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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
戀―いとし、いとしという心―
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13



堂々とした壮麗な聖堂を眺めやり、ヴィルヘルムは何とも皮肉そうな表情で大きな扉を開いた。王城の中で最も縁のない場所に、自ら来ようと思ったのは初めてのことだ。

実際、最近では王の婚礼の際に入ったのが最後だろうか。

扉の中は静謐な空気に満たされていた。

静粛かつ荘厳なる聖堂の身廊はステンドグラスの光が降り注ぎ、中央の祭壇は金と銀の浮彫で絢爛な装飾が施されている。

その中央に飾られた一枚絵には、四足で立ち、尻尾を揺らした紺青の美しい狼がこちらを見下ろしていた。

白い雪の中の世界で、狼は峻烈な雰囲気を纏い、灰色の瞳は毅然と輝いている。


この国を守る、戦神。


ヴィルヘルムは無意識に耳のカフスに触れた。彼にだけ許されたその紋章。

白銀のカフスには狼のシルエットが刻まれている。

神を信じない男がその名を頂くその矛盾を、ヴィルヘルムはあまり気にしたことがない。だが、冬狼将軍という名が、冬狼を信仰するあの娘にとって、ヴィルヘルムへの思慕に繋がるのであれば、それは本当に皮肉でしかないと思う。

彼女の語る神は、微睡みに沈む穏やかな狼であり、ヴィルヘルムの知るこの雄々しい狼とは、まるで違うもののようだった。

祭壇に向かい歩き出すと、大理石の白い床がコツコツと足音を響かせて聖堂内に反響する。

その音に気がついたのだろう白い祭服を纏った初老の男性が、中の扉から姿を見せた。

「おや珍しい方がいらっしゃいましたね。オルヴィスタム卿、今日はどうされました?」

目を丸くしながらも、彼はおっとりと微笑みヴィルヘルムを歓迎した。

オルフェルノ王国最高位の大司教とは思えない物腰の柔らかさと温厚さは昔から変わらない。貼り付けたヴィルヘルムの穏やかさとは異なり、彼の穏やかさは本物だ。

付き合いは長く、少年時代から知られている相手なため、ヴィルヘルムは若干、苦手意識が否めない。

「…少し調べたいことがありまして。資料室をお借りしても?」

驚きながらも、とても嬉しそうに中へと促す大司教は、資料室と、繰り返してから、

「構いませんが、…私で良ければお力になりましょうか?」

そう言って、協力を申し出た。

ヴィルヘルムの信仰心が皆無であることも、教義について一般的な程度しか知識をもたないことも知っているのはもちろんこと、彼の多忙さを理解していての科白だと分かる。

基本的にこの大司教は親切だから。

ヴィルヘルムは少し考えて、口を開く。

「冬狼の最後の場面、眠る丘の、草原に咲く黄色い花の名を御存じだろうか?」

真面目な顔で質問を待っていた大司教は、その言葉に驚いたようにヴィルヘルムを見つめ、それから、ゆっくりと微笑んだ。

「おや」

微笑ましそうな目で見つめられ、ヴィルヘルムは非常に居心地が悪い。

「…なにか?」

表情は崩さず、さも不思議そうに言ってはみるが、年の功には勝てないようだ。

案の定、彼は笑みを深くしただけだった。

「いえ、何。貴方が、花に興味を持たれるとは、青天の霹靂、のように思いまして。…いや失礼」

「いいえ、私自身そう思わないでもないですから」

ここまでくれば、ヴィルヘルムも隠すのをやめ、苦笑した。

徒らにからかうこともなく大司教は講壇から経典を持ってくると、ヴィルヘルムの前で広げてみせた。草原に伏せる一匹の狼。それは神の威厳よりも慈愛を感じさせる挿絵だった。

「多分、貴方の知りたいと言われた花はタンポポのことでしょう。冬狼に寄り添うのは桃色のカタバミ、黄色いタンポポ、そして空を舞う春蝶です」

大司教は一つずつ指で指し示しながら、丁寧に説明する。糸の様に細い目をさらに細めた。

「タンポポの在来種は春の短い時期にしかも、アズラエン領にしか咲きません」

…既に季節は夏を迎えている。

「では今の時期咲いているものを見つけるのは無理でしょうか」

残念そうに、大司教は首を振った。

「さすがに無理でしょうな。…ですが、花を求めるなど、本当に珍しいこともあるものですね」

不思議そうに見つめる父親のようなその聖職者に、ヴィルヘルムは笑ってみせた。

「その花を、見せてあげたい娘がいるのです」

とげのない穏やかな笑みは、作り物ではないものだ。

その表情に感じるものがあったのか、司教は大らかに尋ねる。

「貴方の大切な方ですね?」

「…そうですね。とても、大切に想っています。けれど、それを伝えることが難しい。こうやって小さな願いを叶えることくらいしか私には出来ません」

笑ってほしいのですけどね、と緩く苦笑するのは、年相応の顔をした青年だった。

冷徹に、国を守る将軍はそこにはいない。

それが、大司教にはとても好ましく思えた。

少しお待ちください、そう言って、大司教は聖堂の奥の扉へと入ってゆく。戻って来たときには黒にも紛う濃紫色の小さな箱を掌に載せていた。

「こちらをその娘さんに」

「…これは?」

司教は箱を開けると、ヴィルヘルムへ渡した。

それは、硝子に閉じ込められた黄色い花のペンダントだった。

「タンポポの花をそのまま閉じ込めた硝子玉です。生花は見せることが出来ませんが、こちらならいつでも花を見ることが出来ましょう。どうぞ、差し上げます」

「しかし」

遠慮を見せるヴィルヘルムに、司教は懐かしそうな顔で照れ笑いを浮かべた。

「これは私の私物です。何、市で買えるような代物ですよ。昔、自分の娘にと買ったのですが…恥ずかしながら、照れてしまって私には渡すことが出来なかったのです。私の元で仕舞われているよりは、その娘さんが持つ方が役立ちそうだ」

「ご自分の娘さんにはよろしいのですか?」

「ふふ。もう、彼女はいい年のおばさんですよ。欲しがりはしますまい。どうぞ、遠慮せず受け取ってください」

昔の彼はもう少し、厳格であったと聞く。今の穏やかさを得るまでに、伝えることを伝えられず、彼も失敗を繰り返してきたのだろうか?

きらりと光る硝子の中で咲く黄色い花を見つめ、ヴィルヘルムは無性に娘に逢いたくなる。

今度こそ、笑ってくれるだろうか。

ヴィルヘルムにも伝えられていない言葉がある。

伝えずに、後悔はしたくない。

大司教の厚意に甘えることにして、ヴィルヘルムは頭を下げた。

「…ありがとうございます」

「いいえ、喜んでくれると良いですね」

「ええ」


縛り付けたいわけじゃない。


だから。


この黄色い花が、あの娘との絆を結んでくれることを。

ヴィルヘルムは心から願った。






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