幕間 微睡む狼
恩返し15話のリュクレス視点から始まる小話です。
目を開けたら、すぐ目の前に綺麗な顔があって、リュクレスは驚いて固まった。
柔らかな寝台の上、リュクレスを抱きしめるようにシーツの上から回された腕。
(な、な…な…?)
混乱する頭で、少しずつ寝る前のやりとりを思い出す。
王の代わりにやってくる将軍の仮眠に付き合うようになってそろそろ3ヶ月。慣れたわけでもないのに、その温度に安心してあっという間に眠ってしまう自分が恥ずかしい。
リュクレスは、止めていた息をゆるゆると吐き出した。
紗に覆われた寝台の中は薄暗いけれど、その身の近さに男の顔はしっかりと見て取れた。
シーツに広がる紺青の髪、意志の強い光を放つ灰色の眼差しは閉じられた瞼に隠されて、静かな寝顔は、男を少しだけ幼くみせる。
眼鏡が外された整った顔立ちを、まじまじと見つめる。
動揺は慣れない距離感に心臓を煽るが、これほど近くでヴィルヘルムの顔を真っ直ぐに見たことなんてないから、思わず観察してしまう。
初めて見たこときから、本当に綺麗な顔をしていると思った。
すっきりとした精悍な顔立ちは秀麗で、軍人なのに男臭い感じはしない。灰色の瞳が見えないだけで、彼の冷然とした硬質さが削ぎ落とされる。近くにいると感じる緊張感がないからか、今は隔たりを感じさせなかった。
作り物めいた穏やかさも、冷笑も張り付いていない将軍の素の表情に、リュクレスは思わず見入りながら、顔を曇らせた。
疲れているのだろうと思う。
人の気配に敏い人だ。リュクレスが目を覚まして彼の瞳が閉じられていたことは、今まで一度たりともなかった。少しの身動ぎでも、彼は目を覚ました。
なのに、その目は閉じられたまま、覚醒は遠い。
少しだけ、眉間に皺が寄った。
将軍という立場。
戦いがあれば戦場に身を置き、王宮にあっても多くの問題と戦っているこの人は、眠りの中でさえも平穏な静けさとは無縁なのだろうか
…せめて夢の中くらい安穏とした優しい世界であればいいのに。
そっと彼の肩に手を伸ばす。
とんとんと…なだめるような優しいリズムで肩に触れる。
口をついて出たのは、子守唄。
覚えたというより、心に刻まれた調べだった。
母に寝かしつけられた時のように、修道院で子供たちに歌った時のように。
囁くように歌を口ずさむ。
冬狼に、眠りの中だけでもヴィルヘルムが安らかに穏やかに過ごせることを願う。
たくさんのものを背負った人に、リュクレスはただ祈ることしかできないけれど。
厳しいことを言う割に、将軍は優しい人だから。
子供の頃から、修道院に育つリュクレスには、男女の機微などよくわからない。けれど、愛人役というものを、初めにヴィルヘルムが望んだものとは違う形で、リュクレスに与えていることはなんとなくわかった。触れることも、抱きしめることがあっても、それは子供へ与えられるような穏やかなもので。
将軍はリュクレスを傷つけないように大切に扱ってくれている。その優しさに、どう報いればいいのだろう。
どうか、どうか、冬狼様。この国の守護狼よ。
将軍様を守ってください。
戦場に赴き、多くの危険と責任を背負うこの人を。
リュクレスは歌いながら願う。
多くは望まない。願うのは、それだけ。
灰色の瞳が、うっすらと開かれる。
飲まれるような、静謐な瞳に、息を飲む。
「…まるで、子供相手だな」
掠れた男の声に、何かが壊れゆくような危うさを感じて、リュクレスは逃げ出すように彼から離れた。
…考えてみれば、あの時既にヴィルヘルムへの恋心は芽生えていたのだろうか。
涼しい秋風が開けっ放しの窓から入り込む。
日が傾き始め、風は冷たさを増すから、窓を閉めに行きたいものの…動けない。
彼女の膝の上に頭を預け、ヴィルヘルムが眠っているからだ。
ソファの背もたれが風よけになり、直接彼に当たることはないだろう。だが、眠っている彼には少し肌寒く感じてはいないだろうか。
珍しく寝入ってしまったヴィルヘルムを起こしたくなくて、リュクレスは少し困ってしまう。とりあえずはと、自分の使っていたショールを外し、ヴィルヘルムに掛けた。
あの時と違い、ヴィルヘルムの表情は穏やかなものだ。それが、彼の言うようにリュクレスが傍にいることで与えられる安寧ならば、嬉しい。
そっと、そのさらさらな髪を撫でる。男の人の割に、どこもかしこもなんだか繊細な雰囲気を纏うヴィルヘルムに、リュクレスはいつも見蕩れて、繰り返し恋に落ちる。
微笑まれて、抱きしめられると、胸が壊れそうになる。
今も、こんなふうに信頼を預けてくれるから、リュクレスは胸がいっぱいになって、悲しくもないのに涙が溢れそうになる。
それは、とても純粋で、狂おしいほど愛おしい感情。
どうか夢の中では穏やかにと、優しい眠りを守りたいと願い、
あの時のように、囁かに歌声で紡ぐのは子守歌。
狼と花と蝶の物語。
平和を祈る優しい唄。
穏やかなこの時間を、リュクレスは宝物のように大切に過ごす。
風が、そんなリュクレスの頬を撫でて、通り過ぎていった。




