1
「うぁ……今日もいい天気…」
太陽は燦々と照り輝いていた。
陽光はむっとするほどの熱を帯びて、降り注いでいる。
明るい空を仰ぎ、リュクレスは風を入れようと、部屋の窓を開けた。
…風がない。
気休め程度でもいいのにと、藍緑の眼が期待するものを探すように、中空を滑る。
今年の夏が暑いのか、それとも、アズラエンがノルドグレーンに比べて暑いのか。
特にここ数日は風すらなくて、げんなりするほどの猛暑が続く。
黒い森もざわりともせず、どうやら今日も涼しさとは無縁の一日になりそうだ。
「残念…」
肩を落として、外に張り出したバルコニーの手すりに両手を置いた。
じりじりと焼かれるような強い日差しを浴びながら、溶けて蒸発してしまいそうだと溜息をつく。
せめて日陰に戻ろうかと、身を引こうとしたリュクレスの耳に、低く穏やかな声が届いた。
柔らかく、名が呼ばれる。
惹かれるように、視線を下ろす。
そこにはとても大切な人が立っていた。
この暑さをまるで感じさせない涼やかなその人は、珍しく軍服に身を包んでいる。いや、彼の職業を思えば珍しいわけではないのだろうが、リュクレスがその姿を見るのは初めてだ。
それはまさに、彼のために誂えられた軍服のようだった。
髪の色に合わせたのだろう青紺色の詰襟、襟から前の合わせに沿って銀糸で繊細な刺繍が施されているのが離れていてもわかる。胸元を飾る多くの勲章。
細身ながら引き締まった体躯を、姿勢の良いその立ち姿を、その衣装がより一層際立たせる。
(わあ…綺麗……、か、格好良い…)
…リュクレスは頬を赤らめて、思わず見惚れてしまった。
縫い付けられたように離せない視線が、男が満足そうに笑みを深めたのを目の当たりにしてしまい、より一層、顔が火照る。
ヴィルヘルムの笑みはとても魅力的だ。
彼は、とても綺麗な青毛の馬を連れていた。
我に返り、慌ててバルコニーから身を乗り出すと、リュクレスは照れた顔をしながらも、屈託ない笑みでヴィルヘルムを出迎えた。
「ヴィルヘルム様、お帰りなさいっ!すぐ降りて行きますねっ」
そこにいて欲しいという言葉は口にしなくてもヴィルヘルムには伝わって、彼が柔らかく微笑んだ。
「転ばないでくださいね」
そう言われるのに頷きはするものの、彼の傍に早く行きたい気持ちが、リュクレスの行動を逸らせる。転ばないよう気をつけながらも、慌ただしくポーチに向かった。
こういう時、走れない足がもどかしい。
走るでなく、けれど歩くでなく、なんとか約束通り転ぶことなく彼の元までたどり着く。
見下ろす瞳は包むように優しく、リュクレスの行動を見守っていてくれたようだった。
リュクレスは、もう一度「お帰りなさい」と、繰り返す。
男が口元を緩めたのがわかった。
眼鏡の硝子越しに目が細められる。
手の届く所までたどり着いたリュクレスの髪を優しく撫でると、ヴィルヘルムは悪戯めいた光を瞳に閃かせた。
「ただ今帰りました。…でも、すぐに出ますよ?」
「え……あ、お仕事、忙しいんですか?」
思わず、眉は下がり、肩が落ちる。
お帰りなさいと今迎えたばかりなのに、すぐまたお別れなのかと思うと、見送らなければならないのが…とても寂しい。
けれど、それよりもなによりも。
とても忙しくしているヴィルヘルムはちゃんと休めているのかと、その身体が案じられてしまう。落胆よりも明らかに、純粋な心配を向けられて、ヴィルヘルムは仄かに嬉しそうな顔をした。
「仕事に出かけるのではありませんよ。…君も一緒に行くのですから」
「え…?」
意味が分からず、きょとんとするリュクレスの前で、彼は何か企むような顔をして身体を屈めた。リュクレスの背中と膝の後ろに腕を回し、浚うように抱き上げる。そして、何か言う間もなく、あの、綺麗な青毛の馬の背に乗せてしまった。
リュクレスは慌てて、手を彷徨わせた。横乗りの不安定な姿勢にどこか掴みたいが、どこを掴めばいいのか、さっぱりわからない。
(鬣を、掴んでもいいのかな?)
…でも、それが髪の毛を引っ張るようなものだったら、馬に怒られてしまいそうだ。
おろおろする娘にヴィルヘルムは安心させるように笑いかけ、自分も早々に馬上の人となる。そして、不安定なリュクレスの身体を引き寄せ、その背中をヴィルヘルムの胸元に寄りかからせた。
「力を抜いて前を向いていてくださいね」
姿勢が安定し、ほっとする。優しい声に不安はなくなったが、混乱は否めない。
なのに、さも初めから決まっていたことのように手際よく、着々と使用人たちの手によって準備が整えられてゆくから。リュクレスは馬上からそれをぽかんと見ているだけだった。
最後に、ソルにリュクレスが差し出されたのは、バスケット。
「はい。これ持って行ってください」
楽しんできてくださいねと、僅かばかりみせる優しい笑みに、釣られて笑うものの、
「えーっと?」
やはり、何がなんだかわからないままに、それを受け取る。
首を傾げるリュクレスに、後ろから低い声が耳元に囁きかけた。
「逢引、ですよ」
その意味を理解して、娘が顔を赤くする前に、ヴィルヘルムは手綱を捌く。
「相変わらず、あの子には子供っぽいことをする」
ゆっくりと走り出した青毛の馬を見送って、その場に残されたソルはやれやれと肩を竦めた。
冷静沈着を地で生きてきた主の明らかな変化に、呆れと如何許りかの喜びを込めて。




