせらぎを響かせて、決して留まることのない水面の上を、光が星のように瞬いていた。
透過する水の中には、流れに逆らって、小さな魚が泳いでいる。
川縁は小さな原っぱになっていた。
空を揺らめかせる川面と水辺の淡い若草色の草が光を浴びて彩度を増す。
手つかずの自然はどんな芸術家よりも繊細で、それでいてどこか大胆だ。
光に目が馴染むと、周りを囲む緑の複雑な色彩と、まるで考えて配置されたような煌く川の軌跡が美しい調和を見せていた。
「わぁ…、綺麗ですね」
ヴィルヘルムを振り返れば、彼は秀麗な顔に笑みを浮かべた。
灰色の瞳がまるで銀色の月のように柔らかく、甘く蕩けて。
あまりにも間近で、その美貌がほどけるのを目の当たりにして、リュクレスは硬直した。
かぁっと顔が熱くなり、不規則に心臓が揺れる。
物慣れない彼女を愛おしむようにヴィルヘルムは、その額に唇を落とした。
仰け反りそうになる娘の身体を支えて、男はクスクスと笑う。
「なんだか、ヴィルヘルム様楽しそうです…」
「実際、楽しいですからね」
額を抑えて呻くリュクレスは茹で蛸のように耳まで真っ赤だ。
振り回されるのがなんだか悔しくてむくれるのに、ヴィルヘルムが、あまりに楽しそうだから、リュクレスは怒る気さえ沸かない。
言いたいのは、文句なのか?怒ってるのか、困ってるのか、それとも。
ヴィルヘルムは先に馬から降りると、リュクレスを降ろすために手を伸ばした。
目が合わせられる。
硝子越しのその瞳は、瞭然たる好意をのせてリュクレスを見つめる。
手の届く近い距離に、その瞳に、リュクレスは勇気をもらい、自分からヴィルヘルムの首に腕を回して抱きついた。
丸々一人分の人間の重さを、軽々と受け止めて、男は何も言わずリュクレスの次の行動を待ってくれているようだった。
恋人の首筋に顔を隠し、恥ずかしくてまごつきながらも、リュクレスはちゃんと思いを彼に伝えようとする。
振り回されることに、困ってしまうのは上手く受け止めきれないから。
けれど、怒っているわけではない。与えられるだけの、一方的な感情ではないのだ。
リュクレスだって同じように、ヴィルヘルムを想っているのだから。
その言葉が、その想いが、嬉しくないはずない。
だから、拙いながらも、リュクレスの精一杯を言葉にする。
「…私も、嬉しいです。ヴィルヘルム様と一緒に居られること…」
囁きは故意ではなく、耳元にそっと吹き込まれた。
しばらくそのままで、ヴィルヘルムも動けない。
「…大好き、です」
反応のないヴィルヘルムに、不安になってリュクレスが顔を上げれば、そんなこと思う必要はなかったのだと安堵を誘うほど、珍しく照れた顔をした男がそこにいた。
お互い耳元で囁かれるのには弱いみたいだ。
意外だと思って、けれど何よりも。
伝わったのが、嬉しい。
真夏の暑さも、恋人たちには何の障害にもならないようだ。
さっきまで暑さでぐったりしていたはずなのに、リュクレスもヴィルヘルムの温度が嫌ではないから。
そんな二人の後ろで呆れたように。
馬がヒヒンッと嘶いた。




