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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
戀―いとし、いとしという心―
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9

ヒュリティアから、すぐに離宮へ帰るわけではないらしい。

離宮までヤンを往診に来させていたヴィルヘルムが、わざわざヒュリティアの彼の医院まで出向いた理由は分からないが、他に用事のついでなのだろうか。リュクレスも連れて来るということは今までになかったことだから少し不思議ではあるが。

初めてやって来たヒュリティアをもの珍しそうに見回して笑われたのは、行きの馬車の中でのことだった。

離宮から黒い森を抜け、しばらく道なりに行けば、道は段々と広くなり、石畳となって城壁の門を迎える。森を抜けるのと同じくらいの時間で街道はヒュリティアの玄関まで辿り着くから、リュクレスは本当に王都が近かったのだとしみじみと実感する。

街の玄関である城門を抜ければ、大通りが一本真っすぐに伸びていた。城壁都市であるヒュリティアの中は細々としており、王都という割に雑多な雰囲気を持っている。

大通り以外は細い路地で、建物は立ち並び、積み重なるように上へ上へと伸びていた。

城壁内の狭い土地を生かすための工夫なのだろう。

ノルドグレーンは周囲を囲う山岳地帯が自然の要害となるから、城壁都市はない。壁の中に逃げるのではなく、森の中に逃げ込む。囲いが無い分、街中の道も広く、建物も高いものは少なかった。同じ街でもこれほど違うのかとリュクレスは新鮮な気持ちで街の中を見回していた。

そのヒュリティアを出てしまえば、牧歌的ですらある周囲の景色はどこも似たり寄ったりに見えてしまい、リュクレスには相変わらず向かう先がわからない。

黒い森が近くに見えるから、それほど離宮から離れて行っているわけではなさそうだ。

「…どこかに行くんですか?」

離宮に戻っているわけではないと、確信を持ってからリュクレスは尋ねた。

小刻みな蹄の音と石畳の上を車輪が走る音がのんびりと聞こえる。

ヴィルヘルムは含みのある笑みを浮かべて、人差し指を一本立て、そっと唇に押し当てた。

「着いてからのお楽しみです」

そう言って、馬車のカーテンを閉じてしまう。

日差しを塞がれた薄暗い馬車の中は、まるで。

ふっと、ヴィルヘルムが微かに笑った。

リュクレスは思考を遮られ、首を傾げる。

「まるで、あの寝台の中みたいですね」

青い天蓋、覆い隠す紗の中、リュクレスの住まう寝室のそれ。

ああと、リュクレスもほんのりと笑う。

「同じことを、考えていました」

あそこよりも少し暗いから、表情は上手く読み取れないけれど、ヴィルヘルムの視線は感じることができる。

そうして、気付いた。

馬車に乗ってから一度たりとも、ヴィルヘルムはリュクレスから視線を外そうとしない。

どきりと胸が鳴った。

穏やかな瞳はいつの頃からか、冷たさが薄らいだ。初対面の時にはあれほど冷ややかに見つめてきた瞳が、今は、柔らかい温度をまとって見つめてくるから、リュクレスの心臓は落ち着かない。

だから、この薄闇が、瞳の中の光さえ隠すことに無意識に安堵して。

「眠ってしまわないでくださいね。君は転がり落ちてしまいそうだから」

「ね、寝ませんっ」

からかうような口調に、リュクレスは少し拗ねたように顔をそむけた。


早鐘を打つ胸、赤くなる顔が熱い。

泣きそうなこの想いの意味が、リュクレスにはまだわからない。

幼い頃から、冬狼将軍に対するこの憧憬と思慕は柔らかく、リュクレスを暖かくしたのに。

今も尊敬と、慕う想いは変わらないのに。

傍に居ると、嬉しいのに胸が締め付けられて、苦しい。


「そろそろ、着きますよ」

馬の歩みが遅くなり、ゆったりと速度を落として馬車は止まった。

取っ手を引き下げる音がして、ヴィルヘルム自ら扉を押し開ける。

先に外に降り立つと、紳士然とした優雅な所作でリュクレスに手を差し伸べる。

「さあ、どうぞ?」

気付かないわけはないのに、リュクレスの躊躇う指先をヴィルヘルムは思わぬ強引さで捕らえ、半ば引っ張るように馬車の外へと誘う。見つめる瞳に操られるように、ゆっくりと馬車を降りた。

水の匂いがする。

ヴィルヘルムが視界を遮る自分の身体を彼女の横へと移動させる。

その手は繋いだまま、彼はとても優しい声で囁いた。

「約束を、したでしょう?」

リュクレスは声もなく、目を見張った。


眼前に広がるのは、大きな鏡の様な湖面。

凪いだ風は波紋すら起こさない。


「王城スヴェライエです」


そこには、空が落ちていた。


青く深い、鮮やかな蒼天。

白い雲は何の濁りもなく。

透明な湖の中に空が閉じ込められたかのような、騙し絵の様な現実感のないその世界。

空に浮かぶように石造りの城がその堅牢な姿を湛える。

完璧すぎる世界で、武骨な城のその不器用さが愛おしい。


想像していた以上にその光景は美しくて。


隣に立つヴィルヘルムは、今までのぎこちなさを忘れてしまうくらい、

…本当に綺麗に微笑むから。

泣きそうになるくらいに、胸が痛んだ。

瞬きも出来ない瞳から、零れ落ちたのは、涙と感情。

それはリュクレスをどん底に叩き落とす、甘く苦い想い。

……気が付かなければ、良かった。

気がついてはいけなかった。

(私、ヴィルヘルム様が、好き、なんだ)

足元が崩れてゆく、不安定な崩壊の中でリュクレスは自分の思いを自覚する。

手の届かない人に恋をするなんて。

あの温かい腕を、優しい灰色の瞳を独り占めしたいなんて。

(なんて愚かな独占欲、なんだろう…)

与えられた温もりに、しがみ付こうとしている自分が情けない。

きっと、手を振り解かれることはない。

彼は優しい人だから。

リュクレスを傷つけてしまったと、後悔をしているから。

守ると約束をしてしまったから。

彼に愛する人が出来ても、願えば、きっと傍に居てくれる。

一人で立てるようになるまで、何時まででも甘えさせてくれる。

強い人だから、きっと支えてくれようとする。

(わかっていて、甘えてた)

…自分はずるい。

驚いた顔で見つめるヴィルヘルムに、リュクレスは笑おうとした。

それは酷く歪で、滑稽なもので。

伸ばされようとする手を、一歩下がって避ける。引きずる足が、思った以上に動かない。

「…何故、泣くんです?」

その言葉に初めて自分が泣いていると知る。

戸惑う声は少し悲しそうに聞こえた。

ただ喜ばせようと、約束を守ろうとしてくれるそんな優しい人に、なんて顔させるんだろう。

濡れた頬に触れて、自分への情けなさに呆れる。

(すき、なんて…)

なのに。

罪悪感につけ込んで、この上彼を傷つける気なのか。

それが自分であるならば、なおのこと許せない。

「あまりに、綺麗で…綺麗すぎて…だから、大丈夫です」

もう一つ涙が頬を伝う。

(はやく、はやく、離れないと)

強烈な焦りが生まれる。

引きちぎられそうな自分の心より、ヴィルヘルムを傷つけることの方が何倍も嫌だ。

これ以上、傍に居られない。

この景色よりも何よりも、男の微笑みが綺麗で、約束を大切にしてくれるその想いが優しくて、愛おしくて。

リュクレスは無造作に手の甲で涙を拭いた。

心配性のこの人に、今度こそちゃんと笑顔を返そう。

「ヴィルヘルム様。連れてきてくれて、この景色を見せてくれて。…約束を叶えてくれて、ありがとうございます」

嬉しいと思ったのは本当だから、感謝を笑みに替える。

リュクレスは深々と頭を下げた。


ヴィルヘルムは、父親の様にリュクレスを縛ることはないだろう。

リュクレスが言えば、懐かしいあの場所に、帰る事を許されるはずだ。

帰りたいと望みさえすれば、リュクレスは本来の居場所に戻ることが出来る。

…いや、戻らなければいけない。

こんな自分勝手な感情は、箱の中に仕舞って深く深くに沈めてしまおう。

絶対に大好きなこの人に、気が付かれてはいけないから。




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