15
ノックをして扉を開くと、ふわりと柔らかい匂いがした。
ヴィルヘルムは部屋の入り口で足を止める。
王妃の香水とは異なる、自然な…花の匂い?
ラグの上に座るリュクレスは少し赤い目をしている。
王妃との別れを惜しんで涙したのだろうか。
気がつかないふりをして、リュクレスに近づいた。
「どうでした?王妃様とのおしゃべりは楽しかったですか?」
「はい、とても。いっぱい、お話を聞いてもらっちゃいました」
娘は照れたように、頬を染める。
王妃と会えたことはリュクレスにとって嬉しいことだったか。
二人の面会を妨げていたヴィルヘルムとしては少々苦い思いをする。
「おや、そんなに話したいことがあったのなら、私も聞きますよ?」
「ダメです。女の子同士の秘密ですから」
「そうですか、それは残念」
王妃の気持ちもわかるかも知れない。
ヴィルヘルムは僅かに笑みをこぼす。
王女として、そして王妃として、そうあれと望まれる中で、唯一ただの女の子と言い切るリュクレスは『王妃』と彼女を呼んでいようとも、ひとりの人間として相手を見るから。ただひとり、ルクレツィアをルクレツィアとして望む友人を傍に置きたいと願う気持ちを否定はできない。
…香りが強くなった。
ふと寝台をみると、籠が置かれその中に小さな小袋が幾つも積まれている。
「あ、そうだ。さっき出来上がったんですよ。王妃様にも王様の分と一緒に渡したんですけど…」
ヴィルヘルムの視線に気がついて、リュクレスは言いながらゆっくりと立ち上がると、足を引きずって寝台に寄る。そして、小袋をひとつ手に取ると、笑顔でヴィルヘルムに差し出した。
「ヴィルヘルム様も、受け取ってもらえますか?この間のポプリです」
「…ああ、完成したんですね」
すっきりとした、柔らかい匂い。
「良い匂いですね」
「気に入ってもらえたなら良かったです。お仕事上あまり匂いのあるものはダメかなって思ったんですけど…そんなに強くないから、身につけていなければ匂いはつかないはずなので」
「ありがとうございます。寝室にでも置きましょう。睡眠効果もあるのでしたよね?」
「はい!」
そう伝えれば、「覚えていてくれたんですね」と、久々に無邪気な笑みを見せる。
王妃との会話が、少しでも気分転換になったのなら、良かったと思う。
「…そうだ、これを」
ゆるりと微笑んで、それから思い出したように、ヴィルヘルムはポケットから小箱を取り出した。
リュクレスは差し出されたそれをまじまじと見つめる。
「なんですか?」
「見れば分かります。どうぞ、開けてみてください」
手渡された小箱とヴィルヘルムの顔を交互に見つめて、リュクレスはおすおずと、蓋を開けた。
収められていたのは、ペンダントだった。
硝子細工に閉じ込められた黄色い花。
「これって、もしかして…」
「ええ、君が知りたがっていた花です。タンポポと言うそうですよ。残念ながら、時期は終わってしまったそうなので生花は見せることは出来ませんが、それで許してもらえますか?」
驚きに潤む瞳でヴィルヘルムを見上げて、リュクレスは声を詰まらせた。
「……許すなんて、そんな…あ、りがとうございます」
感謝を伝えようとして、感極まって声が震える。
明るい黄色、花弁の多い、それは小さな太陽のような可愛らしい花だった。
じっと見入ってしまったリュクレスは、愛おしげにその硝子に触れようとし、…無意識の行動にはっとして慌てたように箱を閉じた。
小箱をヴィルヘルムに返すと、彼は困ったように箱を見つめた。
一度ローテーブルの上に箱を置くと、リュクレスをラグではなく、ソファへ導いて座らせる。ヴィルヘルムもその隣に座りながら、もう一度箱を手に取った。穏やかながら、どこか真剣な表情でペンダントを取り出すと、リュクレスに近づき、器用な手つきで彼女の首にペンダントを付ける。
その距離のまま、リュクレスの瞳を覗き込み微笑んだ。
「君に差し上げます。…というより、君にと貰ってきたので、受け取ってもらえないと私が情けないことになる。私のためにも、受け取ってください」
少しだけ困ったような柔らかい笑みと、銀灰の瞳の凪いだ静けさに…堰を切ったようにこみ上げたのは、愛おしさ。
リュクレスは手を伸ばしたいと、思った。
触れたいと、奥から溢れ出す感情に胸が締め付けられて、息をすることさえ苦しくなる。
…隣に居たいと望んでも、いいのだろうか。
視線を胸元に落とす。願いを込めるように指で触れる。
胸に飾られた、たんぽぽのように、そっと彼の傍に居たい。
…願ってもいいだろうか。
ルクレツィアの言うように、伝えてもいいのだろうか。
傍に居ることが幸せで、ヴィルヘルムが笑ってくれることが嬉しいのだと。
礼拝堂のあの陽だまりの冬狼が、勇気をくれる気がした。
自分が幸せになる努力を、自分の想いがヴィルヘルムを幸せにできるように。
祈るような気持ちで、息を飲み込む。
響く心臓の音に揺られながら、ゆっくりと息を吸い込む。
そして、顔を上げた。灰色の瞳が自分を映すのに支えられて。
柔らかく膨らんだ想いを、そっと声に乗せた。
「ヴィルヘルム様が、好きです」




