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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
6/242

5

スヴェライエの周囲に広がる黒い森は昼間でもなお暗い。

密集する木々は木漏れ日すら遮り、湖が近い故に森を覆う霧は苔生す土壌となった。

黒にも近い深緑葉は光を求めて高く背を伸ばす。

梟の鳴く奥深い森をゆくと、鬱蒼とした木立が不自然に開け、唐突に小さな庭を持つ屋敷が現れる。

ポツンと建つその屋敷は、こぢんまりとしているがシンメトリの美しい装飾に、曲線を多用したどこか柔らかい印象の、美しい建築であった。整えられた庭は、朴訥とした野の花や生垣が上手く組み合され、どこか親しみも持てる可愛らしい造りになっている。

王家の所有地である黒い森の中に、隠されたように立つその屋敷が、どのような用途を持って建てられたのかは、想像に難くない。


人気のない屋敷の一階、その一部屋に、小さく明かりが灯される。

その光は窓の外に零れ、ゆらゆらと揺らめいた。

明るくなった豪華な応接間で、所在無げに立ち尽くすのは小柄な少女だった。

光に当たれば栗色にも見える淡い黒髪に、灯されたランプの光を見つめるのは藍緑色アクアマリンの瞳。まるで透き通る水面のような珍しい色合いだ。身に着けている物は質素な長袖の付いた長衣のトゥニカ。

踝までの長いそれは修道女の衣装であるが、フードを付けていない場合、修道女ではなく大抵は修道院にいる孤児であることが多い。

少女も御多分に漏れず同様の境遇にあった。

リュクレス・ルウェリントン子爵令嬢、名ばかりの貴族である。

先ほどまでは似合いもしない華美なドレスを纏っていたが、こちらが彼女のバックヤードを知っていると知るや否や、今の服に着替えてしまった。

「いつ汚してしまうかと思うと、落ち着けないので…」

情けない顔をしてそう小さくなった少女は、酷く幼く見える。 

まだ、12、3歳と言われれば納得もしよう。

小柄な身長、痩せた薄い身体。

四肢は細く、全体に子どものような体つきをしている。

そして、そのあどけない表情も、じっと見つめる大きな瞳も子供のような可愛らしさを持っていた。

だからこそ、栄養不足の痩せすぎたその姿がかえって痛ましい。

幼げな少女は今年で16歳だという。

自分で調べてきた情報であるものの、ソルは少女を目の前にしてそれを信じるのは些か難しいように思った。

「あ、の。何か、ありましたか?えっと、お手伝いとか…」

無意識に注視していたらしい。少女はソルの視線に、用があると勘違いしたようだった。

目を伏せて首を振る。

「特に貴女にしていただくことはありません。こちらで座ってお待ちください」

手にしていたランプを掛け金に引っ掛けると部屋の中で明かりが大きく揺れた。

長く使用していなかった屋敷には照明器具も最小限しか準備されていない。

それでも、四方に掛けられたランプは、思いのほか明るく室内を照らし出した。

着替えに隣室を借りて以降、この部屋で居心地悪そうに立ち尽している少女は、ソファに座ることも遠慮しているようだった。

孤児として育った娘にとって、貴族の家の調度品がどのように映るかは、ソルにもわからないわけではない。

これ以上ただ立ち尽くさせておく方が可哀相か。

ソルはそう諦め、ため息をついた。

少しお待ちくださいと言い置いて、持ってきたのは木製の作業椅子。侍女たちの使うものだが、これなら抵抗なく座れるだろう。

どうぞと勧めれば、大きな目で椅子とソルの顔を交互に見て、それからリュクレスは、はにかむ様に笑った。

その柔らかい笑顔に、一拍言葉を飲む。

「ありがとうございます」

警戒心のないその表情に、絆されそうになる。

何がきっかけだったのか、まだ緊張しているのは変わらないが、どうやらこの娘は自分に懐いているような気配がある。

ちょこんと、椅子に腰かける姿を見て、彼女の頭を撫でそうな自分に、ソルはらしくもなく顔を赤く染める。褐色の色の肌がそれを隠してくれたおかげで、どうにか少女には気づかれずに済んだようだ。

「まだ主人がみえるには時間があります。何かなされたいことはありますか?…お帰りになることはできませんが、ここで出来ることでしたら何かしらご用意いたしますが」

その言葉に、少女は少しだけ考えるような顔をして、思いついたように顔を上げる。

「あの!あれば、本を読んでみたいですっ」

ソルは、意表をつかれて聞き返した。

「本ですか?」

「はい!あまり読み書きは得意じゃないんで、簡単なものしか読めないですけど。汚さないように扱いは十分気をつけます。……え、えっと…駄目でしたか?」

駄目なわけではなく、ただ単に、文字を読めることに驚いたのだ。

「あのっ、駄目ならいいんです。すみません、我儘言いました」

だが、短い沈黙に、リュクレスは言葉を取り消そうと、恐縮したように謝罪を口にする。

「いえ…我儘といほどの事ではないと思いますが。少しお待ちください、いくつかお持ちしましょう」

申し訳なさそうにしている娘に、ソルが誤解を解くように否定の言葉を伝えれば、さらに遠慮がちに言葉が返った。

「えっと…はい。あの、1冊でいいですよ?」

「ふむ」

ソルはしばし考え込むように顎に手を当てた。

市井ではあまり本はありふれていない。

吟遊詩人の歌や、旅の劇団が物語を口伝で紡いでいくことが多いからだ。

王の施策で活版印刷の普及や教育に力は入れられているものの、書籍と言う媒体自体が少ないのだ。触れる機会を持たない者たちも少なくはない。識字率の低い中でリュクレスが読めること自体驚いたのにはそういう背景もあったのだが。

本人の言うとおり、難しい本は求めていないだろうが、この屋敷に物語を綴ったようなものが果たしてあっただろうか?

専門書の多い書棚を思い出しながら、ソルは言った。

「貴女の期待するような本があるかはわかりませんが、少し探してまいります」

「あの…一緒に行っては駄目ですか?」

思わず口をついて出た言葉に、驚いたのはソルよりも言った本人だったようだ。狼狽えたように視線を彷徨わせ、結局、リュクレスはソルを見上げる。

「その…本が並んでいるところを見たいなぁ…なんて」

消えそうな声は遠慮がちにそう言って、けれど隠しきれない好奇心が瞳に閃いている。

ソルは疑問をそのまま尋ねることにした。

「貴女は本を読むのが好きなのですか?」

「…施しの際に時々本を頂く事があって。そういうものを下の子たちに聞かせているうちに何となく…好きになっていました」

施しとは高貴なる者が義務として、教会などへの寄進とともに、孤児や貧しい者たちへその恩恵を与える行為だ。だが実際には、定期的に彼らの使い古しがお下がりとして与えられていることが殆どで、貴族たちの愉悦と自尊心を満足させるための行為としか、ソルには思えない。恩恵と言えば聞こえが良いが、受け取る側を卑屈にさせる「恵んでもらう」という行為自体が屈辱的に思えて、あまり気持ちの良い慣習ではないと考えていた。だが、素直に喜ばれ受け取られる恩恵もあるのだと初めて知る。

そして、目の前にいる娘は、控えめだが、卑屈には見えなかった。

与えられたものをどう受け止めるのか、自尊心の在り方は人それぞれなのかもしれないとソルが思ったのは、子供のように見える娘の強さをその真っ直ぐな瞳に見つけたからだ。

「なるほど。…童話や物語がこの屋敷にあるとは限りませんから、貴女自身が探したほうが早いかもしれませんね。どうぞ、こちらに」

ソルはそう言って、書斎へと少女を誘った。

しばらく娘は、この屋敷に監禁状態になる。何処にどの部屋があるかを知らせていても問題はないと判断した。逃げようにも周りを囲む鬱蒼とした森は、王家に保護され狩猟も禁止された獣の棲み処である。娘一人でこの屋敷から逃げ出すことは不可能だ。屋敷の中ぐらい自由でもよいだろう。



「うわぁ…壁一面の本棚だぁ」

感嘆の声を上げ、リュクレスは背の高さよりも高い書棚を眺めていた。

それ程広くはない室内、書棚と執務机と小さめのソファが置かれただけの簡素な書斎。

確かに本の数は少なくはないが、彼女に読めそうなものなど、大してないに違いない。

政治や法律など面白みのない表題が並ぶ。それでも、少女は興味深そうにひとつずつ題名を確かめていた。そうして一通り眺め終えたのちに一冊の本を取り出す。

「気になる本はありましたか?」

「えっと、はい!」

にっこりと笑顔で差し出された表紙。どうみても絵物語の類ではない、それは。

「植物図鑑…ですか?」

彼女が選んで手にしているのは、植物や、造園の方法などが載った園丁が使う資料であった。

「…ここのお庭が素敵だったから」

そう答えて、少女は穏やかな眼差しでソルを見上げた。

「ソル様、お気遣いありがとうございます」

律儀なほど丁寧にお辞儀をして、それから表情を改める。

「…監視の意味だってわかっているけど、ソル様がいてくれるから心細くないんです。だから、もうこれ以上私に気を遣わなくても大丈夫ですよ?逃げたりもしません。あの部屋で大人しく読書していますね」

柔らかい声が伝えるのは、リュクレスが正確に自分の置かれた状況を理解しているということ。何も言わなくても、男が側にいる理由を、リュクレスは気付いていた。そして…ソルの罪悪感は彼女に伝わっていたらしい。

それでも、彼女は誠実な瞳で、ソルに感謝を返す。

主の影として諜報など比較的人とは付き合わない仕事が多かったソルにしては珍しい人相手の仕事。だが、それ程わかりやすく対応したつもりもないし、話も最低限にしているにもかかわらず。

応接間に戻る少女の後ろ姿はほんの子供なのに。中身はどれほどに成熟しているのだろう。

人の機微を読む能力に酷く長けているのは、それだけ相手を読まなければいけない環境にあったということなのだろうか。

不安を抱えながらも、逃げることはなく、彼女はこの状況を受け止めている。

流されていないと感じるのは、立ち向かって見えるのは、目を泳がすことはあっても、最後には必ず真っすぐに見返す、その逸らされない瞳のせいだ。

おどおどと頼りないかと思えば、しっかりしている面を見せる。幼げな風貌なのに、見せる表情は時々大人びて。一貫してない様に思えるのはその容姿に惑わされているせいかもしれない。だが、短い接触であっても、彼女が悪い娘でないことは分かる。

浅黒い肌、黒い眼と髪。異邦の民と一目で分かるこの容姿に初めから驚きも侮蔑や怯えも見せず、正面から礼を言う娘。

ソルは、重たいため息を漏らした。



こんなことに巻き込むには、―――彼女は善良すぎる。




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