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蒲公英と冬狼  作者: 雨宮とうり(旧雨宮うり)
一部  恩返し
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4



朝靄に白く沈む街は、まだ眠りの中にある。

明け方の凍える静けさに、遠く馬の蹄の音が響いた。

雪に覆われた白い街道を、漆黒の鬣を靡かせ馬煙を立てながら駆け抜ける一騎の馬影。

手入れされた毛並みが美しい、黒い光沢のある青毛の馬であった。

均整のとれた馬体から立ちのぼる白い湯気が霧に溶ける。その馬上にはフードを深く被った黒衣の男の姿があった。

男は速度を落とすことなく、巧みに手綱を捌き、その馬首を黒い森へと向ける。霧霞のその先には、そそり立つ建物が浮かび上がっていたが、まだ夜が明けきらぬ薄闇と相まってそれは重たいシルエットを知らせるだけだった。

近づくほどに濃くなっていくのは、風に混じる水辺独特の匂い。

空気に氷の結晶が舞い始めた。

それは馬を走らせる男の周りを踊るように揺らめいては、悪戯にその外套を掠めてゆく。

眼前が開け、黒い森に囲まれた湖が全景を現すと、ほぼ同時に明るい陽光が差し込んだ。

暁だ。

細氷が白い朝日を乱反射し、その堅牢なる石の建物を照らし出す。


周囲を囲む6つの塔、そして、それを繋ぐ堅固な城壁。

湖上の要塞、王城スヴェライエ。


武骨な石造りの城塞を囲む湖の上を一本の石で出来たアーチ橋だけが城と湖岸を結んでいる。夏であれば鏡のように城を写し取る湖は、今は氷に覆われて、その上に積もる雪がまるで雪原のように広がっていた。

騎馬は湖岸から石橋の上を走り抜け、城門前まで辿り着くとようやく速度を落とした。

馬上の男は馬の足が止まるのも待たず、身軽な動作で馬を下りる。

ともすれば乱暴ですらある行動だが、流れるような動作がそう感じさせない。外套のフードを下ろす仕草も、一見すると雑なようでありながら洗練されていた。フードの下から現れたのは珍しい黒にも近い紺青の髪。灰色の瞳が浮かべる隙のない光は眼鏡の硝子越しに上手に隠され、口元に浮かぶ笑みが温厚な雰囲気を作り出す。端正な顔立ちと、長身のすらりとした体躯。黒一色に見えていた外套も青いシルクの刺繍が施されており、身形からしてその出自が貴族階級であると知れる。

右耳の銀のカフスに刻まれた守護狼の紋章。

その紋章を身に付けることを唯一王から許された者を知らないものは、この国には居ない。

労るように馬の鼻先を何度か撫で、短く嘶きで答える愛馬の手綱を引き、入城する。

ゆっくりとした歩調で門を潜る男に、衛兵は敬礼し言葉もなく脇に退いた。

雪を踏みしめる、足音だけが響く。

芯まで凍えそうな、オルフェルノ王国の冬。

吐き出される息は白いが、男は寒さを気にする様子もなく颯爽と歩き、広い要塞の外郭と前庭を抜け、中央に位置する宮殿に辿り着く。

入り口で馬と外套を使用人に預けると、迷うことなく向かった先は王の居室であった。

ノックの後、応えを待って扉を開ける。

そこには逞しい身体の美丈夫がシャツとズボンだけという砕けた姿でソファに座っていた。癖のあるプラチナブロンドの髪をかき上げ、蒼天色の瞳を、手に持っていた文書から男に移すと、労いの声をかける。

「よく帰った、ヴィルヘルム」

名を呼ばれた男は、慣れた動きで臣下の礼をとった。

顔を上げて目にしたのは、威厳に満ちた王者の笑み。


アルムクヴァイド・グラディオラス・オルフェルノ。

この国の国王であり、華やかな容姿に恵まれ、雄々しさと賢明さを兼ね備えた、魅力的な人格者である。

27歳の若さであるが、王になって早10年が経つ。

鉱山からの貴石や鉄鉱石の産出のみに頼っていた前王時代とは異なり、アルムクヴァイドは交易に力を入れた。ハラヴィナの港湾を整備し、国を横断するウェナ河を利用することで大陸と海洋の流通の交差点としてこの国を発展させたのだ。巧みな外交術で交易を助け、関税をうまく調整することで商業を活発化させ、貿易の要所となったオルフェルノ王国はここ数年で莫大な富を得ている。加えて、他国への影響力の強化や外交努力によって、近隣の国の多くと同盟条約を結び、戦争を避けることで内政に集中した。戦禍に荒れた街道などの修復、平野の農地開拓や、医療制度の確立、教育にも力を入れ識字率の向上など、生活水準の引き上げは着実に実を結びつつある。

その治世を支え、王の盾であり剣であると誰もが認める、王の右腕。

冬狼将軍、ヴィルヘルム・セレジオ・オルヴィスタム・ドレイチェク。

二つ名の由来は、狼色と言われる紺青色の髪、灰色の瞳を持つその容姿、そして、救国の英雄としてこの国の信仰する狼の守護紋章を与えられたことにある。

7年前、そして昨年スナヴァールの脅威を退けた若き英雄。輝かしい戦歴が物語る様に、戦場ではその強さと冷徹さゆえに、凍てつく咆哮を持つ冬狼になぞらえて恐れられた。

彼が早朝から王の元を訪れた理由はすでに、王の手元にあるようだ。

「ただいま帰りました。早馬で詳細は届いたようですね」

「ああ、届いた。全く…ハイエナどもは自分のためとなれば勤勉だな」

王の呆れた声に、ヴィルヘルムは小さく笑う。

「彼らが情勢を読めないのは今に始まったことではないですけれど、予想以上に悪い時期を狙ってきましたね」

「忙しないことだな」

「全く」


彼が持ってきた情報は、国王暗殺の計画である。

王の施策は国民へ還元されるものも多く、利益を独占したい特権階級の者にとっては歓迎できないものも多い。前王の時代、意のままに政治を操っていた臣下にとって、王による専制政治に体制を戻したアルムクヴァイドは邪魔者でしかない。

しかし王の手腕は明らかで、声高に非難することは憚られる。民衆からの支持も高い王を玉座から引きずり下ろすことは困難だ。であるならば。

彼らが王を排除するには、弑逆するほか手段がない。

自らの命が狙われているにもかかわらず、王は面白がるようなそぶりさえ見せていた。勇猛果敢で知られる王にとって、命を狙われることは卑劣だと思っても、恐怖を与えるものではなかった。加えて、冬狼将軍と言われる切れ者が、何の対策も考えてないとは思ってはおらず、王の態度は楽観的なほどのんきだ。

「で、お前のことだ。すでに手は考えているのだろう?」

大国スナヴァールの脅威が去ったばかりのこの時期に、王を弑逆することは賢いとは言い難い。状況的に考えれば、もう少しアルムクヴァイドに国を安定させてから、実権を取り戻す方が効率的なのだ。

しかし、長く実権から遠ざけられた彼らにとって、10年という時間は短くなかったようだ。我慢は限界を越え、水面下であった彼らの動きは、隠しきれずに表に現れた。宮廷の裏で暗躍してきただけあって、彼らは謀をめぐらせることには非常に長けている。ヴィルヘルムですら全容を掴むのは容易ではない。埋めることの出来ない経験の差というものがある。

だが、用意周到で、用心深いはずの彼らの計画に、権力への執着と彼らを苛む焦りが、綻びを生じさせる。それを利用しない手はない。

首謀者を捕らえる罠は着実にヴィルヘルムの手で張り巡らされている。

己の主君であり、親友でもある王を弑しようとする者達を許す気はない。

湧き上がる忌々しさを綺麗に隠し、ヴィルヘルムはあえてのんびりと口を開いた。

「ええ、まあ。すみませんが、アル、貴方には囮になってもらいますよ」

「だろうと思った」

己を囮にされているのに怒るどころか面白がる王に、ヴィルヘルムはにやりと笑う。

「とはいえ貴方をわざわざ危険に晒すわけにはいかないので、実際の囮は別に作りますが」

これから伝える罠は間違いなく王には不快感を与えるだろう。

それをわかっていて、右腕となった男は笑うのだ。

「直接貴方を狙いたいところでしょうが、このスヴェライエに侵入し、衛兵を出し抜くのは至難の業だ。容易く危害を加えることが出来ないのは相手も理解しているはず。ならば、まず貴方が王城から出てくる状況を作りたいと考える。王城内から貴方を引っ張り出せばそれだけで暗殺の成功する率は高まりますからね。…そこで貴方に愛人を作ります。もちろん偽りの、ですよ」

理由はお分かりですねと、笑みを消すことの無いヴィルヘルムに、案の定、アルムクヴァイドの表情が険しくなる。

愛人を標的にすれば、王の性格上、自ら動くことは明らかだ。

「愛人役の女性は誘拐される前提なんだな?」

「…愛人という駒がどのような利用価値があるのか、貴方の出方を見るまでは決して殺しはしないでしょう。指示を求めるためにも実働部隊は、依頼人に連絡を取るはずです。動きが派手になる分、首謀者を見つけるのは容易になる」

「その女性の安全はどうなる?」

「万が一、何かあったとして、死ぬのはアル、お前じゃない」

灰色の眼は冷たく、事実を突きつける。

暗殺が成功すれば、せっかくの平和は露と消える。隣国スナヴァールは条約を破棄し、意気揚々と侵略を再開するだろう。そして軌道に乗り始めた政策は多くが潰され、国益は無益にも無能な貴族たちに還元される以前の構造に戻る。

王が倒れれば、ヴィルヘルムも諸共堕ちる。専制ゆえの動きやすさが、今度は逆に牙を剥く。

何かを耐えるようにアルムクヴァイドは深く息を吐き出した。しかし、怒りを隠しきれないのは親友としてヴィルヘルムへの気安さからくる甘えだ。

「碌でもない策を練るな、お前は。…囮の女性はどうするんだ?娼婦がそんな危険な仕事を引き受けるとは思えんし、ましてや貴族の女性などなおさらだろう。娘にそんな危険な役割を与える親がいるとも思えない」

「それがいるんですよね。気分の悪いことに」

流石にヴィルヘルムも苦い顔で、貴族紳士録広げると一人の男性の名前を指す。

「ダフィード・ルウェリントン子爵、ノルドグレーン伯の娘と結婚しています。人格者の伯爵とは違い、貴方の嫌いそうな御仁ですよ」

酷く信用のおけない目をした男だった。

王の周辺が慌ただしくなるのを知るかのようなタイミングで、ヴィルヘルムに接触してきた男。

調べると彼は、前王時代尚書部で機密文書に携わっており、数多くの謀略で物資調達を担当していた。特に非倫理的な行いで集めた人々を道具として効果的に使うことを得意とし、人身売買なども手掛けていたようだ。

今までの経験から、きな臭い空気には鼻が利いたのだろう。

そして、彼にとっては、娘であっても都合の良い道具でしかなかった。

人の親らしくない提案を、場違いなほど清々しいほどの笑顔で、

「私の娘をどうぞ貴方のためにお使いください」

そう言った件の子爵は、狡猾ではあるが、理知的とは言い難く、娘と引き換えに得られる何かを期待しているのが容易に知れた。

前王からの臣下は現権勢に反対するか、取り入る機会を窺っているかのどちらかだ。彼は後者であり、無慈悲、冷血漢との風評から、ヴィルヘルムを同じ穴の貉だと思っている節がある。嬉しくない誤解であるが、わざわざ解いてやる必要もない。

「本妻の子ではなく、侍女を手籠めにして出来た子どもです。最近になって娘と知り認知したようですが…こういう時利用するためだったのでしょうね」

「下種だな」

「下種ですね。同じ空気を吸いたくないくらいには」

表情は笑顔だが、目は笑っていない。

「ただ、その娘を使うことを決めた私もたいして変わらない」

「ヴィルヘルム」

息をつめた親友を、ヴィルヘルムは真っすぐに見据える。

臣下として…否、友として。

「アル、お前は気にせず前を向いて己のしたいことを追え。俺はその為に道を整える。やり方は気に入らないかもしれないが、俺は綺麗ごとが嫌いだ。非道、卑劣になろうとは思わんが、非情であっても構わないと思っている」

自分の手で守れるものの少なさを理解しているから、ヴィルヘルムは確実に守りたいものを優先する。そのためには手段は選ぶ気はない。

「…ただ、出来る限り娘は守ります。貴方が罪悪感に苛まれるのは目に見えてますしね」

ふと、息を吐くように口調を戻して厳しい眼差しを和らげた。

割り切れということは簡単だ。実際に行うことは困難であろうとも。

アルムクヴァイドは、罪悪感を抱く。しかし、それを抱えて前を向く強さを持っていると知っているから、ヴィルヘルムはそれを求めない。

思う先が同じでも考え方が違うから、二人はお互いの行動を尊重する。お互いのために。

王は、くつくつと笑った。そこに、ヴィルヘルムを責める色はない。

「お前、本当に悪役が板についてきたな」

「失礼な。国王補佐として暗躍しているだけですよ」

縁のない眼鏡も、話し方もすべて、作為的に文官を演じている。王城内にいる場合の処世術のようなものだ。10年前、若造であることを利用し警戒心を抱かせないよう役立たずの足元をすくい、逆に知識人には軍人と侮られないように立ち回った。それは功を奏して、ヴィルヘルムは今、国王補佐という、実質的な宰相の立場に居る。

けれど、彼の本分は軍人である。彼が守ると約束をするなら、王はそれを信じられる。

「まあ、それはともかく、王妃には話をしておいてくださいね。誤解されて彼女に泣かれるのは嫌ですから」

ヴィルヘルムの言葉に、アルムクヴァイドは頷いた。

正妃ルクレツィアは和平条約の人質としてやってきた、スナヴァール第一王女である。間違いようのない政略結婚であるが、二人の間には愛情が芽生え、その結婚は幸せなものであった。聡明でありながら、慈愛に満ちた美しい王妃に必要のない悲しみを与えたくはない。

「俺だって、あいつに泣かれたらどうしていいかわからん。ちゃんと伝えておくが…非難されることは覚悟しておけよ」

「承知しています」

誠実で優しい性格の正妃が囮に使う女性のことを気にかけないはずがない。叱責か非難か、何かしらは受けるだろう。

「近衛団長にも策謀の件は伝えてあります。城内では危険は少ないかと思いますが、一応王妃にも女性騎士を付けましょう。貴方は…必ず剣を持ち歩くように」

護衛を付けようにも、王は要らんと一言で済ますのが目に見えている。王は自らが、最強と恐れられる冬狼将軍と渡り合える数少ない戦士なのだから。

常に甲冑を着ていてくれて構わないと伝えれば、流石に王は顔をしかめた。

その表情に、ヴィルヘルムは溜飲を下げると、退室を伝える。

室内に備え付けられた振り子時計はそろそろ朝食の時間を指していた。

「ゆっくり王妃と朝食をお楽しみください。お二人の時間がなかなか取れないので何とかしてくださいと、侍女長に訴えられたところですからね」

「それはすまん」

「では、また執務室で」

「お前、休まないのか?」

「さすがに汗は流しますが、休むのは仕事を片付けてからにしますよ」

国境のオスカリ砦から夜通し馬を走らせて、身体は疲労を感じているが、鍛えられた身体は一日程度徹夜したところで大して響くことはない。

全く疲れを見せない右腕に、王は「相変わらず頑丈だな」と笑う。

それに対してヴィルヘルムはにこやかに「お互い様ですと」返すと、部屋から辞する。

王はそれ以上、引き留めることなくその背を見送った。



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