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診察室の窓辺で小さくなっていく馬車の姿を見送りながら、ヤンはやれやれと笑う。
子供の頃から動じない男が、子供のような娘に振り回されるとはとんだ笑い話だ。
初めは、怪我をさせた負い目に大切にしているのかとも思った。
だが、誠実に娘に対応するあの灰色の瞳が、誠意とは全く異なる情火を揺らめかせていることに気がつけば、男が望むものは想像に易い。
あの男は娘を本当に愛している。
ヴィルヘルムとヤンは、グランフェルト領で生を受けた。領主の息子と、領主の専従医師の息子である二人が敷地内で初めて遭遇したのは領主の屋敷にある迷路庭園だった。
大人の上背よりも高いイチイの生垣の迷路の中は、好奇心の塊である子供にとって格好の遊び場であり、屋敷に連れられてくるたびに彼はそこで過ごしていた。
その日、いつものように駆け回っていたヤンは、角から現れた少年を避けきれず、彼を吹き飛ばした。出会い頭に正面衝突をした相手が、屋敷の子供であることは、さすがにヤンでもわかる。高級そうな洋服を着た少年、それがまだ幼いオルヴィスタム家の次男ヴィルヘルムだった。その頃はヤンも大して大柄ではなかったが、4歳と7歳ではそもそも体格が違う。
尻餅をついた子供が泣くかと思って、顔をしかめたヤンに、ヴィルヘルムは痛そうな顔をしたものの、泣くことも、ヤンに怒ることもなく立ち上がった。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫。…でも、此処では走らないで欲しい。お母様も時々ここに来るから」
洋服の砂を払い落とすと、少年はそう言って顔を上げた。
自分のことではなく、母親の心配をした少年は、格好だけでなく、中身も立派だ。
珍しい紺青の髪に、銀にも見える灰色の瞳。
まさに、教会の狼と同じ色をしている少年を、ヤンはまじまじと見つめた。
「あ、ああ、悪かったな。もうしない」
反省は本当だった。だが、移り気な子供の関心はその色彩に移っていた。
「それよりお前、まるで冬狼様みたいだな」
オルヴィスタム家は元来青い髪の一族だが、それにしてももう少し明るい色をしている。
そして、その瞳も青が多い。
じろじろと遠慮なく覗き込むヤンに、ヴィルヘルムは身体を反らせてにじり下がる。
「すっげー、綺麗だな」
何の衒いもなく、褒めるヤンに、ヴィルヘルムは目を丸くする。
その反応に、ヤンは不思議そうな顔をした。
「?俺、なんか、変なこと言ったか?」
「…この色をそうやって褒められたことは、なかったから」
この頃はまだ、彼の兄がその色が神に対する不敬だと、理不尽に少年を責めるとは知らなかった。だから、ただ、ヤンは率直に思ったことを口にした。
「なんで?冬狼様と一緒ってかっこいいじゃん。その色を持つってことは加護を貰っているってことなんだぜ?俺なら、自慢するけどな」
その言葉は、ヴィルヘルムには目から鱗だったらしい。
「人によって、全然考え方は違うんだね。…そうか」
「ん?」
「ありがとう。少し、自分の色を嫌いになりそうだったから」
今思えば4歳児の台詞ではなかったが、あの頃のヤンは本能のまま生きる腕白少年だったから、その言葉になんだかモヤモヤしたけれど、その理由まではわからない。
ただ、ヴィルヘルムがすっきりとした表情だったから、ヤンは快活に笑った。
「おう。なんか言われてたんだったら気にするな。人なんて勝手なことばかり言ってるものだって父さんが言ってたぜ。自分がどうしたいか、どうありたいか。それが一番大切なんだってさ。よくわかんないけど、俺は俺だってことだよな」
今考えてみれば、ただの自己中発言なのだが、あの頃のヴィルヘルムにとってはそうは取らなかったのだろう。彼の信念の根本はこの時の会話らしいと聞くと、何とも言えない気持ちになる。
だが、確かにあの時、ヤンは真っ直ぐだった。
大人になるにつれて、それが難しいものだと知るようになったが。
ヴィルヘルムはあの頃と変わらない。
信念と言い換えてもいい、その自分の思いに一途で真っ直ぐだ。その強さが、多くの部下を魅了するのだろう。
今までは己の進む道にだけ、彼はその思いを向けていた。
だが、今、同じ強さで彼女に向けられた想いは、言葉にされずにそこにある。
彼女自身への執着を男が口にしておらず、娘が男の元を去るのならばそれは仕方のないことだろう。
しかし、幼馴染の男は手放す気はないと明言した。
あの男は、手の届くところに彼女を閉じ込めておくつもりなのだろうか。
囚われていると知らずに、逃げられない少女。
そう思うと、医者は少しだけ少女が気の毒に思えた。
相手のことばかり考える娘を捕らえるために、あの用意周到な幼馴染がどんな搦手にでるのか思い浮かべると、少し苦い。
だが、不意に気付く。
捕らえられて、変えられたのはあいつの方だ。
蜘蛛の糸を張り巡らすように罠を巡らし、逃げることなど考えさせないようにすることも出来るだろうに、ただ傍に居て優しくなどしているから、冬狼将軍の混じりっ気のない純然たる厚意だと、彼女が誤解をするのだ。
…絡めとることができないほどに、純粋にあの男がこの娘に魅かれているのかと思えば、それはそれで感慨深いものがある。
あいつは離れていこうとしている娘をどうやって引き止めるつもりなのか。
彼女の罪悪感は淡い恋心故のものだ。
あんなものが、尊敬や憧れなわけがない。
それに気が付かないのであれば、恋は盲目とよく言ったものだと、思う。
娘の言葉の端々に、ヴィルヘルムの傍に居たいという想いが散らばる。
それがヴィルヘルムのように生々しいものでないとしても、本人の自覚、無自覚に関わらず、彼女の中にあるのは仄かな恋慕の情だ。
いい年をした男が、恋愛に振り回されるなどどうかとも思うが、純真な心を返され、それを大切に思う気持ちはわからないでもない。
そのままの娘を愛するがゆえに男が動けないのであればそれはそれで、微笑ましいものだ。
医者でも治せない病の治療薬はお互いが持っている。
ただ、それは周りの人間が口を出すことではないのだろう。
医者として、幼馴染として、ヤンは見守るだけだ。
当事者にとっては切実で、切なくて、楽しむような余裕はないだろう。
当事者ではないから、この焦れったい恋の行方をヤンは少々面白く思う。
「ちょっとは、協力してやったんだ。取り逃がすなよ」
珍しく、男は皮肉のない笑みを浮かべた。




